2009/05/22

親がすることではない

親が子どもの能力を全開させようとして試行錯誤するのは、親が自己満足を得るためのエゴです。そのことが分かっていない親が多すぎます。環境を与えることは許されるでしょう。しかしそこから何を獲得していくかはその子ども自身にゆだねられるべきなのです。


上野 最近、本田由紀さんの本『「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち』を読んで、心胆寒からしめる気持ちになったの。

 親が子供の能力をマックス(最大限)に伸ばしてやりたいと思うのが愛情だと親たちが思っていること。その親の育児法について本田さんが論じているのを読んだんですけど、「ああ、何という子供受難の時代が来たのか!」と思ってね。

 能力でも何でも、マックスに期待されたり、マックスに発揮させられたりというのはストレスに決まっているでしょ。

深澤 マックスまで行ったら、あとは壊れるしかないですから。

上野 マックスを期待されるのがどれほどストレスフルかということを、親は身を以て自覚しているくせに、子供にはそれを要求するのよね。「この子の能力を最大限に引き出してやりたい」と。

深澤 「親が子供にできることはそれだけだから、やってやらなくては」と思っているんですよね。

上野 それを愛情だと思うのね。子供を追い詰めているとは思わずに。「最大限に」なんて、自分には要求しないだろうに。

 だから、自分に対しても他人に対しても「そこそこほどほど」とか「よい加減」がいいのよ。あなたに限らず、最近はそういうことを言う人が増えてきましたね。

これは日経ビジネスオンライン5月18日号特別対談上野千鶴子VS深澤真紀の一部です。結構長くて面白いのでこちらから本文を読んでみてください。もっとも子どものことを書いてあるのはこの部分だけですが。

おやが自分のプライドを満たすために子どもを追い込んで、結果として壊してしまうというのは非常に多いです。こういうことが起こるのは親が自分自身を愛することができず、コンプレックスを抱えているからです。そのコンプレックスを自分の子どもを使って満たそうとする。言葉で書くと簡単なようですが、心理的に深い問題だと思います。

とはいえ、意識してよけいなおせっかいをするのはやめるべき。親が介入しなくても子どもはちゃんと子ども自身がもつ自然の育つ力を使って育つのです。

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2009/04/16

「問題」のありか

昨日の「問題はあなたです」の記事を読むと、ちょっと配慮が足らない気がして付けたしです。が、別記事にします。

「べてるの家」が全国的に有名になったおかげで、「べてるの家」や浦河赤十字病院には全国から様々な人が押し寄せるようになりました。自分ですら浦河まで行っているくらいです。ところが、中には誤解をしている人もいるようです。「べてる」は決してユートピアではありません。「べてる」にいけば問題が解決すると思っている人がとても多いらしいです。たとえばお子さんの統合失調症を治そうとして両親が当事者とともに浦河赤十字病院へ受診しに来るケースもあるそうです。そんなとき病院の川村医師は「どちらから先に手をつけようか」と思うのだとか。つまり当事者よりもむしろ治そうと必死になる親のほうがずっと病的だということです。べてるの本をよく読めば分かるはずですが、あそこはむしろ問題だらけなのです。病気という現実と徹底的に向き合わされる場所。だから「病気」のカテゴリーにない、いわゆる健常者でさえべてる流にいえば「病気が出てくる」のです。メンバーはもちろんスタッフもほとんどが当事者ですからいざこざは絶えないし、「安心してサボれる会社作り」なんていうのが理念になっている以上世間の常識はほとんど通じないと思ってもいいでしょう。「べてるの家」は「それはあなたの問題でしょう?」ときちんと返してくれると言う意味で画期的なのであって、悩みだってむしろ増えるかもしれない。あそこでやっていくのは相当大変だと思います。

「べてるの家」を自分でやる、つまり浦河でなくとも自分自身をとりかこむ現実と徹底的に向き合うと言うことのほうが「べてるの家」のメンバーになることよりずっと現実的なのではないかという気すらします。

自分自身のたな卸しをするのは、経験者でなければ分からないほど実に厳しく大変な作業です。精神病のほんとうの大変さは薬でなんとかなる部分ではなく、あるがままの自分をごまかしなくすべて自分自身でうけとめられるようにならざるを得ない、その修行のようなところです。

ですから昨日の記事に書いた「問題はあなたです」の「問題」のありかは、親であること以前に自分自身ときちんと向き合えていますか?ということなのです。自分自身が嫌いな人が親になると、自分のいやな部分を自分の子どものなかに見ることを嫌います。だからまるで消しゴムで消そうとするように子どものもっている性質を消そうとします。それはしかしあるがままの子どもを受け入れていない・・・つまり愛していないということにつながるのです。だから子どもに無理がかかるのです。親が自分自身を受け入れていられれば、自分の子どものことも無条件に100%受け入れることができます。

そこが見えずに外部に何かを求めてもむなしく時間が過ぎるだけです。そういうことを言いたかったのでした。

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2009/04/15

問題はあなたです

リンクをはっているブログが最近どうなっているのかチェックして消滅していたものを1件消去しました。更新が滞っていても、存在しているものは残してあります。

鳩ヶ谷雑記を書き始めてから4年半。ここと同じかそれ以上の頻度で更新しているのは西方茶屋くらいかもしれない。しかも西方茶屋の管理人さんは精神科医(しかも指定医の資格を昨年取得!)でありながらハンドルネームが半年おきに新しくなり、ブログも次から次へと新しいものを立ち上げてしまう方で、西方茶屋自体は更新されていません。mixiでは分刻みで新しい日記を書いている(友人以外は読めない設定です。あしからず)という・・・ぶっちゃけご本人も承知ですが患者でもあるのです。精神科医でありながら自分自身が患者と言う人は意外に多いんじゃないかと言う気がします。余談ですが精神鑑定なんてものを「正気」でやれるやつなんか100%「病気」だろう。

あらためて読んで、みなさんにぜひ一読してほしいと思ったのがHSVをたすけ隊です。ここの管理人さんとは昨年九州へ行ったときに実際にお会いしたのですが、あまりにも話しが合うので予定時間を越えて延々と話し続けてしまいました。何冊かこどもや教育にまつわる本を持参して読んでもらおうと思ったのですが、管理人である「隊長」さんが「これが本当だろう」と選んだのが「居場所のない子どもたち」(鳥山敏子著 岩波書店 1997年)でした。まさにその通り。子どもたち(自分らも昔はそうだったのです、いや現在進行形かもしれません)が無意識に親から感じ取るものはすさまじいものがあります。なぜなら幼ければ幼いほど自分の身を守るために親に頼らざるを得ないのが子どもだからです。この話題は以前さんざん書いたし病気によくないのであまり深く突っ込みません。が、先生でも学校でもなく家族のありようがあなたのお子さんに与えている影響のすさまじさに気づいてほしいです。問題は外部ではありません。あなたです。(念のため・なんでも「私のせい」と引き受けるのも広い意味で病気ですよ)

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2009/04/06

道徳教育

教育とは、たずさわる個人が本当に所有しているものだけしか伝達されえないものである(福田恆存「教育・その本質」…「学問の下流化」竹内洋著 中央公論新社よりまたびき)というのが本当のところだと思います。だから教員がいくら道徳を説いたところで、子どもたちは本質を見抜いてしまいます。これは教員だけでなく親もそうです。自分の子どもを優秀にしたかったら、まずあなた自身を磨かなければダメ。プレシデントファミリーとか日経キッズなどの雑誌を読んで上辺だけ真似しようとしたってそうはいかない。これらの雑誌のバカバカしさ、真に受ける人の多さにびっくりするやらあきれるやら。

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2008/12/22

一生覚えているんだから!

昨日近所のスーパーへちょっとした買出しに出かけたときのこと。女の子のすごい泣き声が店の前で響いていました。みると小学校低学年と思しき女の子が体格のいいお父さんと思しき人に抱き上げられながらないています。その人の発した言葉を聞き凍りつきました。「お前はここに捨てていくんだ!」。女の子は猛烈な勢いで泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝っているのですが、よほどお父さんの逆鱗に触れたようで「お前が悪いんだろう」といいながら子どもの顔や頭を手加減なしにぼこぼこ殴っているのです。どうも、その日は何も買わない約束で店にきたのに、女の子が何かをほしがったため、お父さんは「ぷちん」とがまんの糸が切れてしまったようでした。お父さんは「誰が悪いんだ。きちんと謝れ」と女の子に言います。その子は泣きながら一生懸命謝っているのに、その謝罪では気がすまないらしいのです。

吐き気がしてきたので、退散しました。本当は「悪いのはあなたでしょう?」とお父さんに言ってやりたかった。日日のうっぷんを弱い自分の子どもに手加減なしにぶつけていると感じました。

こういう理不尽な怒られ方をしたときのことを、その子は一生忘れないでしょう。自分も3歳くらいの頃一時愛知県にすんでいて母親の理不尽な怒りにあい激しく泣いていたことをはっきりと覚えています。あまりにもはっきり覚えているので、以前出張で名古屋に行った時、時間を作って当時住んでいた場所へ行ってみました。怒鳴られた場所の様子が記憶とぴったり一致しました。これには本当に驚きました。母親もしかしながら父に理不尽な目にあったことがあるらしく、ことあるごとに「一生覚えているんだから!」といっていました。自分もそのときのことは今でもクリアに覚えているので、きっと一生忘れないでしょう。もっとも事柄としては和解していますのでうらむとかうらまないとか、そういうレベルではないのですが、忘れないよね。

きっとその女の子も忘れないだろうと思います。トラウマになってしまうだろうなと思います。水谷先生の言っていることを思い出しました。「会社で父親が理不尽に怒られる、すると父親は母親を理不尽に怒る、そして母親は子どもを理不尽に怒る」。 弱いほうへ負の連鎖が行くんですよね。

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2008/11/09

大事なメッセージ

大事なメッセージ

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2008/10/30

タブーをなくす

日本ではお金の話題と性の話題はタブーととらえられ、なかなか大きな声で話せない部類のことです。しかし万葉集などを読むと、昔は性の話題については随分オープンだったのではないかと思われる節があります。つまり世の中の変化に応じてタブー視される必要のあるもの、そうでないものがあるということです。

現代はインターネットで様々な情報が瞬時に検索され知ることができる時代です。そういう意味では「隠す」ことはむしろ逆効果になるケースが多いのです。子どもたちに見て欲しくないサイトをフィルタリングするだけでは対処療法のいたちごっこで、結局悪用する人間がたくさん出てきて問題解決方法としてはダメだと思います。

日本人の買春ツアーのように海外にまで恥をさらす、傷を負わせる人たちを、あるいは世界的に糾弾されている日本の児童ポルノに対する規制の甘さなどを根本から変えていくためには、私たちの社会そのものを変えてこれらのタブーをなくす必要があると自分は強く考えています。

まず性の問題に関するタブーに関して、見方を変えていただくために「デンマークの子育て・人育ち」(沢度夏代ブラント著 大月書店 2005年11月)の中身を引用します。

