子ども

2010/02/23

今を生きるということ

べてるの家の向谷地生良さんが、「安心して絶望できる人生」(NHK出版 生活人新書199 2006年)で、「自分が今の子どもたちの世代を生き抜く自信がない」という趣旨のことを書いているのですが、自分もこれを読んでまったくそう思いました。

以下は「インド 解き放たれた賢い象」(グルチャラン・ダス著 友田浩訳 集広社)p348からの引用です。

もう一つの実験がある。NIITの調査部門の責任者スガタ・ミトラは、デリーのスラム街に一台のコンピュータを設置した。彼はそれをタッチパッド(キーボードなし)と一緒に境界線を固定した。彼はまた、状況をモニターするため隠しカメラを樹木の上に取り付けた。一週間以内で、正式な訓練は何も受けていない非識字のスラムの子どもたちがネットサーフィンをしていることが分かり、さらに三ヶ月後には一千のフォルダーを作っていた。最も熱心な利用者は六歳〜十二歳児で、彼らは独力でコンピュータの使用法を身に付け、ウェブサイトを閲覧していた。ディズニー・コムが、ゲームのせいで最も人気があった。子どもたちはまたマイクロソフトの画描サイトを好んだ。貧しいので紙と絵の具を使ったことがない子どもたちが、今や紙なしで絵が描けるのだ。そして彼らはいったんデジタル音声ファイルのmp3を発見するとヒンディ語の映画音楽をダウンロードし始め、一日中それを再生していた。

集団の中の好奇心の強い子どもは、コンピューターの基礎的操作を、正規の教示なしに自分たちで覚えるということをこの実験は示唆している。そのことをは、子どもたちをインターネットに接続させれば教師の効率は何倍にも増大するということを意味している。ミトラ博士が別の実験で発見したところでは、一部の九年生(日本の中学校三年生に相当)は教師の助けなしに、自分たちで直接、インターネットから「粘性」といった物理学の概念を覚えることができた。教師の仕事はだから、子どもたちが正しい質問をするよう手助けするだけになるかもしれない。スラムの実験はまた、英語ができないことはある程度まで障害にならないことを教えている。ミトラ博士の<スラムコンピューター>はヒンディ語のインターフェイスを備えており、子どもたちは自分たちの言葉でウェブサイトに接続できた。だが子どもたちはすぐにその使用をやめてインターネットエクスプローラーに戻った。ボース博士は言う。子どもたちは英語の言葉の辞書的な意味は知らないかもしれないが、彼らはすぐに機能的な意味は理解したと。彼らはファイルの発音はできなくても、そこにファイルを保存したり開いたりするオプションが入っていることを知っていると。自転車の乗り方の習得に似ている。彼は言う。「どうやって乗り方を覚えたか、誰も君に聞かない。君はただ覚えたのだ。」彼の望みは、コンピューターがインドでいつの日か自転車と同じくらいに普及することだ。」

あなたはこうした子どもたちを前にしてどういうことを感じるでしょうか?

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2009/05/22

親がすることではない

親が子どもの能力を全開させようとして試行錯誤するのは、親が自己満足を得るためのエゴです。そのことが分かっていない親が多すぎます。環境を与えることは許されるでしょう。しかしそこから何を獲得していくかはその子ども自身にゆだねられるべきなのです。


上野 最近、本田由紀さんの本『「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち』を読んで、心胆寒からしめる気持ちになったの。

 親が子供の能力をマックス(最大限)に伸ばしてやりたいと思うのが愛情だと親たちが思っていること。その親の育児法について本田さんが論じているのを読んだんですけど、「ああ、何という子供受難の時代が来たのか!」と思ってね。

 能力でも何でも、マックスに期待されたり、マックスに発揮させられたりというのはストレスに決まっているでしょ。

深澤 マックスまで行ったら、あとは壊れるしかないですから。

上野 マックスを期待されるのがどれほどストレスフルかということを、親は身を以て自覚しているくせに、子供にはそれを要求するのよね。「この子の能力を最大限に引き出してやりたい」と。

