2010年10月 5日 (火)

インドへの道 番外

結局かるたにするかもしれませんが、番外編。

約2年前インドの北東部、シッキム州ガントクをホームステイで訪れた時は友人の義理の弟の結婚式への招待という形で親戚同様に大変よくしてもらいました。彼が今日誕生日なのでメッセージを送ったところ、こんな返事が返ってきました。

Thank you Nanchan....i hope u are fine too..so when r u visiting us next?

areがr youはu だけで書かれています。日本の学校英語だったら落第だけど、これが普通。

それにしても何と嬉しいメッセージでしょう。数日前には昨年春の池袋地域運動会でほんの一時お話ししたのが縁で今もやり取りが続くムンバイの方からご自身の経験に照らし、「親を亡くすというのはそうとうにしんどいこと。それを乗り越えてしまえばそれまで以上のエネルギーと能力を伴って戻って来れるよ」とのメッセージ。「乗り越える最善の方法は、前向きに考え前向きに行動すること」とも。

来年こそ、きっとまたあの街の灯り、あの山道、あの雄大な山の景色を求めていけると良いな〜と思いつつ、今はじっくり自分とむきあう毎日。とてもしんどいですが前を向いて着実に歩みを進めています。

| | コメント (0)

2010年1月27日 (水)

インドへの道vol.24 下書き

先週から障害者就労支援センターへの通所をはじめました。ヒッポを始めた頃、「社会復帰はしない、できることを最大限やって社会進出する」とブログやかるたで宣言していた時には考えてもいなかった地平がひらけつつあります。もうすぐまる4年になるヒッポでの時間は、まさにリハビリの時間そのものでした。その間インドへ2回も行ったことは、やはり奇跡的なことでした。鳩ヶ谷地区のヒッポで今年も今週末JICA研修センターへ世界各国から研修に来ている方々のホームステイ受け入れがあります。自分のインドはまさにこの時がスタートでした。我が家は受け入れをする余地がありませんが、今年もきっといろいろとすてきな出会いがあり、その出会いのいくつかは今後ずーっとつながり、ひょっとするとお互いの人生に色を添えるようなものになるのかもしれません。

皮肉にもさらにファミリーへ出る時間は制約されつつあります。昨年は朝型にする過程で午前中のファミリーやワークショップに出るなんて言うことも考えていましたが、体調がどんどん良くなり、しないといっていた「社会復帰」へのステップも予想以上のスピードで進んでいます。まさか1月中にこんなにものごとが進展するとは思っていませんでした。その分エネルギーを「社会復帰」プログラムに集中させています。

これでいいのでしょう。プロセスなのです。ヒッポを始めた瞬間から多言語のあかちゃんになり、4年でいわば思春期がやってきたようなものです。主婦だったらフェロウというものを考える時期なのかもしれない。一歩踏み出す、カバジンみたいに掟をやぶってひっくり返ってみる。そこに見える地平はカバジンがみたように「へ〜、空ってこんなに広いんだ」と思うような視野の広がりをもっているようです。

鳩ヶ谷から越谷にかけてのヒッポメンバーが今年、韓国交流へ出かけます。隣の国ですが言葉も習慣も違う世界へ、ホームステイという形でどぼんと飛び込もうとしています。そこで準備会をしているのですが、なまえが「しろめぼじゃ」の会。これはカバジンのCDにたくさん出てくる言葉で「実験しよう!」というような意味です。今まで知らぬ間にたまっていた音を口にしたり、まさに実験だらけの準備会。

今の自分も自分自身を実験台にして日々の具体的な復職へ向けてのリズム作りをしています。「ここで無理をしたから、疲れがでてきた」「日々就寝時間が早くなっている結果、朝のリズムができつつある」などと、日々の過ごし方をワークシートに記入し、カウンセラーや主治医と検証しながら翌日に、翌週に活かすという研究の日々(笑)。そのワークシートには短期・中期・長期に分けて設定した目標が記載されています。毎週の研究成果(!)をふまえて短期/中期は柔軟に変更しより具体的に細かいものになってきていますが、長期目標には常に「インドへ」とあります。CDをランダムにかけっぱなしにしながら聞き続けることはできるので、音を体の中に溜め込みながら、それらの音が意味を持つ言葉に置き換わる日々を楽しみに一日一日を過ごすこのごろです。

| | コメント (0)