ひと昔前のこと、デンマークを含むスカンジナビア諸国は「フリーセックス」の国と、少々わいせつさを含むレッテルを貼られていた時期がありました。これは、日本人の大きな勘違いで、誤解が一人歩きしていたようです。(中略)その本来の意味は「偏見なく性について話す」ことであり、その大きな目的は、性感染を防ぎ、個人の家族計画を可能にした上で、「望まれた子」の誕生をめざすことです。(中略) どうも日本では一般的に、「性」という言葉は、「陰」にとらえられる傾向があり、発言はタブーに近いところがあります。しかし、性の問題は、人権問題を含む男女平等の発達、妊娠のコントロールを可能にする、エイズを含む病気の予防、社会的な犯罪の減少など、広い分野に大きな関係があることを認識したいものです。幼子から思春期そして青年期に、「正しい性の情報提供」を行うことが子どもたちの健全な成長を促し、やがて健全な社会生活を営む基盤の一つのなっているように思えます。(中略) 私のデンマーク生活が始まって間もない1970年当時、テレビの番組で全裸シーンが放送されていました。しかも、まだ夜の8時代、日本では目にしなかったシーンが、子どもたちもまだ起きている時間に放送されていて、テレビ局の無神経さにあきれたり、驚いたり、目のやり場がなくて困ったのを覚えています。私は「こんな場面を、子どもが起きている時間帯に放送するなんて信じられない」と話し、すっかり夫が同意すると思っていました。ところが彼は「人間の裸は現実だし、隠せば覗きたくなるのは人間の心理でしょう。いつも見ていれば、悪質な興味とならないのでは」と、反応してきました。「うーん、なるほど」と、私がそれまで馴染んできた考えと全く逆の発想だったので、ちょっとしたデンマーク社会入門時のカルチャーショックでした。(中略)

書きかけですがとりあえずここまでで一度公開します。あとで書き足します。

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2008/10/23

家族という闇

8月19日に「これが自分だった」という記事を書きました。あの時、実はあそこで終わらせるつもりではなかったのです。今更わざわざあんな記事を書いたのには訳があります。それは、どうも家族間の心理状態が子どもを傷つける、それが体に反応として出てくるというのが自分のいた家族だけの問題ではなく、もっと非常に多くの家族の中で起きていて、そのことが今の子どもたちにからだの反応として、アトピー、不登校、発達障害、リストカット、自殺未遂、親殺しなどといった一見不可解な現象として出てくるのではないか?と思ったからなのです。うちだけではない。それどころか、家族間に問題があってそれが生きづらさとして感じられるのではないかと気がついてカウンセリングを受けたり精神科に通ったりしている人たちが大勢いるのですが、それすら氷山の一角なのではないかと思えてきたのです。

買って読んではいないのですが、電車の中吊り広告の見出しによると今週の読売ウィークリーでは「自分の過去を消してしまいたい」という見出しで、父親や兄から性的暴力を受けた人の手記が載っているようです。小説の題材としてはこういうことありますけれど、私たちが生きているこの現実の中で「家族」という囲われた密室の中で同じような事がたくさん起きていて、多くの人が傷を抱えているのではないだろうか、それが心理に影響してセクハラ、モラハラが拒否できないようなことにつながったりしているのではないでしょうか。

女子中学生のセイコさんが、「お父さんの私を見る目が気持ち悪い。助けて」と思い切ったように手を上げました。「視線がジトーッとしているんです。わたしがお風呂に入ると、必ずその横の洗面所に来て、わたしをまるでお風呂に閉じこめているように、そこから三〇分たってもお父さんが動かない。また、私の服装に対してもきびしくて、からだの線が出るような服はチェックされるんです。学校の帰りにわたしが男の子と話していたとき、タクシーに乗っていたお父さんが見たらしくて、家に帰って強く叱られました。『どこの馬の骨ともわからない男とつきあうんじゃない』って。逆上したようにわけのわからないことをいうのです。わたしはお父さんがこわい。何をされるかわからない不安があるんです。

そのワークにはお母さんの佐知子さんも一緒に来ました。娘のセイコさんは側にいるお母さんの方を向いていいました。「お母さん、お父さんとうまくいっているの?」「うまくいっているわよ、何いってんの。」この話し方から二人が気軽に話せる関係になっている事がうかがえます。彼女はよく父親に殴られます。殴られている時に、お母さんの佐知子さんは助けてくれません。お父さんの後ろにいて、お父さんと一体になったように自分を見ています。
「父親は、娘が好きなんですよ。」
「佐知子さんはそのことをどう思っていますか。」
「父親として当然でしょう。娘をかわいく思うのは。」
「そうじゃないよ。かわいがってくれていないよ、お母さん。気持ちが悪いよ。」
娘のセイコさんが口をはさみました。
「お母さんは、わたしがお父さんにたたかれていても、私に味方しないじゃない。お父さんの方についてしまって。わたしはどうしてお父さんにたたかれなければならないの。」
「だってセイコがお父さんを怒らせるようなことをいうからよ。」
「でもわたしは自分が思っていることをいっているの。ちっとも私を信じてくれない。どうしてお父さんはわたしをあんなにたたくの。そんなお父さんをお母さんはどう思っているの。」
「愛しているわよ。」
「うそだ。もしそうだったらお父さんはもっとお母さんのことを考えてもいいんじゃない。」
「セイコにはわたしたち夫婦についてわからないことがたくさんあるのよ。二人の間ではわかり合っていることがたくさんあるのよ。わたしはお父さんを愛しているわよ。」
「それだったら、お母さんがこの前のように精神を病んで入院するような事もおきないんじゃないの。どうしてお父さんがわたしを殴る時に、お母さんは助けてくれないの。もういやだよ。」

セイコさんは母親の佐知子さんを追い詰めていきます。二人のやりとりをきいていると、佐知子さんは夫の心が娘のほうにいくことを恐れているのが伝わってきます。夫の気が娘の方ににいくと、自分が見捨てられるようで不安になるみたいです。そして夫が娘を嫌ってくれることで安心しようとしている。

おかしいでしょう?お父さんとお母さんはうまくやっているといっているけれども、「おかしい。とってもわたしにはうまくやれているように思えない。どうしてお父さんがわたしを殴る時に、お母さんはたすけてくれないの?もういやだ」。なんで自分の娘を殴る自分の連れ合いに対して、娘を守ることができないのか。お母さん自身が小さいとき同じような体験をしているか、愛されていなかったのです。本人の記憶になくても実際は、からだはひどい目にあっているのです。親に殴られたり、精神的暴力を受けた人が、やっと自分を愛してくれると思える人と結婚し子どもができた時、往々にして、連れ合いの心がたとえわが子のところであっても自分から離れて行かないように無意識に動いてしまうのです。愛されなかったさびしさは連れ合いの気持ちがまず一番に自分の方に向いていないと不安なのです。もちろん夫は夫で愛されなかった問題をもっていました。

夫婦の両方が、かつて愛されなかった傷をお互い癒し合う関係としてつながっているのが、外から見て一見夫婦睦まじく見えるけれども、どうも中身が怪しいのです。なぜ娘がジトーッと感じるようなそういう気持ちになるのか。

「『お父さんはそんなことないから安心しなさい』とお母さんがどんなにいっても、わたしは信じられない。あれは普通の状態じゃない」とセイコさんは泣き叫びながら、それを訴えてくるのです。この夫婦の関係は、子ども時代の傷をお互い癒すための、たとえばセックスであり、つながりであって、大人の女として、また大人の男としてのつながりではないのです。自分の内なる子どもを傷ついたままにしておくと、たとえ大人のふるまいをしていても成長はそこで止まっているのです。二人はお互いの傷をしっかりと自覚しないで、さびしさだけを補おうとお互いを求めて合っていますから、その行為がお互いの成長をうながす癒しになっていないのです。二人はお互いの保護者になってしまっているのです。ですから夫のもっている男としての欲求は、妻には求められず、自然と娘にいくのです。つまり娘を女としてみるわけです。

女たちは男に対して自分が本当に感じていることを語っていないように思います。セックスひとつとってみても、夫や男に本当に感じていることがいえず、多くの女たちは感じているように演技をしているのではないでしょうか。しかし中年の男や夫たちのからだは、露骨な欲求を事実として表現しているとわたしは思っています。それは、父親である中年の男たちの決して少数とはいえない人たちが女子中学生、高校生、大学生を買って遊んでいるという事実であり、そしてまた妻たちの多くが夫以外の男たちとセックスの関係を持っている事実です。人間として成熟している夫や妻ならできない行為でしょう。また、ワークが深くなってくると、「わたしは子どもの頃、実は父親に性器をさわられていた。小さいときにお風呂で洗ってくれている時にもさわられた。わたしはいやだというのに無理やりゴシゴシとやられた。」本当に性器を洗っているのなら、子どもは恐怖を感じないのです。父親の中にもっと別の感情が動いていることを小さなからだは無意識のところで敏感にキャッチしているのです。彼女にとってみれば、ただ「洗っている」じゃなくて、もっと違った無意識の女のからだへのセクハラ感覚で迫ってきているというのを、ゼロ歳、一歳、二歳の時から感じているのでしょう。だから父親の行為が信じられない。「よごれているから、きれいに洗ってやったんだ。」「違う。わたしが痛い、痛いといっても、お父さんはごしごしこすりつけてわたしを洗った。」「たしかにお前は、あの時痛い、痛いといっていた。」これが体の恐ろしいまでに正確な、理屈では表現できないすごさなのです。

「夜、お父さんとお母さんの間には弟が寝ていて、私はお父さんの隣に寝かされていました。毎晩お父さんが私の性器にさわってくるんだけど、私はこわくて声も出せず、お母さんにもこのことを言えませんでした。今もいっていないのです。」

本当に今もどんなにたくさんの小さな女の子が、いやもう中学、高校生にもなっている女の子が父親の性的虐待におびえていることでしょう。そして兄からの性的虐待についても然りです。とてもこんなおびえと不安とをかかえているからだの状態では、学校で深く学ぶということは不可能です。

じゃあ、こういう大人としての未熟さは男だけなのでしょうか。セイコさんの母親佐知子さんがワークの数日後手紙を送ってきました。
「先生、実はわたし、息子のからだに関心があるのです。息子がスッポンポンになってパーッと部屋の中を走っている。『まったくしょうがないわね、オチンチンぶらぶらさせて』と、わざとふざけた言い方をしているけれども、実はすごく息子のからだに関心があるのです。おかしいんでしょうか。」

彼女は女としての部分を夫に向けることができないわけですね。なぜなら、佐知子さんにとっては夫は自分を子どもの時に愛してくれなかった父親のかわりであり、夫からみれば妻は自分を子どもの時に愛してくれなかった母親のかわりなのですから。もちろん無自覚だとこのことは意識ではわかりません。このように夫と妻の両方がまだ子どもの頃から成長していませんから、双方が求めているのはその満たされなかった愛を埋めてくれる保護者なのです。彼女は夫とセックスをしていますので、男と女のセックスのつもりなのです。しかしからだは知っているのです。だから理屈ぬきに妻のからだは、目は、息子に男を求めてしまうのです。しかし、だれだってこんな状態になっていることを決して認めたくないのです。認めることは、自分と夫との関係を変えていくことを予感しているし、様々な関係のごまかしを直視しなければならなくなり、社会の枠の中から出てしまうことさえやりかねないのをからだは知っているからです。本当に子どもの時の傷をしっかりと癒して手当をしていないと、いっぱいいろいろな錯覚をするのです。そして、子どもをかわいがっているつもりでいるけれども、実際は子どもの親のつもりとは別の苦しいメッセージを受け取ります。

佐知子さんは、手紙の中で「おかしいでしょうか」と語っていますが、わたしはこのことが決してめずらしいことではないことを話しました。それは何万人もの苦しみのもとをたどるワークをしてきて、たくさんの「嫁と姑」の関係の問題にとりくんできたからです。「嫁と姑」の関係が昔よりよくなっていない事実に立ち会い、その問題の深さを感じてきたからです。「嫁と姑」の問題の根底にあるものは、多くは母親が長男と精神的結合状態にあるところからおきているように思えてなりません。自分の夫との関係をつくれない姑たちが自分の息子をとりこみ子離れできず、いかに深く同一化してしまっているかは驚くばかりです。こんな状態の中では、家庭内で嫁と姑がぶつかっても夫は「嫁」からみてもどっちつかず、態度のはっきりしないあいまいな人にしかならず、母親を気遣い、妻の苦しみを感じない夫にしかみえないのです。つくづくと「嫁・姑」問題を「男と女の性の視点」でとらえる必要を感じているのは、わたしだけではないでしょう。