深澤 「親が子供にできることはそれだけだから、やってやらなくては」と思っているんですよね。

上野 それを愛情だと思うのね。子供を追い詰めているとは思わずに。「最大限に」なんて、自分には要求しないだろうに。

 だから、自分に対しても他人に対しても「そこそこほどほど」とか「よい加減」がいいのよ。あなたに限らず、最近はそういうことを言う人が増えてきましたね。

これは日経ビジネスオンライン5月18日号特別対談上野千鶴子VS深澤真紀の一部です。結構長くて面白いのでこちらから本文を読んでみてください。もっとも子どものことを書いてあるのはこの部分だけですが。

おやが自分のプライドを満たすために子どもを追い込んで、結果として壊してしまうというのは非常に多いです。こういうことが起こるのは親が自分自身を愛することができず、コンプレックスを抱えているからです。そのコンプレックスを自分の子どもを使って満たそうとする。言葉で書くと簡単なようですが、心理的に深い問題だと思います。

とはいえ、意識してよけいなおせっかいをするのはやめるべき。親が介入しなくても子どもはちゃんと子ども自身がもつ自然の育つ力を使って育つのです。

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2009/04/16

「問題」のありか

昨日の「問題はあなたです」の記事を読むと、ちょっと配慮が足らない気がして付けたしです。が、別記事にします。

「べてるの家」が全国的に有名になったおかげで、「べてるの家」や浦河赤十字病院には全国から様々な人が押し寄せるようになりました。自分ですら浦河まで行っているくらいです。ところが、中には誤解をしている人もいるようです。「べてる」は決してユートピアではありません。「べてる」にいけば問題が解決すると思っている人がとても多いらしいです。たとえばお子さんの統合失調症を治そうとして両親が当事者とともに浦河赤十字病院へ受診しに来るケースもあるそうです。そんなとき病院の川村医師は「どちらから先に手をつけようか」と思うのだとか。つまり当事者よりもむしろ治そうと必死になる親のほうがずっと病的だということです。べてるの本をよく読めば分かるはずですが、あそこはむしろ問題だらけなのです。病気という現実と徹底的に向き合わされる場所。だから「病気」のカテゴリーにない、いわゆる健常者でさえべてる流にいえば「病気が出てくる」のです。メンバーはもちろんスタッフもほとんどが当事者ですからいざこざは絶えないし、「安心してサボれる会社作り」なんていうのが理念になっている以上世間の常識はほとんど通じないと思ってもいいでしょう。「べてるの家」は「それはあなたの問題でしょう?」ときちんと返してくれると言う意味で画期的なのであって、悩みだってむしろ増えるかもしれない。あそこでやっていくのは相当大変だと思います。

「べてるの家」を自分でやる、つまり浦河でなくとも自分自身をとりかこむ現実と徹底的に向き合うと言うことのほうが「べてるの家」のメンバーになることよりずっと現実的なのではないかという気すらします。

自分自身のたな卸しをするのは、経験者でなければ分からないほど実に厳しく大変な作業です。精神病のほんとうの大変さは薬でなんとかなる部分ではなく、あるがままの自分をごまかしなくすべて自分自身でうけとめられるようにならざるを得ない、その修行のようなところです。

ですから昨日の記事に書いた「問題はあなたです」の「問題」のありかは、親であること以前に自分自身ときちんと向き合えていますか?ということなのです。自分自身が嫌いな人が親になると、自分のいやな部分を自分の子どものなかに見ることを嫌います。だからまるで消しゴムで消そうとするように子どものもっている性質を消そうとします。それはしかしあるがままの子どもを受け入れていない・・・つまり愛していないということにつながるのです。だから子どもに無理がかかるのです。親が自分自身を受け入れていられれば、自分の子どものことも無条件に100%受け入れることができます。

そこが見えずに外部に何かを求めてもむなしく時間が過ぎるだけです。そういうことを言いたかったのでした。

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2009/04/15

問題はあなたです

リンクをはっているブログが最近どうなっているのかチェックして消滅していたものを1件消去しました。更新が滞っていても、存在しているものは残してあります。

鳩ヶ谷雑記を書き始めてから4年半。ここと同じかそれ以上の頻度で更新しているのは西方茶屋くらいかもしれない。しかも西方茶屋の管理人さんは精神科医(しかも指定医の資格を昨年取得!)でありながらハンドルネームが半年おきに新しくなり、ブログも次から次へと新しいものを立ち上げてしまう方で、西方茶屋自体は更新されていません。mixiでは分刻みで新しい日記を書いている(友人以外は読めない設定です。あしからず)という・・・ぶっちゃけご本人も承知ですが患者でもあるのです。精神科医でありながら自分自身が患者と言う人は意外に多いんじゃないかと言う気がします。余談ですが精神鑑定なんてものを「正気」でやれるやつなんか100%「病気」だろう。