2009年8月30日 (日)

かるたvol.22下書き

かるた21号は自分が子どもたちに関心を寄せていてとても面白い経験をさせてもらっていることを書く予定です。なのでとばして22号です。

下書きとして、埼玉中央地域のメーリングリストに投稿したものを少し編集して載せます。

20日から韓国家族交流へ出発します。25日に帰ってきます。合宿には韓国お土産話をもって参加できそうです。

昨年の合宿は体調不良で参加できませんでした。準備委員の一員だったので準備会にも何度か出ましたが、すみっこで横たわりながら話を聞いている状態。勝手に自分自身の過剰なミッションを作りそれをこなせなくて気持ちも体もぼろぼろになって泣く泣く当日キャンセルしたように記憶しています。

あれから一年たちます。

この間池袋地域や下町地域、埼玉東地域や渋谷地域の特にしぶたま246(池尻からニコ玉にかけて)のみなさんとわったがったしてきました。富士山合宿にも行ってきました。そちらでは徹底的にお客さんになることを心がけました。

これも勝手にそう思っていたのですが、自分の所属する埼玉中央地域というのが活動が極めて活発でそれが一種重荷になっていたようです。「たのしくなければヒッポじゃない」はずなのですが、昨年の合宿で勝手に自滅した体験がトラウマとなり「やらなきゃ」モードになってしまうのです。そんなことで以前に較べると足も遠のいていました。今年もオリジナルSADAあり、塗り絵ありと盛りだくさんで、自分が何か手を出しているわけではないのに負担感がすごかったです。なのでなるべくよそへ行ってお客さんする「訓練」をしてきました。

昨年インドから帰ってから、生活のリズムを作る訓練とともに、できないことは潔く放り出す訓練もしてきました。「勝手に引き受けて、抱え込んでつぶれる」サイクルが他の分野でもおきていることが医師の指摘で分かりました。それを毎日デイケアに通いながら「抱えずになんでも話す」ことで客観的に「無茶」を指摘してもらい、その部分はえいやと投げ出す、ということを数ヶ月繰り返してきてどうやらそれがどういうことなのか体感できるようになって来ました。先月父が亡くなってそれも韓国へ行くまでずっと抱え込むつもりでしたが「何のために友達がいるのか。話してしまいなさい」と言われて、先月のクローズ前に行ったポレポレFではじめて何食わぬ顔で話したら、みんなをびっくりさせてしまったけれどすごく楽になりました。それから他でもそのことがいえるようになりました。言えずに抱え込んでいたら明日韓国へ行けずにつぶれていたかもしれません。ずっとがんばって(そんなきもちは全然なかったけれど)あちこちのファミリーをまわって特に子どもたちと真正面から集中して向き合うことで、今までとはちがう度胸もつきました。本当に真正面から向き合えば子どもたちも自分に向き合ってくれることがよくわかりました。それは異国の人と向き合うのでも同じことが言えると思います。

おとといからは「出発前うつ(笑)」。とても気持ちがナーバスになり「お土産はこれだけで良いのか、たくさんもらったミッションはちゃんとやってこれるか」と、もんがもんじもるげった状態。でもこれも一緒に韓国へ行くメンバーと分かち合ったら楽になれました。考えればインドへ行く前もいつもそう。ナーバスになって荷造りできず、いつも徹夜で荷物をつめて早朝日暮里から成田へ向かうのです。現地へ着いてしまえば負けん気がふつふつと沸いてくるので、それを信じて今回も出かけます。インド行きではいつも一人で抱えて処理してきた気持ちを、みんなと分かち合って行けるのは心強いです。

出発が決まってから埼玉中央のファミリーへ少しずつまた顔を出し、特に子どもたちの交流前後のファミリーで本当に力をもらえました。塗り絵もSADAも、自分が気張る必要ないし、自分が楽しめるところだけ楽しめばいいとやっと思えるようになってきました。人数が多いからたくさんのことができるけれど、それは一人じゃないからできること。みんなの「たのしい」が形になるのが合宿だと心底思えるようになりました。そうしたら昨日の診察で「ふじさきさんはもう坑うつ剤はいらないと思う。エネルギー配分をもうちょっと均す訓練をしていけば、仕事もできるようになるしデイケアも卒業できるんじゃない?」と言われました。

卒業!!いい響き!