こういう性的なものは、これから社会の中でどんどん問題になってくると思います。例えば女の人の場合に、小さいときにいたずらされた瞬間から、自分を大切に思えなくなり、とるに足らない価値のないもの、きたないもの、人を愛せないものに自らしていってしまうためです。

性的ないたずらを体験した娘たちは、みんな口をそろえて叫んでいます。
「私は恋愛ができない。恋愛してもいつもうまくいかなくなる。あのいたずらされた日から世界はカラーから白黒に変わった。」

これは前回の時も引用した「居場所のない子どもたち」(鳥山敏子著 岩波書店1997年2月)から、一節まるごとひっこぬいてきました。ここに書いてある事柄ですごく納得のいくことがあります。母親はたぶん自分のことを性的対象としてみていた事でしょう。仮にそうでなかったとしても、そのように自分が感じてずっといやだったことを思い出しました。具体的にどういうことがあったかはここではさすがに書けません。

これを読んで思い当たることがあった方は、ぜひこの本、鳥山敏子さんの本を読んでください。そして必要だと思ったらカウンセリングにかかってください。

自分は両親といるのがいやでいやで、だからしょっちゅう旅行に出かけ、休みもつぶしてワーカホリックに仕事をしていたのです。結果としてからだが限界点に達し「うつ病」というかたちで、周囲にも目に見える形で問題が表面化したのだと思います。しかし結果としてそれによって何回と無くカウンセリングを受け、ヒプノセラピーによって子ども時代をやりなおしまた傷にパッチを貼り、べてるの家と出会うことで「治らなくても良い」「人の為に生きるのではなく自分の為に生きる」「自分で自分を支えられないのに人を支えようとするのは、実は逆で自分が支えて欲しいからだ」など、さまざまな気づきを得ました。これは不幸中の幸いだったかもしれません。もしうつ病にいきつくところまでいかなかったら、鳥山さんがここに書いておられるような、典型的な「精神的母親・長男合体型」になっていて、好きな女性を愛する事も出来ず、自分のやりたい事もわからず、一人暮らしも出来ず、今自分が抱いているような夢を持つ事もままならず、子どもたちと育ち合うこともできなかったでしょう。本当に振り返ってみれば恐ろしい修羅場から抜け出してきたのです。

よく「こんなに明るい元気なうつ病患者はいないんじゃないの?」といわれますが、それは心理的なサポートを充分に受け、「自分が自分でいること」がこういうことなんだと気付きをもらえたからです。人を愛するということはどんな小さな条件をもつけず、丸ごとその人を受け入れる事。病気があろうと、障害があろうと、何があろうとです。それに気がつくことが出来たのはなんとラッキーな事でしょう。

精神科に通院している自分のほうが、こうした問題にふたをして社会的につくろいながら暮らしている多くの人たちと較べるとずっと精神的に健全なのではないかと思えてくるのです。この問題の根は深い・・・。

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2008/08/19

これが自分だった・・・。

いきなり引用からいきます。これは長く読んでいると自分の体調を崩す方面の本なのです。

では親とは一体何なのかと問うとき、簡単にいえば(中略)子どもが子どもとして生きることを保障できる人、子どもの命を守る人、子どもが安心していられる場所をつくることができる人(強調はなんちゃん)だといえるでしょう。 子どもが自分の身の危険を感じたり、自分がいいたいことがいえなかったり、したいことがどういうことかわからなくなったりということでは、その子にとって親はいなかったことになります。子どもが子どもとして受けいれられる、また、無条件に(強調はなんちゃん)、その存在を肯定される、生まれてきたことが祝福され、その存在がとても大切に思われて、そこにいる。そういう居場所があってはじめて子どもが子どもとして存在できるのです。親とは、そういう居場所を保証することのできる人のことだと思います。

ところが、そういう大人の親がいないと、小さな子どもでも、子どもでいることができずに、親を守ろうとする親にとっての保護者になってしまいます。たとえば、こんな話を高校教師の和人さんがしてくれました。和人さんが遅くなって帰ってくるのをまだ一歳にならない、十ヶ月ぐらいの赤ちゃんである真里ちゃんが、待っているというのです。真里ちゃんは、お父さんの帰りが一時、二時であっても、小さな鍵の音で目をさまします。そして起き出して玄関まで迎えにくるというのです。真里ちゃんは両親が大げんかにならないようお母さんにもお父さんにも気を配り、ヨチヨチ歩きで、お父さんを機嫌よく迎えに出てくるのです。真里ちゃんは、お父さんである和人さんと小学教師のお母さんである多津さんの仲が悪いのを察知していて、いつも不安でたまらないのです。深夜、和人さんが帰ってくるたび、イライラしているお母さんの心を感じとって、二人が何とかぶつからないようにしているのです。
お母さんがお父さんを怒鳴って、また遅かったのねということから、いさかいが起きていくことに対して、おびえているわけです。二人の緊張を緩和するために、まだ一歳にならない赤ちゃんが起きてニコニコしながら、お父さん、お帰りなさい、という、あまり舌が回らない状態の赤ちゃんが、ニコニコ微笑みかける。そんな小さな子どもが、赤ちゃんではいられないのです。一時や二時まで起きていたい赤ちゃんなんかいません。眠くなったときには眠るのが赤ちゃんなのだけれど、赤ちゃんとして生きることができないのです。
そのように、子どもが小さい頃から緊張する、家の中で不安に過ごしているという例は枚挙に暇がありません。しかし、こういう子どもたちのほとんどは決して親を悪くいいません。親の苦しさを思い出しては涙し、自分の要求を押し殺して親を守ろうとし、守れない自分を責めたりさえもするのです。

10ヶ月の頃からやっていたかどうか定かではありませんが、この赤ちゃんと自分はほぼ同じことをしていました。30過ぎてうつ病で布団から起き上がれなくなっても、いさかいを始める親の間へ体をずるずるひっぱっていって間に入りました。こんな状態の自分が出て行けばケンカを中断するしかないだろうと思って、そうせずにはいられなかったのが自分の親の家でした。

心の痛みを我慢して痛みを感じないようにする為にわざと感覚に鈍感になるようにしました。すると心だけでなく体の反応も鈍感になるのです。自分が小学生の頃に歯医者へ行って、歯科医が神経まで達してる虫歯を発見して「これ、痛くなかったの?」と聞いてきたことがあります。初めは痛かったけれど、痛いのを我慢しているうちに痛くなくなったのです。

こんなことを30年やっていたのですから、多少神経がおかしくなっても仕方なかったでしょう。

書いているうちにやはりからだが緊張してきてしまいました。今日はこの辺でやめておきます。ちなみに引用した本は「居場所のない子どもたち」(鳥山敏子著・岩波書店・1997年)です。

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2008/07/04

子どもに優しくできない

これもよくある心理的問題のケースの一つです。日経朝刊7月2日、こころのサプリメントより。

A子さんは三十代で結婚。数年間の不妊治療の末ようやく子どもが生まれた。娘が生まれた当初は、生まれてきてくれたことに感謝し優しく接していた。しかし成長するにつれ、その優しさも薄れ、悪いと思いながらもきつくあたってしまうことが増えていった。

きつく当たった後は後悔の念に駆られ「優しくしなければ」と自分自身に言い聞かせるのだが、しばらくすると同じ過ちを繰り返してしまう。「なんとかしなければ」と決心し、カウンセリングに訪れた。

A子さんは「娘は心の底からかわいい。なぜきつく当たってしまうのかが分からない」と語った。そこで、きつく当たってしまう場面を思い出してもらい、どんな状況のときに、どんな感情がわいて、行動に至ってしまうのかを再体験してもらった。

すると娘にたくさんの愛情を与えたとき、「もうこのくらいあげたから」いいじゃない「私はこんなにもらっていないのにあんただけずるい」という嫉妬の気持ちが根源だと分かった。そこで今度は母親の愛情をもらえなかった幼いころのA子さん自身に返ってもらい、架空の母親に向かって自分の気持ちを伝えてもらった。最初は怒りに任せて、病気がちな母親に甘えることができなかった恨みを伝えていたが、次第に涙声に変わり、母親に甘えることができなかったことがどんなに悲しかったか語り始めた。

語り終えるとA子さんは子どものように泣きじゃくった。本当の感情は怒りではなく悲しみだったのである。そのことに気づき受け入れたとき、娘に対する攻撃性も消えていた。

子どもに優しくできないという母親の悩みは非常に多い。そんな時、優しくできない自分を責めるよりも、子ども時代の自分を振り返りその自分を誰よりも理解し受け止め優しく接することが必要だ。それが結果として目の前にいる我が子への優しさにつながっていくことになる。

自分がヒプノセラピーという催眠療法でやったこともこれと似ています。子どもの頃に親から受けた行為、あるいは与えられなかった優しさが原因で、大人になってからの行動に何がしかの障害(というほどのものではなくとも)を抱えている人は実に多いものです。これを読んで何らかの心当たりのある方は一度カウンセラーにかかってみることをお勧めします。

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2008/06/09

崩れていく保育園・学童保育

鳩ヶ谷市でも以前(今も?)保育園の民営化反対という親御さんたちが動いていましたが、行政は「それでは」と形だけ公営の民間保育園を作っているらしいですね。鳩ヶ谷の話ではありませんが、都内では非常勤保育士のウェイトが上がるばかりでなく、派遣保育士なる人々が園を支えている現状が全国に広がりつつあるのだそうです。園長と主任以外はすべて派遣保育士などという園もでているとか。しかも派遣保育士に都内のある区が払っている金額は1800円から2000円。ところが保育士の手取りは1120円。この時給で働く保育士さんたちに延長保育や休日・夜間保育、障害児やアレルギー児への対応、育児困難家庭やモンスターペアレンツの対応、地域の育児支援までありとあらゆる役割が回ってきています。医療崩壊もさることながら保育崩壊の状況です。

自分の知人で保育園に就職した人のかなりのウエイトがうつ病になって園をやめています。保育に対して理想を持っている人ほど現実のひどさをみて、私に出来ることだけでもなんとかしようと頑張りすぎて壊れていくのです。

子どもを保育系や介護系の大学や専門学校に進ませようと考えている方に自分は「お金の無駄だからやめよう」と言わざるを得ない。低賃金・低環境・不安定の職場しかこの分野にはないと言っていいでしょう。保育の現場では子ども達を「回し」「流す」ので精一杯だそうです。

学童保育も崩壊が進んでいます。共働き家庭の急増により整備が追いつかない状況。それに対し厚生労働省は71人以上を抱える大規模学童保育に対し補助金を廃止することを決めたとか。学童保育を全廃して「全児童対策事業」に衣替えさせているそうです。全児童対策とは全ての子どもに放課後の居場所を提供すること。しかし現実は難民キャンプのようだ(川崎市のある「わくわくプラザ」への保護者の声)とか。

お金のある人たちは自主的に学童保育を作って運営したりしているそうです。子どもの段階から「大きな格差」が生じている現状。いいのか、このままで。金がないために児童館と老人施設を無理矢理一緒にしたりしているところもあるそうです。

おとといも書きましたが、人に対するケアの金がこんなに不足していて、誰が幸せになれるのだろう?とおもわずにいられません。

週刊東洋経済2008年5月17日号を参考にしました。

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2008/05/05

鳩ヶ谷子ども祭り

鳩ヶ谷子ども祭り
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鳩ヶ谷子ども祭り
第2回鳩ヶ谷子ども祭りの様子です。市役所のロビーを使って各団体の出し物があり、エントランスでは各団体のブースが出ています。