あらためて読んで、みなさんにぜひ一読してほしいと思ったのがHSVをたすけ隊です。ここの管理人さんとは昨年九州へ行ったときに実際にお会いしたのですが、あまりにも話しが合うので予定時間を越えて延々と話し続けてしまいました。何冊かこどもや教育にまつわる本を持参して読んでもらおうと思ったのですが、管理人である「隊長」さんが「これが本当だろう」と選んだのが「居場所のない子どもたち」(鳥山敏子著 岩波書店 1997年)でした。まさにその通り。子どもたち(自分らも昔はそうだったのです、いや現在進行形かもしれません)が無意識に親から感じ取るものはすさまじいものがあります。なぜなら幼ければ幼いほど自分の身を守るために親に頼らざるを得ないのが子どもだからです。この話題は以前さんざん書いたし病気によくないのであまり深く突っ込みません。が、先生でも学校でもなく家族のありようがあなたのお子さんに与えている影響のすさまじさに気づいてほしいです。問題は外部ではありません。あなたです。(念のため・なんでも「私のせい」と引き受けるのも広い意味で病気ですよ)

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2009/04/06

道徳教育

教育とは、たずさわる個人が本当に所有しているものだけしか伝達されえないものである(福田恆存「教育・その本質」…「学問の下流化」竹内洋著 中央公論新社よりまたびき)というのが本当のところだと思います。だから教員がいくら道徳を説いたところで、子どもたちは本質を見抜いてしまいます。これは教員だけでなく親もそうです。自分の子どもを優秀にしたかったら、まずあなた自身を磨かなければダメ。プレシデントファミリーとか日経キッズなどの雑誌を読んで上辺だけ真似しようとしたってそうはいかない。これらの雑誌のバカバカしさ、真に受ける人の多さにびっくりするやらあきれるやら。

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2008/12/22

一生覚えているんだから!

昨日近所のスーパーへちょっとした買出しに出かけたときのこと。女の子のすごい泣き声が店の前で響いていました。みると小学校低学年と思しき女の子が体格のいいお父さんと思しき人に抱き上げられながらないています。その人の発した言葉を聞き凍りつきました。「お前はここに捨てていくんだ!」。女の子は猛烈な勢いで泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝っているのですが、よほどお父さんの逆鱗に触れたようで「お前が悪いんだろう」といいながら子どもの顔や頭を手加減なしにぼこぼこ殴っているのです。どうも、その日は何も買わない約束で店にきたのに、女の子が何かをほしがったため、お父さんは「ぷちん」とがまんの糸が切れてしまったようでした。お父さんは「誰が悪いんだ。きちんと謝れ」と女の子に言います。その子は泣きながら一生懸命謝っているのに、その謝罪では気がすまないらしいのです。

吐き気がしてきたので、退散しました。本当は「悪いのはあなたでしょう?」とお父さんに言ってやりたかった。日日のうっぷんを弱い自分の子どもに手加減なしにぶつけていると感じました。

こういう理不尽な怒られ方をしたときのことを、その子は一生忘れないでしょう。自分も3歳くらいの頃一時愛知県にすんでいて母親の理不尽な怒りにあい激しく泣いていたことをはっきりと覚えています。あまりにもはっきり覚えているので、以前出張で名古屋に行った時、時間を作って当時住んでいた場所へ行ってみました。怒鳴られた場所の様子が記憶とぴったり一致しました。これには本当に驚きました。母親もしかしながら父に理不尽な目にあったことがあるらしく、ことあるごとに「一生覚えているんだから!」といっていました。自分もそのときのことは今でもクリアに覚えているので、きっと一生忘れないでしょう。もっとも事柄としては和解していますのでうらむとかうらまないとか、そういうレベルではないのですが、忘れないよね。