常に動いているからそういうことができるようになったと思います。自分が行く「場」があるから動いていられたと思います。合宿では、そういう場を作っている皆さんにいい意味で甘えてしまおうと思います。そこから次の一歩が始まる気がしています。

今年は合宿が楽しめそうです。

| | コメント (0)

2009年5月24日 (日)

インドへの道vol.19(下書きその3)

いいかげん、書きかけのかるたを仕上げます。

ガントクからニューデリーへ戻るとき。「よくやってきたなあ」とそれまでの日々を思い返し、しみじみとしてしまいました。そして「ここまでやったらもう最後のニューデリー3泊をすっ飛ばして今晩の飛行機で帰りたい」と思ったりしました。いや、帰るのがいやになっていました。努力したつもりは全然ありませんでしたが、結果的にはすごくがんばっていて、いまさらそれを中断するのがもったいなく感じられたのでした。

しかしその後のニューデリー3泊はそれで大いに意義があったのです。疲れ果てていて外出することはできませんでした。それどころかおなかが痛くなってしまったのです。最初は分からなかったのですが、半日ぐらい痛みを抱えて正露丸を飲んだりしているうちに気がつきました。その前の年のインド交流で、自分はインドでまったくおなかを下さなかったのに帰国した翌日ひどい腹痛におそわれました。そのときは「インドの水に慣れすぎて日本の水にあたったか?」と思ったのですが、そうではなかったのです。極度の緊張から解放された反動としてでてきた腹痛だったのです。それが今回は、帰国しないうちにニューデリーのホテルですっかりリラックスしたがために早くもそういう症状になったのでした。その証拠に丸一日ですっかり治ったし、帰国後おなかが痛くなることはありませんでした。ホテルステイ中、まだまだ外は異国なのに全然そんな気がしませんでした。そのくらいインドの生活&交流にどっぷりと浸かった1ヶ月だったのでした。

初回のインドからの帰国日、飛行機に乗るのにまたも緊張でいっぱいでしたが、今回は気持ちに余裕がありました。そして飛行機に乗ってびっくり。エア・インディア便なのに日本人のアテンダントさんが乗っていたのです。成田では飛行機に乗った瞬間からインドになりましたが、ニューデリーでは飛行機に乗ったらもう日本のような気がしました。

そして帰ってきたその日から、次のインドへの道がはじまったのでした。

| | コメント (0)

2009年4月 8日 (水)

インドへの道vol.18

すっかり忘れたか?と思われるインド出発前の心境を。

一年近くにわたって、「フーリエの冒険英語バージョン」を生メタしてきました。1節から4節までだいぶ言えるようになってきたけれど意味が分からない部分もおおい。「意味は分からなくてもリズムや英語らしい波をつかめればいい」と割り切ってきました。その代わり英語に触れる絶対量を増やすため本郷教会の英会話講座に週1回通って実践英会話にもチャレンジしました。当初4月頃は前年の初めてのインド交流で2週間英語オンリーの生活をしてきた自信から、「何とか話せるのでは?」と期待していましたが、クラス分けの簡単な面接で言いたいことが言えず、結局ビギナーと認定されました。ちょっぴり悔しかった・・・。でも仕方がありません。教会でほぼ同じメンバーと半年ちょっとにわたって英会話を、勉強すると言うよりヒッポでいえるようになったフレーズや言い回しを駆使してなんとか伝える努力をしてきました。テキストはあったのですが、それにこだわるのではなく、そこに出てきた言い回しを使って自分自身の考え方を話すことに授業の重心がおかれていましたので、違和感なく取り組むことができました。短い(2時間)時間ですが、自分のそのときの全体で一生懸命話をしてきました。当初に較べると少しは話せるようになった実感があります。そして仕上げのつもりで一泊のキャンプに参加しました。一泊2日、ずっと英語で話す経験はなかなかのものでした。自分のうつ病体験も英語で話すことがあり、それを参加者みんなで共有してもらって言葉を返してもらったのもよかったです。