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2008/05/03

財政赤字による子ども虐待

昨日ひっぽの集まりに出かけたときのこと。約束があって(そのつもり)自分は参加している子どもたちに向けて、自分のうつ病の話からインドへ旅立ち、今度はインドに滞在することを目指して再訪問するまでのことを子どもにもわかりやすいように原稿を書いて、お話ししました。いつもは大人向けにばーっと話してしまうのですが、子どもたちに語りかけるように話したら、自分の周りに集まってきてみんなで話を熱心に聞いて質問もしてくれました。こんな子どもたちが自分はかわいくて仕方がありません。

帰宅する道すがら、子どもたちの顔と数日前にここに書いた記事「みえてきたもの」が思い浮かんで何とも言い難い気持ちになりました。国や自治体が抱える数百兆円の借金の山は、私たちはもちろんですがあの子どもたちも担保になっているのです。ごく短期的な仕事や特定のセクター向け財政支出のために巨額の借金を重ねることは、全く事情を知らない子どもたちに対する虐待といってもいいでしょう。

この記事を読んでみてください。新福岡空港にみる財界人の駄目さ加減土地勘がないと具体的な話にはついて行けないかもしれませんが、趣旨はよくわかると思います。本論で特に大事なところを引用します。

ところが、移転推進派はそうは考えないらしい。地元の財界で構成する新福岡空港促進協議会は、新空港建設に向けて活動するという方針を決めた。しかもその候補となったのは、国などが示した三苫・新宮ゾーンである。ここから博多駅に向かうとなると、迂回したコースをたどらざるを得ない。当然、従来の福岡空港に比べれば、空港から市街地・商業地への所要時間はゆうに1時間はかかるだろう。当然、東京便などは至極不便になり、既存の福岡空港存続運動が起きるであろうとことは伊丹の例からも想像に難くない。(中略)

現状の関西国際空港と同等以上のアクセス性を実現するとすれば、陸から空港まで渡る陸橋の建設と鉄道の敷設も必要だろう。工事費は数千億円と発表しているが、関空の例(第二滑走路まで入れて総額4兆円)を見れば分かるように、すべて含めて考えれば滑走路一つでも2兆円くらいはかかると見て間違いないだろう。冬季には強風が吹き荒れる玄界灘の真ん中に造るとなれば、横風用の第二滑走路が必要、などということを後で言い出す可能性もある。なぜわざわざ余計なコストを発生させてまで、そのような不便かつ危険なところに空港を造らねばならないのか。

いや、余計なコストがかかる大工事が必要だからこそ、「なるべく遠いところに、でかい空港を造ろう」ということになるのが、我がニッポンなのだ。まさに「壮大なゼネコン国家」である。地元の経済人にとっては、工事がしたいだけなのは明らかだ。これが実現することになったら、うれしくて仕方ないだろう。(中略)

結局、そのような不便な条件を持つ場所に空港が造られるのは、「なるべく遠くに置いたほうが土木にはいい」「余分に工事ができる」からだ。必要もない海上空港などその最たるものといえよう。あたら利便性の高い場所を捨ててへき地に空港を移転したために、地域経済が縮小した例は日本にたくさんあることを移転推進派は知ったほうがいい。(中略)

嘆かわしいことに、広島空港を山の中に移転させた張本人の財界人たちは、いま元の場所である観音町に主として東京行きの便を復活させようと動き出している。無節操の極みと言うべきであろう。大工事をしたいがために、自分たちが山の中に移転させておきながら、このやり方はないだろう(もっとも移転の当時は、福山市出身の宮沢喜一氏の働きでこの場所に決まったという一面もあるのだが)。

 いま、このような話が全国至る所にある。圧巻は神戸空港と静岡空港(建設中)だ。前者は伊丹と関空の間に付け入るスキがあるはずもなく、有用性があるのは1日数便と貨物ぐらい、そして後者はスズキとヤマハの社員のための成田便くらいしか有用性がないのではないか、といわれている。(後略)

ガソリンの暫定税が復活して、たぶん今まで以上に車のユーザー、特に運送業者は重い負担を感じているでしょう。これが食料品をはじめとした物価上昇に拍車をかけるのは間違いないし、中小零細運送業者のなかにはコスト負担に耐えられずトラックの整備を怠り、先日の東名高速の事故のように走行中にタイヤが脱輪して対向車線に飛び出すようなことが頻発するのではないでしょうか?「税率を復活させなければ赤字が増える」という論理に至っては「本気か?」と叫ばずにいられません。総理の福田が暫定税率失効に際して「国民におわび」しましたが、そのとき「財政に穴が開けば将来の子どもたちに負担を先送りすることになる」と言っています。話が逆だ!

国のありかたを根本から考えるべきです。前から自分が書いていることですが、繰り返します。財政赤字は子ども虐待の最たるものだと思います。

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2008/02/29

目の前にある貧困

貧困というと発展途上国のものと考えてしまいがちです。

昨日グラミンフォンの話を書いて、中で「銀行と貧困は10年後博物館にあるかもしれない」と記しました。しかし実際には貧困とはしぶといもので、そう簡単に無くならないということも承知しています。

例えば、鳩ヶ谷の変電所交差点の歩道橋の下には人が住んでいます。

荒川の河川敷にもいくつかの小屋のあるのが見えたものです、が最近その小屋のあった付近の木が切られ護岸工事をしています。あれは護岸を守るための工事ではなくそこを住みかにしていた人たちを追い出すための工事である事は明白です。

ずっとブログを書きながら、いつか書こうと思っていた、涙の出るような話があります。

4畳半の台所と、6畳の部屋がふたつ。 そんな家に14人で生活している家族がいた。 母一人、子ども11人、孫も二人いた。

 ある夏休み、当直だった私は学校の近くにあるデパートに夕食を買いに来ていた。すると突然、制服を着た少女が走り込んできて、数人の店員たちに押さえられた。両腕をつかまれると、持っていた紙袋からごろごろと弁当箱がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」必死に謝る少女を、店員たちは有無も言わさず裏へ連れていこうとする。少女の制服はひどく汚れていたが、それが中学生のものだとわかった。私はすぐに後を追い、店員たちに声をかけた。
「勘弁してあげてください。お弁当の代金は私が払いますから」
腕を解放された少女は、すぐその場にかがみこんだ。そして床に散らばった弁当の中身を、猫のようになめはじめた。あまりの異様な光景に、店員たちはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、私は彼らにお金を渡しつつ引っ込んでもらうように頼んだ。
(中略)

 少女の名前は美晴といい、古い市営住宅に住んでいた。
 決して広くないその住まいには、何組もの布団が敷きっぱなしになっている。その上に、カップラーメンや弁当の残りかすがびっしりと散乱していた。部屋の真ん中ではやつれた感じの女性が寝ている。奥の部屋には、乳飲み子を抱く少女も二人いた。

 美晴が弁当の入った袋を見せると、子どもたちがわっと集まってきた。

 女性は私の姿を見るなり布団から出て、おじぎをした。それから台所の一部を片付けて、二人分座れるスペースをつくってくれた。
「子どもは11人いて、美晴は三女なんです」

 もともと孤児として育ったという母親の過去はすさまじかった。彼女は中学を卒業した後すぐ、職場で知り合った男と同棲したが、子どもができたとたんに捨てられ、それからは主に売春で生活を支えてきたという。
 彼女には避妊の知識がなかったため、子どもは次々と生まれたが、11人の子どもの父親はすべて違った。誰からの助けもなかった。それでも彼女はずっと、たとえ妊娠しているときですらも、街角に立って体を売り続けた。
 2年前に過労と性感染症で倒れ、売春ができなくなった。それからは17歳の長女と16歳の次女が、母親のかわりに売春で家族の生活を支えた。さらにその娘にも、それぞれ父親がわからない赤ちゃんができていた。
 しかし、三女の美晴だけは売春が許されなかった。家族の中で一番勉強のできる美晴は、14人の家族にとっての唯一の希望だったからだ。家族全員が美晴を高校に入れて、立派な人になってほしいと願っていた。
 もちろん美晴も家族たちを愛していた。小さい頃から成績がよく、性格も明るかった美晴は、学級担任や福祉事務所員から何度か里子の話を持ちかけられたが、いつも断っていた。自分だけが貧しい生活から逃れることよりも、家族みんなで幸せに暮らすことを望んだ。素晴らしい家族だった。私は話を聞きながら胸を打たれていた。長い教員生活でいろんな家族と関わってきたが、これほど慈しみあっている家族を見たのは初めてだった。
(後略)

これは「夜回り先生と夜眠れない子どもたち」(サンクチュアリ出版 2004年10月)から抜き出しました。自分はこの話を読んだとき、中国の極貧の村の話を思い出しました。その村でも一人の勉強の出来る女の子がいて、村中がその子を学校に出したいと思ったのです。しかし本人の親はもちろん村の誰も学費を援助できるような人がいませんでした。村長は逡巡した挙句、村を担保にお金を借りてその娘を町の学校へ出したのです。その娘は「勉強して必ず村のためになるような事ができるようになって帰ってきます」と涙ながらに誓って旅立ったのです。NHKのドキュメント番組だったと思います。

まるで同じだ。

中国の極貧の農村の話が、実はひとごとではなく日本の横浜(だとおもいます)に転がっているのでした。

格差格差と騒ぎ立てるちまたの人たちはこういう話を知っているでしょうか?

「夜回り先生」こと水谷修氏の著書にはこういう話がそれこそいくらでも出てきます。犠牲になるのはいつも子どもたちです。

親がアル中でどうしようもなく、アダルトチルドレンとなって苦しんでいる子どもたち・・・。でも実は当の親も子ども時代に親のアル中で傷ついていた、飲まずにはいられなかった・・・。そういう貧困と精神病の連鎖がついこの間まで日常だったところが北海道の浦河です。「べてるの家」の初期のメンバーたちはそういう環境下にいたのです。町の経済も疲弊していましたし、アイヌ民族をオリジンとする人々への差別もありました。べてるはそういうすさまじい現実の中から生まれたのです。

精神科病院に入院するとき「ご家族に同じような病気を持っている人はいますか?」と聞かれました。自分の家系で精神科病院に入院したのは自分が初めてでしょう。あまり違和感をもたなかった質問ですが、あとで強烈に響くようになりました。地域では「精神病患者を出した家」というだけで白い目で見られてしまうところもあります。しかし、自分がいろいろな書物を読んで分かってきたのは、病気が遺伝するのではなく貧困やきわめて困難な環境(部落差別など)が親を苦しめ、その苦しみが子どもに深い傷を与えて、病気が連鎖していくという事実でした。地域のコミュニティがそういう人たちを暖かく迎え入れれば、おそらく世代間連鎖はとまるでしょう。しかし・・・。

答えのない問題です。

はっきりといえるのは「貧困」はよそ事ではないということです。日本国憲法が基本的人権と生存権を保障しているのに・・・です。

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2008/01/07

安全でない家庭

新年のミサでベネディクト16世が出したメッセージではこのようなことを言われています。

男と女の結婚に基づく、いのちと愛の親密な交わりである自然な家庭は「個人と社会が人間らしくなる第一の場」であり、「生命と愛のゆりかご」です。それゆえ家庭を第一の自然な社会とすることは適切です。家庭は「人間の人格の生命の基盤となる、神の定めた制度であり、あらゆる社会秩序の原型です」