きっとその女の子も忘れないだろうと思います。トラウマになってしまうだろうなと思います。水谷先生の言っていることを思い出しました。「会社で父親が理不尽に怒られる、すると父親は母親を理不尽に怒る、そして母親は子どもを理不尽に怒る」。 弱いほうへ負の連鎖が行くんですよね。

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2008/11/09

大事なメッセージ

大事なメッセージ

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2008/10/30

タブーをなくす

日本ではお金の話題と性の話題はタブーととらえられ、なかなか大きな声で話せない部類のことです。しかし万葉集などを読むと、昔は性の話題については随分オープンだったのではないかと思われる節があります。つまり世の中の変化に応じてタブー視される必要のあるもの、そうでないものがあるということです。

現代はインターネットで様々な情報が瞬時に検索され知ることができる時代です。そういう意味では「隠す」ことはむしろ逆効果になるケースが多いのです。子どもたちに見て欲しくないサイトをフィルタリングするだけでは対処療法のいたちごっこで、結局悪用する人間がたくさん出てきて問題解決方法としてはダメだと思います。

日本人の買春ツアーのように海外にまで恥をさらす、傷を負わせる人たちを、あるいは世界的に糾弾されている日本の児童ポルノに対する規制の甘さなどを根本から変えていくためには、私たちの社会そのものを変えてこれらのタブーをなくす必要があると自分は強く考えています。

まず性の問題に関するタブーに関して、見方を変えていただくために「デンマークの子育て・人育ち」(沢度夏代ブラント著 大月書店 2005年11月)の中身を引用します。

ひと昔前のこと、デンマークを含むスカンジナビア諸国は「フリーセックス」の国と、少々わいせつさを含むレッテルを貼られていた時期がありました。これは、日本人の大きな勘違いで、誤解が一人歩きしていたようです。(中略)その本来の意味は「偏見なく性について話す」ことであり、その大きな目的は、性感染を防ぎ、個人の家族計画を可能にした上で、「望まれた子」の誕生をめざすことです。(中略) どうも日本では一般的に、「性」という言葉は、「陰」にとらえられる傾向があり、発言はタブーに近いところがあります。しかし、性の問題は、人権問題を含む男女平等の発達、妊娠のコントロールを可能にする、エイズを含む病気の予防、社会的な犯罪の減少など、広い分野に大きな関係があることを認識したいものです。幼子から思春期そして青年期に、「正しい性の情報提供」を行うことが子どもたちの健全な成長を促し、やがて健全な社会生活を営む基盤の一つのなっているように思えます。(中略) 私のデンマーク生活が始まって間もない1970年当時、テレビの番組で全裸シーンが放送されていました。しかも、まだ夜の8時代、日本では目にしなかったシーンが、子どもたちもまだ起きている時間に放送されていて、テレビ局の無神経さにあきれたり、驚いたり、目のやり場がなくて困ったのを覚えています。私は「こんな場面を、子どもが起きている時間帯に放送するなんて信じられない」と話し、すっかり夫が同意すると思っていました。ところが彼は「人間の裸は現実だし、隠せば覗きたくなるのは人間の心理でしょう。いつも見ていれば、悪質な興味とならないのでは」と、反応してきました。「うーん、なるほど」と、私がそれまで馴染んできた考えと全く逆の発想だったので、ちょっとしたデンマーク社会入門時のカルチャーショックでした。(中略)

書きかけですがとりあえずここまでで一度公開します。あとで書き足します。

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2008/10/23

家族という闇

8月19日に「これが自分だった」という記事を書きました。あの時、実はあそこで終わらせるつもりではなかったのです。今更わざわざあんな記事を書いたのには訳があります。それは、どうも家族間の心理状態が子どもを傷つける、それが体に反応として出てくるというのが自分のいた家族だけの問題ではなく、もっと非常に多くの家族の中で起きていて、そのことが今の子どもたちにからだの反応として、アトピー、不登校、発達障害、リストカット、自殺未遂、親殺しなどといった一見不可解な現象として出てくるのではないか?と思ったからなのです。うちだけではない。それどころか、家族間に問題があってそれが生きづらさとして感じられるのではないかと気がついてカウンセリングを受けたり精神科に通ったりしている人たちが大勢いるのですが、それすら氷山の一角なのではないかと思えてきたのです。