並行してフーリエの冒険もあちらこちらのファミリーでメタ活してだいぶ切れ込んできました。リンスンかるたを作ったのもすごくよかったです。あれを朗読することで全国のファミリーへ出かけても自分の抱えている現状を簡単に話すことができるようになりました。初めて訪れるファミリーでは、精一杯子どもたちと一緒にSADAしたあとアンジュセヨでかるたを朗読すると言うスタイルが定着しました。子どもたちが熱心にきいてくれるのです。大人にも分かりやすく伝わりました。やはり全国のファミリーを回っている名古屋のエギちゃんが「子どもたちとの接し方を自然習得したのですね」といってくれました。そういわれると確かにそうです。以前「ヒッポに入って英語と子どもがこわくなくなった」と書いたことがありますが、今は積極的に子どもたちとかかわっていけるようになりました。とても大きな変化です。

こうした1年間の成果を持ってインドへ一ヶ月行きます。「成果」と思えているのは実は些細な変化かもしれないけれど、でも確かに前年とはちがう自分を携えて一ヶ月。さあ、どうなりますか?

出かける前はこんな気持ちでした。引き続きかえってきてからの気持ちを19にまとめあげたいです。

| | コメント (0)

2009年3月 7日 (土)

インドへの道vol.20

インドへの道19がかきかけになっています。そして実は18をとばしています。18は書いたつもりになっていました。2回目のインドへ行く直前に当時の気持ちを書こうと思っていて、アイデアも練っていたのですがちょっとあわただしくて文章化できないままでかけてしまったのでした。

だったら18と19を早く書け、というところなんですが。もう3月でしょう。自分の歩みはどんどん進んでいるのです。そして18、19とはどうしても一緒にできない話を書きたいので、ここで項を改めてvol.20として書き進めます。18、19も鋭意書き出します。

帰国してから年が変わるまでの半月もクリスマスイベントがいくつかあり、今年はクリスマスSADA(12DAYS)を何回もできてよかったです。そして年明け、先日もここに書いたように御殿場での富士山合宿に参加しました。富士山合宿では「できるけれどあえて引き受けない」ことを自分の課題に据え、2日間をなるべくテンションを上げ下げせず「今」ある自分の力の中でいかに楽しむかにチャレンジしました。あの2日間については「よく力をセーブしてダウンせずに過ごせた」と自己評価しています。でも意識的に続けないとすぐハイテンションになってつぶれてしまいます。この話題は本館のほうで詳しく書くことにします。

課題をクリアしたごほうびとしていくつかの出会いがありました。その一人が三茶ファミリーのフェロウ林イーチェです。イーチェは以前鳩ヶ谷の講演会で講師としてきてくれたことがあるのですが、午前中で体調悪く聞けなかったのです。そのことすら忘れていた自分でしたが、パネルディスカッションでの話を聞いてぜひつながりたいと思って名刺を渡しに行ったらイーチェから「鳩ヶ谷、いったことあります」といわれて、そのままするっとつながったのでした。そしてその後の富士山合宿反省会、そして同じ場所で開かれる「わくわくあぶらもす」の会に参加して出会ったのが池袋のフェロウ根本イプニとそこのメンバーちゃちゃでした。

イーチェとちゃちゃは最近のヒッポの話題の中心のひとつ。12月のだいちゃんのあいさつ文に紹介され、今月のひっぽ新聞にはお二人の寄稿が載っています。2人に共通するのは日本にいながら多言語の環境にいたことでした。イーチェのご両親は台湾人。家を出ると日本語、家の中では台湾の言葉、お客さんが来ると北京語やほかのことばが飛び交っていたそうです。ちゃちゃはお母さんが台湾人でお父さんは日本人、やはり小さい頃から日本語、そして台湾や北京のことばが飛び交う家で育ったのだそうです。しかもご主人は在日の韓国人。詳しくはひっぽ新聞42号にあるお二人の寄稿を参照してください。ひっぽに出会ってお二人ともご本人が楽になっただけでなくお子さんの中で多言語が育ちつつあるそうです。