神が定めたかどうかは別にして、家庭が社会秩序の原型であることは疑いを入れません。

もう少し続けます。

実際わたしたちは、健全な家庭生活の中で、平和のいくつかの根本的な要素を体験します。すなわち、兄弟姉妹の間の正義と愛、両親が示す権威の役割、若さや高齢によって弱い立場におかれた成員に対する愛に満ちた配慮、生活に困った時の助け合い、進んで人を受け入れ、必要な場合はゆるす姿勢です。だから家庭は「なくてはならない第一の平和の教師」なのです。

確かにそうですが、皆さんの周りを見ても家庭生活がこのような理想的姿で運営されていないケースが多いとお感じになるでしょう。実際自分の育った家庭はこんな理想的なものではありませんでした。

それゆえ家庭内で暴力がふるわれることは、何よりも許しがたい事です。(中略)家庭は自然が若者のために準備した「巣」です。この「巣」以上に、若者が平和の本来の「味」を味わう事をゆっくりと学べる場があるでしょうか。家庭について語ることばが、平和について語ることばです。わたしたちは平和を語ることばを失わないために、つねに家庭からことばを学ぶ必要があります。さまざまなことばがあふれる中で、社会はたえず家庭の「文法」に耳を傾けなければなりません。すべての子どもは、ことばを覚える前であっても、母親や父親のまなざしとしぐさからこの「文法」を学ぶからです。

ここで言われる暴力のなかには言葉の暴力(セクハラモラハラ)も含まれるでしょう。

したがって、たとえ無自覚にであっても、家庭という制度を攻撃する者は、国内的な次元でも国際的な次元でも、共同体全体における平和を脆弱なものとします。

ここでいう「家庭という制度を攻撃する者」には、働く人を長時間拘束して彼らが親たる時間を奪う、人事管理がいい加減な職場も含まれると思います。

このメッセージはもっと長いものなのですが、読めば読むほど私たちが実際に生活を営む「家庭」との乖離が大きすぎて絶望的な気持ちになってきます。もちろんここにかかかれているような理想的家庭が多数派ではあると思います。しかし家庭より安全だからといって自ら児童相談所に飛び込んでくる子どもたちもいるくらいで、家庭が安全を保証していないケースは枚挙に暇がありません。そんな「危険な家庭」で平和がはぐくまれるわけがないと思います。特に両親のいずれか(多くは女性)がモラハラセクハラの犠牲になっているケースではなおさらで、母親が自分の安全のために子どもを危険にさらすことすら発生します。

日本で無差別殺人が頻繁に起こったり、カルト宗教に入信して身の安全を他人にゆだねたり、自分で自分の命を終わらせたりするケースが多いのは家庭での安全が担保されないから、そこに根本的な原因があるような気がします。但しこれは日本だけのケースではありません。世界的に見ると自分の身を犠牲にして社会秩序を混乱させるいわゆる自爆テロが人々の身近で頻発しています。自爆テロのようなことをする(洗脳されてしまう)人たちが平和な家庭とは縁遠い生活を強いられてきたのだろうことは容易に想像できます。平和な家庭の味を知っている人は、自分の命を差し出して人の平和な家庭を陥れるようなことはしないでしょう。

自分が日本の現状でとても心配している事。それは若い女性の異常な占い信仰です。たまに興味があって「アンアン」などを買って読むことがあるのですが、美しくなりたいという願望をくすぐる美容外科などの広告があふれているのは男性誌も同じで、年頃だったら仕方ないと思います。しかし占いに関する広告のボリュームの多い事にはホントびっくりするとともに考えさせられます。日本で普通に何にも考えずお嬢さん生活をすると、自分のことを自分で決められないようにさせられてしまうということでしょう。本気で自分の大事な人生を他人に、占いにゆだねてしまう。その結果自分で決められない女性のまま結婚してセクハラ亭主、モラハラ亭主の犠牲になってしまうのです。いかに自分で決める力を失っているか。それは「デートDV」なんてことが起こるほどです。結婚もしていない、いつ逃げようと思えば逃げられる恋人関係のうちにDVの犠牲になってしまうのです。愛情=束縛だと思ってしまう。違います。愛情とは相手をより自由に生きる事を容認するものです。なぜなら安心があるから。子どもが親の愛情を感じていればこそ行動範囲を広げていくことができるのと同じように、男女間の愛情もお互いの存在があるからこそ自分が自分らしく外へ活動範囲を広げていける、そういうものなのです。

デートDVに関しては別記事に書きます。セクハラモラハラは過去記事をご覧になってみてください。セクハラも普通に考えられている以上に多様なものがあるのです。

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2007/08/29

アトム共同保育所 序章

だいぶ以前から記事にしようと思っていたアトム共同保育所の事。今度こそものにしようと苦戦中です。今日は序章として、所長代理の市原悟子さんが子ども達の卒所式で親御さん達に話した事を「裸で育て 君らしく」(NHK出版 2003年)から引用します。

「お父さんやお母さんにお願いしたいのは、初めての子どもとかで期待は大きいと思うけれども、大人は、自分の夢は自分で実現するように努力してほしい。子どもは子どもで独自の夢を持って生きて行くと思うので、そういう夢を大人の期待で絶対つぶさないでほしい。それでつぶれていった子どもをたくさん見てきた。子どもの力を上から押さえつけないでほしい。それはぜひみなさんにお願いしたいことです」

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2007/08/22

日能研のかばん

赤羽岩淵駅から赤羽駅まで歩いていたら、丁度中間にある日能研という中学受験塾(関東ではブランド塾です。関西なら京進ですか?)から夏期講習帰りの子ども達が出て来るところに遭遇しました。普段帰宅の頃にたまたまぶち当たる事もあり、いつも気になっていることがあります。日能研は子ども達にオリジナルのかばんを持たせます。これが親のブランド意識をくすぐる仕掛けでしょう。しかし日本以外であんなかばんを背負って子どもだけで街中を歩くなんてあまり他の国では例のない事だと思います。親はそうは思っていないでしょうが、「自分は金持ちの子どもです」と看板を背負って歩いているようなものだと思います。アメリカでさえ子どもが学校へ通学する時はスクールバス利用でしょう。南アフリカの日本人学校では学校を囲む壁に電線が引いてあるそうです。治安が悪くなったとは言え、昼間なら子どもだけで街中を歩ける日本ならではの光景でしょう。先日カナダから友人が来たときも「最近日本でも治安が悪くなってきた」と言う話になると「子どもが歩いて学校から帰宅できるくらいだから、やはり日本は治安がいいよ」といっていました。

これは大地震が起きても略奪が起らない不思議と同様、他の国の人に説明するのが難しい事柄だと思います。少なくともあんな犯罪を誘発しそうなかばんを持たせる塾の神経にはあきれます。自分が親ならあんな塾には絶対行かせない!夜一人で赤羽岩淵まで歩いて地下鉄に乗る子もいるみたいですが、よく行かせるものです。塾の中身そのものは優れているのかもしれないけれど・・・。あのかばんがどうしても気になります。たった数万円の現金のために大の大人が3人もよってたかって弱そうな女性の一人歩きを狙って、殺人まで起こすんですよ。

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2007/06/13

児童心理学

ご心配をおかけしましたが昨日はなんとか普通に動くことができました。デイケアへ行って、ヒッポの集まりに行きました。ここは初めてのところだったのですが、まだできて間もないところでメンバーのまとまりもいまいちと言う感じだったのですが、特に気になったのが一人の男の子でした。子どもって、誰かから聞いた言葉を真似するでしょう?小学1年生のその子は特に言葉が汚いのです。おとうさんがああいう言葉を使うのでしょうか?反抗期なのか、「やろう」といったゲームにも「やだ」といい続けます。しかし始めてみると結構乗ってくるのですが(トムとジェリーという追いかけっこです。大人にはなかなかハードです)、今度は曲が終わってもやめようとしない。いちいち反応が悪いのです。しかも備品のいすを蹴飛ばしたり小さい子を殴ったりする。メンバーの大人は「小学1年生の男の子なんてあんなもの」と思っていたようですが、ちょっと違うように思えました。お母さんは無理にヒッポをやらせていないかな?

その男の子を目線の端でずっと観察していたのですが、言動が他の男の子とちょっと違うように思えました。あんなものなのかな?

その帰り、電車に揺られながら「児童心理学」をやりたい。願わくば教職をいまから取りたいなと思いました。教育実習が厳しそうですが、だめでも一通り勉強してみたいなと思うようになりました。「教職なんか・・・」と思っていた自分の変わりぶりに我ながら驚きます。ヒッポであらゆる年齢の子どもたちと接しているうちに「子ども、面白い」と本気で思えるようになってきました。色々な大人と接しているから、自分の子供時代と違って孤立しなくてすむように思えます。プチ反抗期の子。やたらと恥ずかしがりやの子。年代の特徴として出てくる部分があるはずで、それをつかんでいたらもっと子どもたちと触れ合えるなと思っています。

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2007/05/20

生きのびる力

以下の記事はgooのニュースランキングで紹介されていたものです。リンクを貼っても読めなくなってしまうので転載します。


16歳「茶髪」少女 バイト先からクビ通告 個人で労組へ
2007年5月19日(土)19:11

 ビジュアル系バンドや少女漫画が好き。そんな16歳の少女が、髪の色を理由にアルバイト先の店長から突然、クビを通告された。「納得できない」。彼女は闘うことを決めた。個人加盟できる労働組合(ユニオン)に入り会社と交渉、撤回させた。

 東京都練馬区の福家(ふくや)菜津美さん(16)は昨春、中学を卒業。高校には進まず、母と姉の3人暮らしの家計を支える。

 週5日、朝8時から夕方5時まで牛丼チェーン店で働く。さらに週2、3日は午後6時から9時半までファミリーレストランで。ダブルワークで月収は約16万円。高卒認定試験(旧大検)をとって大学に進み、獣医師になるのが夢だ。

 ところが3月、ファミレスの新店長に「髪の色を黒くしなさい」と指示された。極端な茶髪ではないし、店では規則通りに束ねている。1週間考えた後、拒否した。店長からは「それなら一緒に働けない」と告げられたという。「1年間、一生懸命働いて時給も20円あげてもらった。それが髪の色だけで否定されることが悔しかった」

 首都圏青年ユニオンに入って交渉することにした。4月の団体交渉には、同ユニオンの16人が支援に駆けつけてくれた。会社側は「解雇通告だというのは誤解」と説明。店長の「クビ」発言についてもはっきり認めない。だが福家さんは「一緒に働けないと言われたら、クビと同じじゃないですか」と思いをぶつけた。交渉の結果、会社は、髪を黒くしなくても今まで通り働くことを認めた。

 福家さんは20日に東京・明治公園である「全国青年雇用大集会2007」で体験を話す。

 「16歳でも、働く人の権利を知らないと絶対損をする。何も知らなければ、何も言うことができません」


もう1本


中学生25%が「うつ状態」 厚労省調査(J-CASTニュース)
中学生の25%が「うつ状態」。厚生労働省の研究班が約600人を調査すると、こんな結果が出た。うつ状態は、自殺につながりかねない危険性を指摘されている。専門家は、いじめの有無ばかりに注目せず、子供の心の状態に教師や親が関心を高める必要性を指摘している。

調査は、研究班主任研究者の保坂隆・東海大医学部教授(精神医学)らが2006年8月、静岡県内のある公立中学1校の1~3年生を対象に行った。「生きていても仕方ないと思う」「独りぼっちの気がする」など18項目を質問した。回答は「いつもそうだ」「ときどきそうだ」「そんなことはない」の中から選ぶ方式だった。

高い数字だが、現状を表している
18の質問すべてに答えた男女557人のうち、24.6%の137人がうつ状態と判断された。残りはうつ状態ではなかった。保坂教授によると、うつ状態と言っても、治療が必要なうつ病に近い状態なのか、悩みを人に聞いてもらえばすぐに直る程度の状態なのか、はこの調査からは分からない。