買って読んではいないのですが、電車の中吊り広告の見出しによると今週の読売ウィークリーでは「自分の過去を消してしまいたい」という見出しで、父親や兄から性的暴力を受けた人の手記が載っているようです。小説の題材としてはこういうことありますけれど、私たちが生きているこの現実の中で「家族」という囲われた密室の中で同じような事がたくさん起きていて、多くの人が傷を抱えているのではないだろうか、それが心理に影響してセクハラ、モラハラが拒否できないようなことにつながったりしているのではないでしょうか。

女子中学生のセイコさんが、「お父さんの私を見る目が気持ち悪い。助けて」と思い切ったように手を上げました。「視線がジトーッとしているんです。わたしがお風呂に入ると、必ずその横の洗面所に来て、わたしをまるでお風呂に閉じこめているように、そこから三〇分たってもお父さんが動かない。また、私の服装に対してもきびしくて、からだの線が出るような服はチェックされるんです。学校の帰りにわたしが男の子と話していたとき、タクシーに乗っていたお父さんが見たらしくて、家に帰って強く叱られました。『どこの馬の骨ともわからない男とつきあうんじゃない』って。逆上したようにわけのわからないことをいうのです。わたしはお父さんがこわい。何をされるかわからない不安があるんです。

そのワークにはお母さんの佐知子さんも一緒に来ました。娘のセイコさんは側にいるお母さんの方を向いていいました。「お母さん、お父さんとうまくいっているの?」「うまくいっているわよ、何いってんの。」この話し方から二人が気軽に話せる関係になっている事がうかがえます。彼女はよく父親に殴られます。殴られている時に、お母さんの佐知子さんは助けてくれません。お父さんの後ろにいて、お父さんと一体になったように自分を見ています。
「父親は、娘が好きなんですよ。」
「佐知子さんはそのことをどう思っていますか。」
「父親として当然でしょう。娘をかわいく思うのは。」
「そうじゃないよ。かわいがってくれていないよ、お母さん。気持ちが悪いよ。」
娘のセイコさんが口をはさみました。
「お母さんは、わたしがお父さんにたたかれていても、私に味方しないじゃない。お父さんの方についてしまって。わたしはどうしてお父さんにたたかれなければならないの。」
「だってセイコがお父さんを怒らせるようなことをいうからよ。」
「でもわたしは自分が思っていることをいっているの。ちっとも私を信じてくれない。どうしてお父さんはわたしをあんなにたたくの。そんなお父さんをお母さんはどう思っているの。」
「愛しているわよ。」
「うそだ。もしそうだったらお父さんはもっとお母さんのことを考えてもいいんじゃない。」
「セイコにはわたしたち夫婦についてわからないことがたくさんあるのよ。二人の間ではわかり合っていることがたくさんあるのよ。わたしはお父さんを愛しているわよ。」
「それだったら、お母さんがこの前のように精神を病んで入院するような事もおきないんじゃないの。どうしてお父さんがわたしを殴る時に、お母さんは助けてくれないの。もういやだよ。」

セイコさんは母親の佐知子さんを追い詰めていきます。二人のやりとりをきいていると、佐知子さんは夫の心が娘のほうにいくことを恐れているのが伝わってきます。夫の気が娘の方ににいくと、自分が見捨てられるようで不安になるみたいです。そして夫が娘を嫌ってくれることで安心しようとしている。

おかしいでしょう?お父さんとお母さんはうまくやっているといっているけれども、「おかしい。とってもわたしにはうまくやれているように思えない。どうしてお父さんがわたしを殴る時に、お母さんはたすけてくれないの?もういやだ」。なんで自分の娘を殴る自分の連れ合いに対して、娘を守ることができないのか。お母さん自身が小さいとき同じような体験をしているか、愛されていなかったのです。本人の記憶になくても実際は、からだはひどい目にあっているのです。親に殴られたり、精神的暴力を受けた人が、やっと自分を愛してくれると思える人と結婚し子どもができた時、往々にして、連れ合いの心がたとえわが子のところであっても自分から離れて行かないように無意識に動いてしまうのです。愛されなかったさびしさは連れ合いの気持ちがまず一番に自分の方に向いていないと不安なのです。もちろん夫は夫で愛されなかった問題をもっていました。