それから自分の中でこの2人(イプニもあわせて3人)と一緒の場をすごしたいとずっと思っていました。ようやく先週三茶Fでイーチェと、今日池袋オリンイFでイプニとちゃちゃと時間を共にすることができました。イーチェのファミリーではたまたま風邪の影響で参加メンバーが少なく、イーチェの2人のお子さんと体力勝負で遊びました。そしてリンスンかるたを中心に少しはしょりながら自分の話もさせてもらいました。このファミリーでは先日旧正月のお祝いでもちよりをしたそうです。ハロウィンやクリスマスでもちよりパーティをするファミリーは多いけれど、旧正月を祝う人たちだってたくさんいるんだからほかのファミリーでも旧正月もちより、どうですかね。国際理解にすごく役立つと思うなあ。今日のオリンイFでは小笠原すーちゃんと娘さんの台湾報告企画があったので自分の話はしませんでしたが、みんなで楽しくSADAしたりメタかつしたりしました。イプニの息子さんは人見知りまったくしなくて、初めてあったときも(発病してからすっかりメタボで図体がでかいので)「河馬、河馬」と容赦なく自分のことを呼ぶのです(河馬ってひっぽのことだよね)。今日やっと「なんちゃん」を覚えてもらったけれど・・・次(多分池袋運動会)まで覚えているかな?ちゃちゃは三茶Fにも来ることがあるそうなので、三茶でまたお会いしたいです。以前山梨のチャムサランFでフェロウのボニータの韓国語がとてもきれいに素敵に感じられましたが、今日イプニの韓国語を聞いてまた同じ感覚がよみがえりました。

この人たちとの出会いもあり、また横浜エリアのひっぽメンバーさんたちでホームステイ受け入れしたというインドネシア看護師・介護師さんの話もあり、そうしたことの中で自分のアジアに関する知識の乏しさを強く意識するようになりました。インドに関しても実は行ってから興味を持っていろいろと歴史やその他を調べて勉強?しているのですが、やはり知識も、自分にとっては知識でしかない歴史や文化の中で生きてきた、あるいは生きている人との出会いで自分の中でも実際にあること、あったこととして生の感触を持ってくる。ことばももちろんですがそういう生の感覚をもてることが、相手の懐に飛び込むためには必要なのではないか。そんなことを思えるようになった今年の自分です。

| | コメント (0)

2009年3月 1日 (日)

インドへの道vol19(下書き2)

1度目のインドから帰国して、最初のかるたではヒッポのファミリーで取り組んできたことがすべて役立った、ファミリーが準備の全部だったと書きました。2回目のインドはもっと大変でした。ヒッポに限らず今までの自分の体験がさまざまに役立ちました。インドで毎日どう過ごしたかという話題も書きかけなのですが、半分見ても「これは移動ばかりだな」というのはわかると思います。ホストのニラージュ宅に宿泊したのは3週間ちょっとの滞在中数えるほどで、あとはニラージュの家の上に住んでいる弟さんのマネージュ宅や奥さんのコウシュリャの実家などあちこちへ移動しながらのホームステイでした。ダージリンではウエディングセレモニーのためにホテル一泊もしました。ここ、いいホテルなのは雰囲気から十分伝わるのですが、でも日本の水準から言うと「花婿の親族一同が泊まるホテルがこんなものか」と思うくらいのものでした。今回は帰路に使う飛行機の時間が大幅に繰り上がったため、ふもとの町スゥイリグリで一泊せざるを得なくなりました。ここの400ルピーのホテルはさらにいっそう大変な感じでした。ホテルに電話がなくて、通りの向かいにある公衆電話屋(そんなものがあるんです)から無事の連絡をしたりもしました。

自分が今まで国内はほとんど旅行しつくしていて、さまざまなレベルのユースホステルに泊まっていたからこそ大丈夫だったと思います。もちろん自分が泊まったホテルはバックパッカーの人たちからみれば贅沢の部類に入るホテルでしょうが。スゥイリグリに向かうときも乗り合いジープ。乗り合いは分かるけれど、前列にも後列にも4人ずつ乗ってさらにその後ろの荷物置き場に3人乗るというもの。荷物は天井に紐でくくられていました。途中パンクがあって時間がかかったりもしました。自力でホテルやオートリクシャの値段交渉もしなければならなった・・・。最初は値段交渉どころかぼられても反論できなかったくらい。ぐーんとたくましくなりました。ニューデリーに帰ってきたときには、今まで国内の旅行会社経由で予約していたホテルのフロント担当者と話して、次回は直接安く泊まる算段までしてきました。

ダージリンへの往復の途中、村人がにんじんを束にして売っているところに遭遇しました。そこで花婿の家族が調理用にたくさんのにんじんを買ったのですが、そこからさっそく一本渡されてみんなで生のにんじんをぼりぼり食べました。サラダにしているわけでもない生のにんじんをうさぎや馬のように丸ごと食べたのですが、これも国内でやっていたことなのでまったく抵抗なし。甘くておいしかった。