しかし、過去に行われた北海道や九州での中学生たちを巡る調査と比較しても似た数値を示している。保坂教授は「(25%は)高い数字と驚くかもしれないが、現状を表している」と考えている。

保坂教授は、子供の自殺対策を議論するときに、いじめ問題にばかり焦点が当たることに警戒感を持っている。子供たちの悩みはいじめだけでなく、進学や異性関係、親子・友人関係など様々だ。悩みをかかえうつ状態になった子供がいじめのターゲットになってしまうこともある。早い段階で子供の悩みに気付き、必要なら専門医に連れて行くなどの対処が必要だ。大人たちはどうすればよいのか。

――学校では、担任教師たちが、生徒ひとりひとりとじっくり話し合う時間をつくることが大切だ。導入が進むスクールカウンセラーやいじめの有無の調査ではなく、身近な存在として生徒の心配事に耳を傾けるだけでも気付くことがあるはずだ。親は、自分の子に限ってうつ状態などとは無縁だ、という思い込みを捨てる必要がある。だれでも陥ってしまう可能性があると知り、やはり会話を重ねるべきだ。国へは、中学生対策としてだけでなく「こころの安全週間」を創設し、自殺防止や周囲のうつ状態の人に気付くよう啓発することを求めている。全国で毎年行われている交通安全週間並みに一時期に集中的に関心を高めようとするものだ。

警察庁の調べでは、2005年の中学生の自殺は66人、04年は70人だった。

[J-CASTニュース:2007年05月20日 15時36分]


学校の先生も疲弊しているので(カウンセラーの中には学校や幼稚園・保育園の先生むけのカウンセリングを中心にしている人もいます。)教師にこれ以上一人ひとりをみろ!といっても無理だとおもいます。教師や保育士などのうつ病罹患率はもっと高いでしょう。四角四面のことを学校で教えていてもだめだと思います。自分のような外部の人間が「学力」ではなく「生き延びる力」を子どもたちにつけてあげたい。その思いはますばかりです。16歳で労組を組んでしまった子のように能力のある子はかなりいると感じます。ちょっとサポートしてあげるだけで生き抜く力がぐんとのびる。国家間で学力競争している場合ではないと思います。当事者の視点がすっぽり抜けているのは障害者に対する問題に関してもまるで一緒だと感じました。

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2007/05/16

アダルトチルドレン卒業宣言

アダルトチルドレンについてまとめたのもなんと2年以上前になってしまいました。アダルトチルドレンは大人なのに子どもっぽい人とよく誤解されますが、そうではなく親が精神的に未熟であったがために、大人の役割をせざるを得ず一人傷ついてきた子どもとして育った人のことを言います。詳しくはこちらをご覧ください。

他の国もそうなのかもしれませんが、日本では自分がアダルトチルドレンと知らずに過ごしている人が大勢います。そういう人は自分の体に不調が出なくても、自分の子どもへの接し方で問題をかかえ、あるいは自分のパートナー(夫または妻)との関係で問題をかかえてしまうケースが大変多いのです。

アダルトチルドレンという傷は一生治りませんが、適切な方法で現在かかえる問題をうまく好転させていくことができます。この方法はほぼ確立されているといって差し支えないでしょう。具体的に言うと安全な環境においてその人の子ども時代にとてもイヤだったこと、無理して我慢してきたことを思い出し、治療者やカウンセラーーとともにその場面をやり直すのです。イヤだったことをイヤと言ったり、自分に責任があると思っていたことが責任がない、親の過失であると認識しなおしたり、子どもの自分を今の大人の自分がほめてあげたりします。自分はこの作業をピプノセラピーという催眠療法でやりました。鳥山敏子さんと言う方が「ワーク」と言う名前でやっている作業もほぼ同じです。

自分はピプノセラピーの先生からのセッションが一通り終了後、「あとは話し方の訓練をする必要があります。自分の言いたいことが言え、いやなことはいやといえるようにするのに必要です。」と言われていましたが、適切な話し方講座を見つけられずにいました。でもヒッポに入ってから語学と言うよりもコミュニケーションの訓練がすごく進み、色々なことが抵抗なく言えるようになったのです。最近はカウンセリングのようなこともできるようになってきました。考えていなかったことですがヒッポで言葉を話す訓練をしていたことが結果的に話し方の訓練になっていたのです。

最近自分は自分自身にかなり自信が持てるようになりました。だからもうアダルトチルドレンを言い訳にするのはそろそろやめようと思うのです。もちろん体の症状としては治っていません。親とじかに顔を合わせるとその影響が長く出ますし、親の家に近づくだけでも不快感がありますし、親の家に入ろうものならそのストレスたるやすさまじいものがあります。それは体の反応としてでてくるものでいかんともしがたいです。もちろんうつ病も治っていません。でも自分がこれから生きていくうえで、もう無条件に認めてもらうこと、「すごいね、よくやっているね」とカウンセラーに声がけしてもらわなければならない状況は通り過ぎたと思いました。それが端的にあらわれたのが、先日書いたようなカウンセラーの変更と言う行動だと思います。

アダルトチルドレンは卒業します。次のステップへ進みます。

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2007/03/07

考えるということ

自分が愛読しているメルマガに

「社長と幹部と社員のカン違い」から目を覚ませ!!

というのがあります。以前は日経BP社のホームページにコラムを書いていらした小山昇さんという方が、社長を務めるダスキンのフランチャイザー(株)武蔵野の社員も動員して発行されているメルマガです。うわさがうわさを呼びいまや2万人を超えるほどの読者がいます。

小山さんと言う方は実にユニークなものの見方をします。それが本質を突いているだけにいちいちうならされるのです。先日などは社員の採用面接の話を書かれていましたが、「素直な人が欲しいので、面接の時に『手を動かしてください』といって手を動かせた人は合格」だそうです。これはたとえばの話でしょうが、新人を採用する時に自分が人事担当だったとしてもやはりいい学校を出たかどうか、勉強が出来るかどうかではなく素直な人が欲しいです。素直な人は教え込めばどんどんスポンジのように知識技能を修得して間違いなく戦力になってくれるからです。自分の親方新井もまだ学生だった頃から劇団員の採用にあたって「素直」を条件としていました。自説に凝り固まっている人は、人のいうことも聞けず先々伸びないし素材としての面白みも出てこないのです。

ところで先週のメルマガでは「考える」ことがテーマとなっていました。小山さんは「考えるとは過去の体験を思い出して整理することです。体験、経験がないと考えられません。組み合わせを変えることです」と書かれています。例として「あなたの自宅の間取りを書きなさい。かけますね。次に私(小山氏)の自宅の間取りを書きなさい。かけませんね。データが無いからです。データの無いことは考えられないのです」と述べられ「データベースは経験。だからいっぱいチャレンジして失敗した経験が必要」と述べられています。

ところで、日本の教育ということを考えた時、自分の経験則から言うといまさら驚くほどデータベース作りの時間がありません。自分で調べる、納得するという手間のかかる作業をホントさせません。最初から正解を示してそれを暗記させることが教育だと勘違いしている教員が掃いて捨てるほどいます。だから小・中・高と12年も学校へ行っても何も身につきません。自分が「身についた」とはっきり感じられるのは中学校の文化祭で公害をテーマに取り上げて班毎に取材に行った時の経験と、高校の地学の授業で当時住んでいた埼玉県春日部市にある旧公団武里団地の地盤沈下の状況を有志で調査した時の経験くらいです。むしろ学校外で身についたことが多いです。例えば大学時代に大手地図メーカー「ゼンリン」のアルバイトで住宅地図改定にむけて、指示されたエリアの住居を一軒一軒回って歩いた時の経験(人口密集度が高いほど居留守を使われたりして、他人を警戒する。田舎は知らない人間の訪問でもまずは座布団とお茶が出てくる)や劇団「電気曲馬団」の製作で、演出にビー玉を使うことがあって、おもちゃ屋さんを何軒か回って「浅草橋に問屋があり、そこならいろいろなビー玉を扱っている」と言うことを教えてもらい、浅草橋へ通ってさまざまなビー玉と出会えたことなどきりがないくらいいっぱい出てきます。

この地図のバイト、ビー玉探しとも一軒一軒まわって断られたりしかとされたりと壁にぶつかりながらも乗り越えていくことで結果的に目的の情報にぶち当たる経験をしてきました。これが「やってみなければわからない」という今の自分のスタンスの大本を築いたといえるかもしれません。

受験に受かるための要領の良い勉強は、実は「考える」ためのデータベースとしてはほとんど役に立ちません。要領の悪い勉強法の方が逆説的ではありますが「考える」データベースをつくる上で有効です。つまづいて失敗して、「これじゃだめだから次」と自分で答えを見つけていく訓練がほとんどなされないのはなぜでしょうか?下手をすると大学院までこんな教え方をしています。こんな教育をしていたら国が滅びると思います。

就職しても、教えられる機会は非常に限られます。OJT(オンザジョブトレーニング=実際の仕事を通して教育する)などとうまいことを言って、実はその人の能力の10分の1も引き出せない企業・組織がおおい。「即戦力」ばかり求めて育てることを全然しないのです。なぜかアメリカ育ちの企業は教育熱心で、ディズニーランド然り、マクドナルド然り、スターバックスコーヒー然りなのです。日本企業ででまともに育ててくれそうなのはリクルートと星野リゾートくらいか?と思います。学生がそこに殺到するのもよく分かります。

自分が最近「フリースクールの教師」になりたいと思うのは、既存の学校教育の枠組みでものを教えるのが不可能だと思うからです。年末に町屋堂さんの奥さんの知人で、愛知でフリースクールをやっている方とお話しする機会があったのですが、「フリースクールは一種の英才教育だ」とおっしゃっていました。やはりフリースクールだけでは食べていけなくて他のお仕事もされているそうですが、これからの社会においてフリースクールが果たす役割は相当大きくなりそうな予感がしています。私立に行っても受験対策だけの学校なら行かせるだけお金の無駄遣いでしょう。自分で調べることを通して「考える」ためのデータベースを育てていくこと。これこそ「生きぬく力」だと自分は思います。

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2007/03/06

子どもと触れ合う

今日は調子がまあまあだったので午前中のヒッポファミリーに参加しました。蕨駅の近くで割と楽に行けました。先日のインドの方を受け入れた話を、なるべく英語を使って話しました。メンバーのお子さんが一人来ていて、最初はすごく恥ずかしそうにしていましたが、だんだん慣れてきて、最後にはだっこしてあげることが出来ました。警戒を解いて行く過程がとても面白かったです。上手に気を引くのです。

そのお子さんは、かつてはとても人見知りだったそうですが、たくさんの人と関わるから慣れて来るのでしょう。別れ際に「なんちゃんばいばい」だって。

一人暮らしの自分にとって、ヒッポで子どもと触れ合ったり、成長の過程を見たりするのは他にあまりないチャンスでとても楽しいです。いいとこどりとも言えるでしょうが。

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2007/01/28

犯人探しはやめてください

夜回り先生こと水谷修先生が27日広島であった講演会で

政府の教育再生会議がいじめをした児童・生徒への出席停止措置活用を報告案に盛り込んだことについて、「いじめる側を排除するのは悲しい」と語った。

そうです。詳しくはこちら

いじめはいじめる子どもを単に排除すれば解決する問題ではないことは、こころある教育関係者ならおそらく体験的に分かっているでしょう。むしろいじめる子どもが大きな家庭での問題を抱えていたりしてサポートが必要なケースも多いです。犯人探しは決していい結果を生みません。