夫婦の両方が、かつて愛されなかった傷をお互い癒し合う関係としてつながっているのが、外から見て一見夫婦睦まじく見えるけれども、どうも中身が怪しいのです。なぜ娘がジトーッと感じるようなそういう気持ちになるのか。

「『お父さんはそんなことないから安心しなさい』とお母さんがどんなにいっても、わたしは信じられない。あれは普通の状態じゃない」とセイコさんは泣き叫びながら、それを訴えてくるのです。この夫婦の関係は、子ども時代の傷をお互い癒すための、たとえばセックスであり、つながりであって、大人の女として、また大人の男としてのつながりではないのです。自分の内なる子どもを傷ついたままにしておくと、たとえ大人のふるまいをしていても成長はそこで止まっているのです。二人はお互いの傷をしっかりと自覚しないで、さびしさだけを補おうとお互いを求めて合っていますから、その行為がお互いの成長をうながす癒しになっていないのです。二人はお互いの保護者になってしまっているのです。ですから夫のもっている男としての欲求は、妻には求められず、自然と娘にいくのです。つまり娘を女としてみるわけです。

女たちは男に対して自分が本当に感じていることを語っていないように思います。セックスひとつとってみても、夫や男に本当に感じていることがいえず、多くの女たちは感じているように演技をしているのではないでしょうか。しかし中年の男や夫たちのからだは、露骨な欲求を事実として表現しているとわたしは思っています。それは、父親である中年の男たちの決して少数とはいえない人たちが女子中学生、高校生、大学生を買って遊んでいるという事実であり、そしてまた妻たちの多くが夫以外の男たちとセックスの関係を持っている事実です。人間として成熟している夫や妻ならできない行為でしょう。また、ワークが深くなってくると、「わたしは子どもの頃、実は父親に性器をさわられていた。小さいときにお風呂で洗ってくれている時にもさわられた。わたしはいやだというのに無理やりゴシゴシとやられた。」本当に性器を洗っているのなら、子どもは恐怖を感じないのです。父親の中にもっと別の感情が動いていることを小さなからだは無意識のところで敏感にキャッチしているのです。彼女にとってみれば、ただ「洗っている」じゃなくて、もっと違った無意識の女のからだへのセクハラ感覚で迫ってきているというのを、ゼロ歳、一歳、二歳の時から感じているのでしょう。だから父親の行為が信じられない。「よごれているから、きれいに洗ってやったんだ。」「違う。わたしが痛い、痛いといっても、お父さんはごしごしこすりつけてわたしを洗った。」「たしかにお前は、あの時痛い、痛いといっていた。」これが体の恐ろしいまでに正確な、理屈では表現できないすごさなのです。

「夜、お父さんとお母さんの間には弟が寝ていて、私はお父さんの隣に寝かされていました。毎晩お父さんが私の性器にさわってくるんだけど、私はこわくて声も出せず、お母さんにもこのことを言えませんでした。今もいっていないのです。」

本当に今もどんなにたくさんの小さな女の子が、いやもう中学、高校生にもなっている女の子が父親の性的虐待におびえていることでしょう。そして兄からの性的虐待についても然りです。とてもこんなおびえと不安とをかかえているからだの状態では、学校で深く学ぶということは不可能です。

じゃあ、こういう大人としての未熟さは男だけなのでしょうか。セイコさんの母親佐知子さんがワークの数日後手紙を送ってきました。
「先生、実はわたし、息子のからだに関心があるのです。息子がスッポンポンになってパーッと部屋の中を走っている。『まったくしょうがないわね、オチンチンぶらぶらさせて』と、わざとふざけた言い方をしているけれども、実はすごく息子のからだに関心があるのです。おかしいんでしょうか。」