思い出すほどに「よくやってきたよなあ」という感慨が大きくなります。でも一番役立ったのは「分からなくて当たり前」という交流へいってきた人たちの体験談だったでしょうか。「分からなくてもおどおどしない」「分かるときは分かる」。これはヒッポの言語習得で実践していることなのですが、それが活きました。警戒しなければならない場面もあるんだけれど、基本的にはオープンマインドでいったら移動中に思いがけず親切にされることもありました。

まとまりませんがもう少し下書きを続けます。

| | コメント (0)

2009年1月31日 (土)

インドへの道vol.19

,帰国してからなかなか言葉にならなくて、まだ現地での過ごし方も書きかけ。でも少しずつかけるようになってきました。配布用かるたではいろいろと編集すると思いますが、とりあえずのかるたvol.19です。

先日1月11~12日の富士山合宿で、自分はインド交流の部屋を作ってもらって話しました。初めて自分の話を聞く人も、そうでない人もいたのですが、一ヶ月の交流とはいえそこに至るまでの経緯を話さないと伝わらないと強く感じました。今までの経緯を簡潔に伝えるのにはなんといってもリンスンかるたが役に立ちました。そして今年もいくぞ・・・という流れの中で、このかるたをまた1からはじめることはできないと思いました。だから連番です。ただ、この19号分を配るのはかなり大変なことになってきました。リンスンかるたを読んで、興味をもってくれたフェロウに代表して渡すしかないかなと思っています。このvol.19はいっぺんに書けないので少しずつ書き足していきます。

| | コメント (0)

2008年9月15日 (月)

かるたインドへの道 Vol.17

昨年もかるたをいっぺんに2号分だしたことがありました。今回もできごととして分けて書いたほうが良いと思うので引き続いて17号です。

九州旅行中、インドのニラージュの娘さんであるメグナからいきなりメールが来ました。お父さんのニラージュに自分専用のメールアカウントを作ってもらったとのこと。8月15日はインドの独立記念日なので家族で正装するのだと書いてきてくれました。とてもうれしかったのですが、旅先なので返事は帰宅してからにしようと思ってその日は過ごしました。すると翌日またメグナからメール。「どうして返事をくれないんだ、私は怒っている」との内容です。ありゃりゃと思いあわてて簡略な返事を書いてメールしました。とともにそのメールに書いてある「I'm angry」という言葉に思いをめぐらしました。教科書どおり読めば「私は怒っている」ですが、この言葉は誰が投げかけたものかでずいぶんとニュアンスが異なってきます。もしニラージュがよこした言葉だとすれば自分は何かよほどのへまをしたことになり、大至急挽回に努めなければならないでしょう。でも9歳のメグナが書いてよこした文章です。ないがしろにして良いという意味ではありませんが、「せっかくお父さんがメールアカウントを作ってくれたから日本から返事が来たらすごいと思ってメールしたの。だから早く返事のeメールを頂戴」というニュアンスにとれます。つまりひとつの文章の意味にはその相手によってずいぶんと裁量の余地がある、言葉は話す相手があって意味があるということなのです。

よく考えれば自分たちは日本語の意思疎通の場面でこうした事を意図も簡単にこなしているはずなのです。言葉が含む空気を読んでいるのです。ニュアンスを読み取るということが苦手な自閉症(アスペルガー障害)の人以外ならばおおむねできるはずです。自分がうつ病になったのも両親がお互い発する微妙ないさかいのにおいを読み取って小さい頃から間に入ったりしていたことが原因だと思われます。1歳にならない赤ちゃんでも両親の不穏な雰囲気を読み取って無理ににこにこっとして両親の間に入ったりしようとするのだそうです。そうしないと自分自身の安全が保たれないし自分に向けられた言葉でなくてもいさかいで飛び交う言葉は特に周囲の子どもたちには刃物となって向かってくるからです。こうした特殊な例でなくても言葉を交わす際には他のいろいろな状況を総合しながらその言葉の裏に含まれているニュアンスまで読み取っているものなのです。こういうことは普段意識しないことです。事実メグの「I’m angry」という言葉を読むまでそんな事意識すらしていなかったのですが、自分の母語でないからこそそういった当たり前すぎて無意識にやっている言葉のやり取りの不思議を感じてしまったといえるでしょう。

