目の前にある貧困
貧困というと発展途上国のものと考えてしまいがちです。
昨日グラミンフォンの話を書いて、中で「銀行と貧困は10年後博物館にあるかもしれない」と記しました。しかし実際には貧困とはしぶといもので、そう簡単に無くならないということも承知しています。
例えば、鳩ヶ谷の変電所交差点の歩道橋の下には人が住んでいます。
荒川の河川敷にもいくつかの小屋のあるのが見えたものです、が最近その小屋のあった付近の木が切られ護岸工事をしています。あれは護岸を守るための工事ではなくそこを住みかにしていた人たちを追い出すための工事である事は明白です。
ずっとブログを書きながら、いつか書こうと思っていた、涙の出るような話があります。
4畳半の台所と、6畳の部屋がふたつ。 そんな家に14人で生活している家族がいた。 母一人、子ども11人、孫も二人いた。ある夏休み、当直だった私は学校の近くにあるデパートに夕食を買いに来ていた。すると突然、制服を着た少女が走り込んできて、数人の店員たちに押さえられた。両腕をつかまれると、持っていた紙袋からごろごろと弁当箱がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」必死に謝る少女を、店員たちは有無も言わさず裏へ連れていこうとする。少女の制服はひどく汚れていたが、それが中学生のものだとわかった。私はすぐに後を追い、店員たちに声をかけた。
「勘弁してあげてください。お弁当の代金は私が払いますから」
腕を解放された少女は、すぐその場にかがみこんだ。そして床に散らばった弁当の中身を、猫のようになめはじめた。あまりの異様な光景に、店員たちはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、私は彼らにお金を渡しつつ引っ込んでもらうように頼んだ。
(中略)少女の名前は美晴といい、古い市営住宅に住んでいた。
決して広くないその住まいには、何組もの布団が敷きっぱなしになっている。その上に、カップラーメンや弁当の残りかすがびっしりと散乱していた。部屋の真ん中ではやつれた感じの女性が寝ている。奥の部屋には、乳飲み子を抱く少女も二人いた。美晴が弁当の入った袋を見せると、子どもたちがわっと集まってきた。
女性は私の姿を見るなり布団から出て、おじぎをした。それから台所の一部を片付けて、二人分座れるスペースをつくってくれた。
「子どもは11人いて、美晴は三女なんです」もともと孤児として育ったという母親の過去はすさまじかった。彼女は中学を卒業した後すぐ、職場で知り合った男と同棲したが、子どもができたとたんに捨てられ、それからは主に売春で生活を支えてきたという。
彼女には避妊の知識がなかったため、子どもは次々と生まれたが、11人の子どもの父親はすべて違った。誰からの助けもなかった。それでも彼女はずっと、たとえ妊娠しているときですらも、街角に立って体を売り続けた。
2年前に過労と性感染症で倒れ、売春ができなくなった。それからは17歳の長女と16歳の次女が、母親のかわりに売春で家族の生活を支えた。さらにその娘にも、それぞれ父親がわからない赤ちゃんができていた。
しかし、三女の美晴だけは売春が許されなかった。家族の中で一番勉強のできる美晴は、14人の家族にとっての唯一の希望だったからだ。家族全員が美晴を高校に入れて、立派な人になってほしいと願っていた。
もちろん美晴も家族たちを愛していた。小さい頃から成績がよく、性格も明るかった美晴は、学級担任や福祉事務所員から何度か里子の話を持ちかけられたが、いつも断っていた。自分だけが貧しい生活から逃れることよりも、家族みんなで幸せに暮らすことを望んだ。素晴らしい家族だった。私は話を聞きながら胸を打たれていた。長い教員生活でいろんな家族と関わってきたが、これほど慈しみあっている家族を見たのは初めてだった。
(後略)
これは「夜回り先生と夜眠れない子どもたち」(サンクチュアリ出版 2004年10月)から抜き出しました。自分はこの話を読んだとき、中国の極貧の村の話を思い出しました。その村でも一人の勉強の出来る女の子がいて、村中がその子を学校に出したいと思ったのです。しかし本人の親はもちろん村の誰も学費を援助できるような人がいませんでした。村長は逡巡した挙句、村を担保にお金を借りてその娘を町の学校へ出したのです。その娘は「勉強して必ず村のためになるような事ができるようになって帰ってきます」と涙ながらに誓って旅立ったのです。NHKのドキュメント番組だったと思います。
まるで同じだ。
中国の極貧の農村の話が、実はひとごとではなく日本の横浜(だとおもいます)に転がっているのでした。
格差格差と騒ぎ立てるちまたの人たちはこういう話を知っているでしょうか?
「夜回り先生」こと水谷修氏の著書にはこういう話がそれこそいくらでも出てきます。犠牲になるのはいつも子どもたちです。
親がアル中でどうしようもなく、アダルトチルドレンとなって苦しんでいる子どもたち・・・。でも実は当の親も子ども時代に親のアル中で傷ついていた、飲まずにはいられなかった・・・。そういう貧困と精神病の連鎖がついこの間まで日常だったところが北海道の浦河です。「べてるの家」の初期のメンバーたちはそういう環境下にいたのです。町の経済も疲弊していましたし、アイヌ民族をオリジンとする人々への差別もありました。べてるはそういうすさまじい現実の中から生まれたのです。
精神科病院に入院するとき「ご家族に同じような病気を持っている人はいますか?」と聞かれました。自分の家系で精神科病院に入院したのは自分が初めてでしょう。あまり違和感をもたなかった質問ですが、あとで強烈に響くようになりました。地域では「精神病患者を出した家」というだけで白い目で見られてしまうところもあります。しかし、自分がいろいろな書物を読んで分かってきたのは、病気が遺伝するのではなく貧困やきわめて困難な環境(部落差別など)が親を苦しめ、その苦しみが子どもに深い傷を与えて、病気が連鎖していくという事実でした。地域のコミュニティがそういう人たちを暖かく迎え入れれば、おそらく世代間連鎖はとまるでしょう。しかし・・・。
答えのない問題です。
はっきりといえるのは「貧困」はよそ事ではないということです。日本国憲法が基本的人権と生存権を保障しているのに・・・です。
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