彼女は女としての部分を夫に向けることができないわけですね。なぜなら、佐知子さんにとっては夫は自分を子どもの時に愛してくれなかった父親のかわりであり、夫からみれば妻は自分を子どもの時に愛してくれなかった母親のかわりなのですから。もちろん無自覚だとこのことは意識ではわかりません。このように夫と妻の両方がまだ子どもの頃から成長していませんから、双方が求めているのはその満たされなかった愛を埋めてくれる保護者なのです。彼女は夫とセックスをしていますので、男と女のセックスのつもりなのです。しかしからだは知っているのです。だから理屈ぬきに妻のからだは、目は、息子に男を求めてしまうのです。しかし、だれだってこんな状態になっていることを決して認めたくないのです。認めることは、自分と夫との関係を変えていくことを予感しているし、様々な関係のごまかしを直視しなければならなくなり、社会の枠の中から出てしまうことさえやりかねないのをからだは知っているからです。本当に子どもの時の傷をしっかりと癒して手当をしていないと、いっぱいいろいろな錯覚をするのです。そして、子どもをかわいがっているつもりでいるけれども、実際は子どもの親のつもりとは別の苦しいメッセージを受け取ります。

佐知子さんは、手紙の中で「おかしいでしょうか」と語っていますが、わたしはこのことが決してめずらしいことではないことを話しました。それは何万人もの苦しみのもとをたどるワークをしてきて、たくさんの「嫁と姑」の関係の問題にとりくんできたからです。「嫁と姑」の関係が昔よりよくなっていない事実に立ち会い、その問題の深さを感じてきたからです。「嫁と姑」の問題の根底にあるものは、多くは母親が長男と精神的結合状態にあるところからおきているように思えてなりません。自分の夫との関係をつくれない姑たちが自分の息子をとりこみ子離れできず、いかに深く同一化してしまっているかは驚くばかりです。こんな状態の中では、家庭内で嫁と姑がぶつかっても夫は「嫁」からみてもどっちつかず、態度のはっきりしないあいまいな人にしかならず、母親を気遣い、妻の苦しみを感じない夫にしかみえないのです。つくづくと「嫁・姑」問題を「男と女の性の視点」でとらえる必要を感じているのは、わたしだけではないでしょう。

こういう性的なものは、これから社会の中でどんどん問題になってくると思います。例えば女の人の場合に、小さいときにいたずらされた瞬間から、自分を大切に思えなくなり、とるに足らない価値のないもの、きたないもの、人を愛せないものに自らしていってしまうためです。

性的ないたずらを体験した娘たちは、みんな口をそろえて叫んでいます。
「私は恋愛ができない。恋愛してもいつもうまくいかなくなる。あのいたずらされた日から世界はカラーから白黒に変わった。」

これは前回の時も引用した「居場所のない子どもたち」(鳥山敏子著 岩波書店1997年2月)から、一節まるごとひっこぬいてきました。ここに書いてある事柄ですごく納得のいくことがあります。母親はたぶん自分のことを性的対象としてみていた事でしょう。仮にそうでなかったとしても、そのように自分が感じてずっといやだったことを思い出しました。具体的にどういうことがあったかはここではさすがに書けません。

これを読んで思い当たることがあった方は、ぜひこの本、鳥山敏子さんの本を読んでください。そして必要だと思ったらカウンセリングにかかってください。

自分は両親といるのがいやでいやで、だからしょっちゅう旅行に出かけ、休みもつぶしてワーカホリックに仕事をしていたのです。結果としてからだが限界点に達し「うつ病」というかたちで、周囲にも目に見える形で問題が表面化したのだと思います。しかし結果としてそれによって何回と無くカウンセリングを受け、ヒプノセラピーによって子ども時代をやりなおしまた傷にパッチを貼り、べてるの家と出会うことで「治らなくても良い」「人の為に生きるのではなく自分の為に生きる」「自分で自分を支えられないのに人を支えようとするのは、実は逆で自分が支えて欲しいからだ」など、さまざまな気づきを得ました。これは不幸中の幸いだったかもしれません。もしうつ病にいきつくところまでいかなかったら、鳥山さんがここに書いておられるような、典型的な「精神的母親・長男合体型」になっていて、好きな女性を愛する事も出来ず、自分のやりたい事もわからず、一人暮らしも出来ず、今自分が抱いているような夢を持つ事もままならず、子どもたちと育ち合うこともできなかったでしょう。本当に振り返ってみれば恐ろしい修羅場から抜け出してきたのです。

よく「こんなに明るい元気なうつ病患者はいないんじゃないの?」といわれますが、それは心理的なサポートを充分に受け、「自分が自分でいること」がこういうことなんだと気付きをもらえたからです。人を愛するということはどんな小さな条件をもつけず、丸ごとその人を受け入れる事。病気があろうと、障害があろうと、何があろうとです。それに気がつくことが出来たのはなんとラッキーな事でしょう。