帰宅してから自分は旅で撮った写真をeメールに添付して送りました。すると「They were great.」という返事が帰ってきました。自分は旅行に行った先を詳しく教えてあげたいと思い、英語版の日本地図帳を 日本文化の簡単な解説書と一緒にEMSという国際速達便で送りました。1週間くらいかかるだろうと思っていたらなんと5日で届いてしまいました。そしてこんなメールが届きました。鳩ヶ谷雑記本館の記事とダブりますが原文を載せます。

dear nachan,
THANK YOU THANK YOU THANK YOU THANK YOU THANK YOU THANK YOU SO MUCH
I WILL ALSO SEND YOU SOMETHING BACK.

MEGHNA

P.S THANK YOU ALOT

大文字小文字の使い分けなどがなくて試験で書いたら落第しそうな文章ですが、いかに喜んでくれたかがわかりますね。こんなやり取りを重ねていると言葉の意味は実は無限大なのではないかと思えてきました。

| | コメント (0)

かるたインドへの道Vol.16

8月は10日間にわたって西日本、九州を旅してきました。熊本の領領ファミリー、鹿児島の恵りんだファミリー、鹿屋のホイホイファミリー、そして天神にある西日本事務所のワークショップ。西日本事務所のワークショップはお盆休み前で参加者が少なく、普通のファミリーとほとんど変わらない内容でした。そして熊本では体験の方もいらしたので出来ませんでしたが、ほか3ヶ所では20分強の時間をもらってりんすんかるたの朗読をしてから紙芝居を見てもらいました。自分のバックボーンから今目指している事までがとても簡潔にまとめてあるのでどこの場でも大好評!そして「すごいねー」という言葉とともに「インド着いたらメール頂戴」(鹿児島の西村めんちゃん)など色々な反応、激励をもらいました。自分を応援してくれる人がもっと広がったので、励みになってとても良かったと思います。

なんといっても一番刺激的だったのは熊本の石見昌治さんとの出会い。昌治さんは85歳。ひっぽ新聞33号に出ていたので読んでみてください。肩書きが「通訳ボランティア」という昌治さんはヒッポ西日本の講演会にもひっぱりだこ。「夢をあきらめない」というテーマで話す昌治さんの講演会をぜひ聞きにきたいと思いました。ひっぽ新聞で石見昌治さんを紹介しているのは、自分の応援団の一人でもある千葉の森本グリグリの息子さんです。彼はひっぽ新聞の中で「多言語を習得していくのと同じで、熊本弁もファミリーで容赦ない熊本弁シャワーを浴びているうちに自然習得できてきた」と書いています。ずーっと関東に住んでいたものにとっては熊本弁は分からないところも多いはず。自分が熊本とほぼ県境を接する福岡の八女で仕事したときも上司の言う事が3度聞いても分からなかったものです。最初は苦労しただろうなあと思います。考えてみるとその時自分は八女に骨を埋めるつもりでいたので、分からない八女弁を一生懸命真似していました。上司は「無理している」と思ったようです。というのも日本国内なら共通語が関東の言葉をベースに作られているので、いわば英語圏の人がインドで英語が問題なく通じるのにあえて苦労してヒンディ語を話そうとしているようなものだったのです。でも本気でそこの土地の人と仲良くなろうと思ったらやはり相手の言葉を話したいと思うはずだと思うのです。

それにしても・・・。これだけ自分があちらこちらに出かけていって、たった20分で病気のことからヒッポとの出会い、ホームステイ受け入れ、そしてインドへ行き、さらに今年も行くことになった背景まで話すことが出来るのはりんすんかるたのおかげです。小学生のりんすんが自分の「かるた」を読もうとしたこと、それが「りんすんにも分かるかるたを作ろう」という思いを抱かせ、さらに発展して朗読という独特のスタイルで紙芝居をやるところまで自分の話し方を変えていったのです。ほぼ出来上がったりんすんかるたを他のかるたと同じようなスタイルで印刷して渡す予定です。そしてその後このりんすんかるたを英訳し、インドでも朗読しようと更なる目標が出来ました。

あちらこちらへ出て行くことで、言葉だけでなく話し方や人間関係の作り方まで育っていく。これはヒッポのかくれた醍醐味だと思っています。

| | コメント (0)