犯人探しは成果主義の裏返しのように見えます。個人の成果はその個人だけでもたらせるわけではありません。青色発光ダイオードの特許訴訟でこういったことが議論されましたが、自分はやはり個人の力には限度があり、人が力を発揮したりアイデアをひらめかせたりするのは「環境」が物を言うと思います。環境というのはつまり人の輪だけでもないと言うことです。

優れた人材ばかりを採用している会社が必ずしも業績優秀にならないのと同様、いろいろなバランスが整ってこそ新しい発想が生まれるのだとおもいます。それと同様、環境を整えない限り「犯人」を排除しても同じような人がまたすぐに現れいたちごっこになるでしょう。

個々の問題への対応力が求められます。自分の身近で、保育園に勤めてうつ病になった人が何人か居ますが、学校も同様、先生の間で心の病が流行していることはよく言われます。子ども・親・同僚や上司という3種類の人間関係の中でバランスをとっていくのは今や相当難しいことになっていると思います。価値観の多様化が限度を超えています。払えるのに給食費を払わない人があんなにいるとは。給食の「いただきます」と言う挨拶すら言う必要がないと考える人たちも出てくる中で、一定のバランスを維持していくためには逆説的ですが一人ひとりの育ちの背景にまで踏み込んで人一人をまるごと理解しようとする努力が求められるような気がします。そのためには予備校が作る大学院大学なんてものでさらに頭でっかちになることよりも、沢山の人と交わって、沢山の価値観を実際に見聞きすること、そして一人ひとりを尊重することを体験的に学び取ることのほうがずっと役に立つでしょう。一人ひとりをまるごと尊重できれば「いじめっ子」「いじめられっ子」という二元論的発想から物を考えようとすることそのものがナンセンスに思えるはずです。

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2006/11/22

伝記はどこへいった?

昔あって、今全く売られていないものに伝記があります。いつ頃から読まれなくなったのでしょう?自分も小さい頃よく伝記を読みました。野口英世とかキュリー夫人とか、科学者が多かった記憶があります。キュリー夫人は未だに自分の心の中で生き続けています。常に意識するわけではありませんが、大志があれば貧乏してもなんとかなるし、夢中になれるものがあるのはいいことなんだなと思いました。

生きるモデルがない時代。だからお金とか身分とか、そういったものにしか価値を見出せないのかもしれませんね、今の子どもたち。先日、ブログのネタとして必要だったので福沢諭吉の「学問のススメ」を読んだら、そうだよなと思う記述でいっぱいでした。「福翁自伝」は慶応の学生でもないのに昔読んだことがあって、あれも割りと面白いのですが、「学問のススメ」は一読の価値ありです。書いてあることがちっとも古くなくて、むしろ今読んで新しいと言う感じです。

伝記というのはある程度大人になると読まなくなるものだから、逆を返せば学齢期の子どもがいかに活字に親しんでいないかの証明なのかもしれません。

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2006/11/17

おやじ小学生

現在デイケアにいます。

先ほど京浜東北線に乗っていたら、前の席に赤羽から小学生の男の子が乗ってきました。おもむろに足を組み、朝日小学生新聞を広げて読み出したのにはびっくり!おやじ顔負けです。他にも小学生が数人いましたがみんな本を読んでいるのです。携帯電話をいじっているというありがちな光景が無い。ちょっと面白い光景でした。

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2006/06/27

可愛い子には旅をさせろ

最近は「東大に行くなら親の意気込みとお金」らしいです。「お金があれば東大くらい行ける」と真顔で言う人もいます。確かに入学者の出身校上位をみると私立の中高一貫校が大勢を占めるとも聞きます。しかしそこに本人の意思はどれくらい入るんでしょうか。

どうせ教育にお金をかけるなら、こんなのはどうですか?先日葉加瀬太郎さんの番組J-WAVEワールド・エア・カレントに出演された平田倫子さんは8歳の時から毎年夏休みに両親が海外に行かせたそうです。お話のやり取りがホームページに載っているのですが、今月いっぱいの公開のようなので一部を引用します。

平田さんはベルギーによく行かれるみたいですけど、なぜベルギーだったんですか?(葉加瀬)

私は元々、花屋になりたかったんです。花を勉強する短大に行って、その後の2年はヨーロッパで勉強しようと思って、始めはドイツに行ったんです。ドイツは1年位いたんですけども、ドイツの花屋で働いていた時にベルギーのフラワーデザイナーの方にお会いしまして、たまたまベルギーに行く事になって。20歳の時だったんですけども、その後はどっぷりベルギーですね。花を勉強される方はぜひベルギーに行って欲しいです。(平田)

「お花屋さんになりたい」と思っても、ドイツやベルギーに行っちゃうって、かなり突飛だと思うんですが?

私の親がちょっと変わっていまして、「夏休みには毎年海外に行きなさい」と言われていて、1人で海外に行く事を強要されていたんです(笑)。もちろん向こうで子供達を受け入れてくれる体制は整っていましたけど、1人で行って1ヶ月間そこで勉強してきなさいって。それを8歳の時からやっているんです。今は「自分が親になったら8歳の娘を出すかな?」と考えるんですけど(笑)。

僕の娘は7歳になろうとしていますけど、無理です!(笑)。

実家は静岡なんですけど、母親が静岡駅までしか送りに来てくれなかったんですよ(笑)。

静岡に住んでいて「東京に行って来い」と言うなら分かるんですけども、それがヨーロッパなんですか?

一番初めは「隣だから中国に行きなさい」って(笑)。

8歳から海外研修している子はなかなかいないですよ(笑)。

でも8歳の時は市の教育委員会の日中友好協会みたいなところに入れられて。もちろん最年少だったんですけど(笑)。

ご両親のそういった教育もこの仕事に就くきっかけなんですね。それじゃヨーロッパも慣れっこですね。

そうですね(笑)。高校卒業する時に親から「これから4年間は、日本の大学に行くのも含めて好きなように勉強していい」と言われたんですよね。日本の4年制の大学では、あまり勉強するものを見つけられなかったので、2年間は短大で花の勉強して、残りの2年でヨーロッパに行こうと。高校生の時に日本のお花屋さんと全然違うと感じていて、絶対ヨーロッパで働いてみたいなって。


いかがですか?可愛い子には旅をさせろとはいいますが、8歳から毎年一人で海外へ行かせられますか?なんとも腹の据わったご両親ではありませんか。ベルギーでは国家資格を取らないと花屋さんにはなれないそうです。平田さんはそのくらいのプロフェッショナルになっている。日本では「花屋さん」といってもそんなにステータスのある職業ではないから親のプライドをくすぐることはないでしょうが、ご本人は自信と誇りを持ってベルギーと日本を行き来している。「子どものため」といいながら実は自分のプライドのためにがり勉をさせる親御さんにちょっと考えて欲しい実例だと思います。

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2005/10/12

お粗末な性教育

わさびさんの記事にトラックバックします。すてきな奥さんなれるかな: 子供を産むなら大人になろう。そんな当たり前のことを言わねばならないこの現実。.


先月のべグライテンの例会の内容が児童養護施設の慰問ボランティアの話でした。高島君の話(横浜そごうで意図的に迷子にさせられ親が引き取りに来なかった子の話。その子はとても賢くて、なぜ自分が親から見捨てられたのかを知っているようで、絶対に自分の名前も親の名前も言わないので仕方なく見つかったそごうの住所から「高島君」と呼ばれるようになった・・・)やらなにやら、かわいそうな子ども達の話ばかりでいたたまれなくなったのですが、最後の話が自分をうーんとうならせました。

講演者の友人が北欧のある国でボランティアをしているのだそうですが、彼女から「日本はまだ養護施設なんてものがあるの?」といわれたそうです。というのもその北欧(ノルウエーかフィンランド)の国では性教育が徹底しているので、望まれない妊娠というのがほぼ皆無だそうです。そして以前存在した養護施設もホーム形式(具体的にどんな感じなのかは分かりませんでしたが)で、今はそれすら必要なく里親希望者はほかの国から孤児を引き受けるといいます。

確かに。自分が大昔に読んだ思春期の子供向けの性教育の本(小説仕立て)がまだありますが(「結婚ごっこ」ベルイクヴィスト 晶文社・・・・・・ちなみに訳者あとがきで「この本の出版ひとつとってみても、おそらく、児童文学界は、ご馳走を遠巻きにしたよわいいぬのようにうろうろするだけだろうし、親や先生にも子どもに勧める勇気のある人は少ないのではないか」と書いています。それが1982年のことで、しかも本国より10年遅れての出版だったのです)セックスありきではなくお互いの体を刺激しあったり抱き合ったりということでも十分お互いの愛情は確認できるということや、初めてのセックスはうまくいかなくて当然とか、コンドームは二人で手伝ってつけたっていいこととか、徐々にうまくなればいいなどということが書いてあります。以前ご紹介したスウェーデンの中学生向け社会科教科書には「みんなが性に関するすごい話をしていて、自分だけ取り残されていると感じるのは間違い。半数以上の同級生が同じように考えているのだ」と指摘しています。「多くの人が中学生時代に初恋の経験をします。しかし約3分の2の人が関係を持つのは卒業後です。20歳過ぎまで待つ人も大勢います」とあり、統計上の初体験の年齢をパーセンテージで示しています。これらは事実を知らせた上で「あせる必要はないよ」と呼びかけているように思えます。(「あなた自身の社会」 新評論刊)

日本では学校も親も性の話はしません。あるいは上手ではありません。思春期の子ども達は雑誌やロマンス小説で性のことを想像するしかありません。しかし女性向けの本では彼がものすごく大切に抱いてくれる、そばにいてくれるイメージばかり強調され、男性向けの本ではいかにセックスするかが攻撃的に書いてあるばかりです。映画だって良心的な作品でもベットで愛撫だけで終わらせるシーンなんてないものねー。絶対に最後まで行きますよね。しかもコンドームしている時間なんかないですよね。だから性の世界観がゆがむのはある意味当然でしょう。しかも最近の芸能人のいわゆる「できちゃった婚」が拍車をかけます。しなければ恋人と認められないような感覚を持っている子ども達や若い人(と書くと自分がそうではないみたいだな・・・)がほとんどでしょうね。街中で若い恋人たちに「お互いの体を大事にするんだよ」とコンドームを配りエイズ検査を簡単にやってあげるなんていうのは六本木の赤ひげと呼ばれる赤枝医師くらいでしょうか。鳩ヶ谷雑記: こんな産婦人科医もいます.