精神科に通院している自分のほうが、こうした問題にふたをして社会的につくろいながら暮らしている多くの人たちと較べるとずっと精神的に健全なのではないかと思えてくるのです。この問題の根は深い・・・。

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2008/08/19

これが自分だった・・・。

いきなり引用からいきます。これは長く読んでいると自分の体調を崩す方面の本なのです。

では親とは一体何なのかと問うとき、簡単にいえば(中略)子どもが子どもとして生きることを保障できる人、子どもの命を守る人、子どもが安心していられる場所をつくることができる人(強調はなんちゃん)だといえるでしょう。 子どもが自分の身の危険を感じたり、自分がいいたいことがいえなかったり、したいことがどういうことかわからなくなったりということでは、その子にとって親はいなかったことになります。子どもが子どもとして受けいれられる、また、無条件に(強調はなんちゃん)、その存在を肯定される、生まれてきたことが祝福され、その存在がとても大切に思われて、そこにいる。そういう居場所があってはじめて子どもが子どもとして存在できるのです。親とは、そういう居場所を保証することのできる人のことだと思います。

ところが、そういう大人の親がいないと、小さな子どもでも、子どもでいることができずに、親を守ろうとする親にとっての保護者になってしまいます。たとえば、こんな話を高校教師の和人さんがしてくれました。和人さんが遅くなって帰ってくるのをまだ一歳にならない、十ヶ月ぐらいの赤ちゃんである真里ちゃんが、待っているというのです。真里ちゃんは、お父さんの帰りが一時、二時であっても、小さな鍵の音で目をさまします。そして起き出して玄関まで迎えにくるというのです。真里ちゃんは両親が大げんかにならないようお母さんにもお父さんにも気を配り、ヨチヨチ歩きで、お父さんを機嫌よく迎えに出てくるのです。真里ちゃんは、お父さんである和人さんと小学教師のお母さんである多津さんの仲が悪いのを察知していて、いつも不安でたまらないのです。深夜、和人さんが帰ってくるたび、イライラしているお母さんの心を感じとって、二人が何とかぶつからないようにしているのです。
お母さんがお父さんを怒鳴って、また遅かったのねということから、いさかいが起きていくことに対して、おびえているわけです。二人の緊張を緩和するために、まだ一歳にならない赤ちゃんが起きてニコニコしながら、お父さん、お帰りなさい、という、あまり舌が回らない状態の赤ちゃんが、ニコニコ微笑みかける。そんな小さな子どもが、赤ちゃんではいられないのです。一時や二時まで起きていたい赤ちゃんなんかいません。眠くなったときには眠るのが赤ちゃんなのだけれど、赤ちゃんとして生きることができないのです。
そのように、子どもが小さい頃から緊張する、家の中で不安に過ごしているという例は枚挙に暇がありません。しかし、こういう子どもたちのほとんどは決して親を悪くいいません。親の苦しさを思い出しては涙し、自分の要求を押し殺して親を守ろうとし、守れない自分を責めたりさえもするのです。

10ヶ月の頃からやっていたかどうか定かではありませんが、この赤ちゃんと自分はほぼ同じことをしていました。30過ぎてうつ病で布団から起き上がれなくなっても、いさかいを始める親の間へ体をずるずるひっぱっていって間に入りました。こんな状態の自分が出て行けばケンカを中断するしかないだろうと思って、そうせずにはいられなかったのが自分の親の家でした。

心の痛みを我慢して痛みを感じないようにする為にわざと感覚に鈍感になるようにしました。すると心だけでなく体の反応も鈍感になるのです。自分が小学生の頃に歯医者へ行って、歯科医が神経まで達してる虫歯を発見して「これ、痛くなかったの?」と聞いてきたことがあります。初めは痛かったけれど、痛いのを我慢しているうちに痛くなくなったのです。

こんなことを30年やっていたのですから、多少神経がおかしくなっても仕方なかったでしょう。

書いているうちにやはりからだが緊張してきてしまいました。今日はこの辺でやめておきます。ちなみに引用した本は「居場所のない子どもたち」(鳥山敏子著・岩波書店・1997年)です。

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