水谷先生の本でも援助交際でエイズをうつされて、投げやりになって仕返しとばかりに援助交際を続け骨だけのようにやせ細って亡くなる10代の女の子の話があります。真剣にこの問題を考えないと虐待も減らない、若い子のエイズはじめ感染症は増える一方というどうしようもないことになりますよ。

以前も似たようなこと書きました。やはりわさびさんの記事がきっかけでした。こちらもどうぞ小5の中絶って、どうよ。

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2005/09/20

あきらめることの効用(当事者性の回復その2)

前の記事の続きみたいなんですが、相手のことをあきらめるというのがどういうことか書いてみます。

べてるの家と深く関わっている浦河赤十字病院の精神科部長、川村先生は浦河に赴任する前に札幌のアルコール中毒患者専門の病院に勤めていたそうです。そこで目からうろこの体験をしています。

アルコール中毒の患者さんと言うのは、「もう飲むのをやめる」と言うとき、本気でやめようと思っているのだそうです。でもやめられない。だから中毒なんですね。例えば旦那さんがアル中の場合、奥さんは懸命にやめさせようとします。そのうち奥さんは「自分がいないとこの人はだめになる」と思ってなおさら深く沈没して行きます。これを共依存というのです。

実は治療者も共依存みたいなことになっている場合があるんですね。川村先生は医者になって3年間、熱心に取り組んだのに一人の患者さんも断酒に持っていくことすら出来なかったそうです。ところが札幌のそのアル中専門病院に赴任したら自分はほとんど何もしないのに1年目から回復する患者さんが出たのだそうです。

なにかやり方に違いがある。これまでは失敗ばかり重ねてきたと仮定して、成功例を見たとき、失敗したことの意味が分かってきたんですね。アルコール依存症の場合は、まわりが一生懸命やればやるほど、本人は問題に気づかないようになっていく。責任や問題の後始末を誰かに委ねるというアルコール依存症特有のパターンがあって、医者として一生懸命やりすぎ、まんまとそのワナにはまってしまっていたんです。(「降りて行く生き方」横川和夫著 太郎次郎社)
その失敗を通じて川村先生はやり方を変えます。
大工の寺さん-寺澤繁さんは川村先生が札幌でアルコール依存症の専門医として活躍していた頃の患者さんだ。寺さんの話によると、その頃から川村先生は変な先生だったらしい。お酒をやめなさいなんて金輪際言わない。お酒を飲むのはあなたの自由だし、やめるのもあなたの自由だと言うのだった。寺さんはその言い種に閉口して、ぷっつりと酒を断った。
寺さんの話によると、アルコール依存症の人は誰かが自分のことを心配してくれるかぎり、お酒をやめることができないんだそうだ。寺さんの場合もそれはあなたの問題でしょ、と突きつけられてはじめてお酒をやめることができたんだという。(「とても普通の人たち」四宮鉄男著 北海道新聞社)


つまり、相手の世話を焼くのではなく相手の問題は相手の問題として返してあげることで、当事者はやっと自分の問題として受け止め自分でどうすべきか考え出すんです。

自分も終わりの頃は親に対して共依存状態でした。この馬鹿親、自分がいなかったらどうなるんだろう。一生面倒見続けなければならないのか、と思って絶望したこともあります。現在彼らは離婚調停をしてそのうえで一緒にいることを選択したので、自分としてはとてもすっきりしました。彼らは彼らのために一緒にいることを選んだので、自分のためではないことがはっきりしたからです。それでも未だに彼らは自分を心配すると言う口実で、実は逆に自分に甘えてきますけど、病気が悪くなるからやめてくれといって放置しています。

精神疾患を持つ人は医者や親から何も出来ない人として扱われます。おかしな話ですが、「責任能力が無い」と言う理由で日本の法律は精神障害があると罪を問いません。すごくおかしい。精神障害があろうと無かろうと同じ人間です。罪は償わなければなりません。同じように精神障害があろうと無かろうと本人の意向というのはあるのです。それなのに暴れる患者さんを無理やりだまして精神病院の閉鎖病棟に入れるなんて事が未だに行われているのは異常だと思います。もちろん緊急を要する場合はあるでしょうが、入れっぱなしでよだれがたれ続けるほど薬を飲ませて何が病院か。何が医者か。何が保護者か。(24日追記:これは言いすぎでした。自分は急性期の患者さんと直接接したことがありませんから反論されたらぐうの音も出ません。でも元気な統合失調症の患者さんや躁うつ病の患者さんとは交流があります)

この国では子ども達に対して全く同じことが行われています。べてるの本のひとつを書かれている横川和夫さんは、共同通信の記者として主に青少年問題を扱ってきた方でした。その横川さんはこんなことを書かれています。


かつてオランダの学校教育を知るために、メディア数社の論説・解説委員とともに、オランダの教育省や学校を見学したことがある。ちょうど日本では、厳しい校則が問題になっていたときだった。
 行くさきざきで「校則はありますか」と言う質問をくり返した。どこに行っても校長からは同じような言葉が返ってきた。
「校則はあります。それは『人間らしく行動すること』ということです」
 驚いて、「それだけですか」「人間らしく行動するとは、具体的にどんなことですか」と、私たちは矢継ぎばやに質問した。
「それは生徒が自分で考え、自分で決めることです。あまり細かい規則をつくると、生徒は自分の頭で考えなくなるので、つくりません」
 このオランダの中学校長の言葉は、日本の学校教育が、生徒の当事者性をいかに奪ってきたかをみごとに浮き彫りにしてくれていると思う。(「降りていく生き方」横川和夫著 太郎次郎社)

「朝2時おきで何でも出来る」と言う本を書かれた通訳者であり、今は環境ジャーナリストの肩書きを持つ枝廣淳子さんは著書の中で、「勉強しろと親に言われたことは無い。代わりに『あなたが持って生まれた才能を生かすも殺すもあなたしだい』と言われた」と書かれています。それで自分でいろいろ工夫しながら勉強されたそうです。

一度、相手(親、子ども、夫、妻、隣人、上司、同僚etc)をあきらめてみたらどうでしょう。嫌なところ、だめなところも丸ごとその人そのものであると認めてあげてはどうでしょう。

最後にべてるの本の中から印象的な言葉を引きたいと思います。

そして気づいたのは、私はべてると10年かかわるうちに、人を選ぶということにひどくいい加減な人間になってしまっていた、ということだったのです。  かつての私は、どうでもよい些細な事柄でまわりの人間を峻別しては、嫌ったり嫌われたりして人間関係をこじらせてしまうのが得意でした。その私が「選ぶ」と言う行為を放棄してぼんやりしてしまっていたのです。それは無意識のうちに、人生でどんな人と出会うかは、実は選べそうで選べないことだと思うようになった自分と出会うことでした。これは、なかなか愉快なことでした。(小山直さん、マルセイ協同燃料・社長  「べてるの家の「非」援助論」 医学書院)

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2005/09/19

あきらめる

わさびさんが、とっても愉快な記事を書いていたのですてきな奥さんなれるかな: 怒らない。.これにトラックバックです。

最近自分は「べてるの家」のとりこになっています。べてるの家について詳しくはこちらを鳩ヶ谷雑記: べてるの家.どうぞ。

べてるの家にまつわる本は何冊もあるのですが、みんな面白いです。思わず吹き出すこともしばしば。最近これくらい笑わせてくれる本は無いなと思うくらいです。しかし単に面白いわけではないんです。笑いの裏には登場しているべてるの家の住人のみなさん(精神障害があって、入院歴のある人ばかりです。軽症の人だけでなく重症の人もいます。実家に火をつけて全焼させた人もいます)が、発病前にかなり厳しい人間関係の摩擦があって、それで苦労した上で、発病したら今度は違う意味でとても大変な目に合っているんです。そういう地盤を踏まえたうえでのおかしさが、自分を吹き出すほど笑わせてくれるのです。

自分は、前にもちょっと書きましたが、人生をあきらめました。あきらめるというのは投げやりと言う意味ではありません。「自分が病気であることを丸ごと全部引き受ける」と言う考え方です。うつ病や統合失調症、躁うつ病、アルコール中毒など、これらはほとんど体からの信号です。「この生き方では自分の体が持たないよ」と体が、脳が信号を出しているんです。あるいはあまりにも辛い人間関係などから身を守る為に逃避しているんです。まともに生きようとするとあまりにも苦痛だから。自分は両方かなと言う気がします。両親から逃避する為にワーカホリックに走っていたようなところもあります。

あきらめるというのは、周りの支援者にとっては「病気であるその人をそのまま丸ごと受け入れること」です。この定義はべてる流の定義として「べてるの家」のビデオを撮影した四宮鉄男さんが「とても普通の人たち」(北海道新聞社 2002年)と言う本にまとめていらっしゃいます。

これを応用しましょう。先日も取り上げた児童精神科医の佐々木正美氏が「子どもへのまなざし」(福音館書店 1998年)で、こんなことを書いています。


幼い子どもが、はじめて出会ったことにたいして、「どうすればよいのかな」とふりかえったとき、親や祖父母や保母さんや幼稚園の先生などの視線が、かならず見守っていてくれて、そして、どうすればいいのか教えてくれる。そういう過程をとおして、幼い子どものなかに育っていく人間的な感情や感性を、ソーシャル・レファレンシングとよんでいます。(中略)どうしようかなとふり返ったら、だれも自分を見ていてくれなかった。そういう経験を度重ねてきた子どもには、大きくなったときにソーシャル・レファレンシングの感性が、いろんな意味で育っていないと言うことが分かったのです。(中略)ソーシャル・レファレンシングは人間が社会的なルールを守りながら生きていくために、その基盤をなす重要な感情であるともいえます。人と人が共感しあって、そのことを誇りと感じあって生きるために必要な感情なのです。

そして、ソーシャル・レファレンシングの感性が育っていないと例えば「自転車を放置しないでください」と言う看板が立っていても平気で無視して止める。高速道路で渋滞していてみんな辛抱して待っているのに、路肩をビュンと走っていってしまう人がある。そういうふうに「いけない」という社会的コンセンサスがあるにもかかわらずそれを守れない人になると言っています。確かにこういった人に注意しても何が悪いと言う顔をするでしょう。


ソーシャル・レファレンシングというのは、誇りの感情、人間としてのプライドをみんなで分かち合うことなのです。(中略)そういう誇りの気持ちや感情というのは、無い人にはどうしたってない。どんなに説教したってそうするものだといったって、急にそういう気持ちを持てるものではないですね。それは幼いときから、じっくり育てられてくるものです。

ということは、こういう人達にムッとして自分がいらいらしてもその分だけ無駄なんです。その人たちの個性のひとつになってしまっているんです。だからもうそういう人はそういう人として受け入れてしまいます。あきらめるんです。腹を立てないというのは、自分が気持ちよく過ごす為に必要な方便だと思います。それでもやはり不愉快ですよね。自分は例えば電車の中にごみを放置する人がいると黙ってそれを持って駅のゴミ箱に捨てます。よほど自分の気持ちがいらいらしてしまう時に限られますが、タバコをポイ捨てした人がいると、吸殻を拾って灰皿までもって行きます。いらいらした感情を持っていると自分が損なんですよね。できればそういう人たちの目に留まるように捨ててあげると効果大と言う気もしますけど。何も言われずただ自分の不始末を処理されたら、その人も少しは「あ!」と思うかなと・・・。そういうことが繰り返されるときっとその人もポイ捨てなどしなくなるでしょうけれどね・・・。ルールだ、規則だといって注意するよりよっぽど効果的と言う気もするけど・・・まあ、なかなか難しいですよね。

自分が後始末をするのも義務感を持つと辛いので、いつもするわけでは無いです。気分しだい。でもすっきりするものですよ。お試しあれ。

だからわさびさんが怒らないというテーマで書いていることは、もっと普通にやったら良いと思います。茶化しというかユーモアのセンスで受け止めた方が自分の精神状態にとってもプラスだと思います。

親が自分の子どもに十分かまっていられない状態が続いていますから、ソーシャル・レファレンシングが育っていない人はこれからまだまだ激増するでしょう。「あの人は病気だ、かわいそうに」くらいに思って、自分はルールを守る。それこそ人間として持つべきプライドだと思います。

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2005/09/18

当事者性の回復その1

ものすごく大きなテーマに取り組んでみたいと思います。


おととい、NPO法人里親子支援のアン基金プロジェクトというのを紹介されました。今日は引用ばかりになりますが、ご紹介ということでご容赦ください。

アン基金プロジェクトとは・・・

 里親になろうとする人、里親、里親OB、里子、里子OBを支え、援助し、社会に里親支援制度を広めることを目的として活動しています。
 里親家庭で育った子ども達は、18歳で公的援助が打ち切りになり、里親解除となります。しかし自立後も精神的、経済的に里親を拠り所にしています。
 1997年に、里子達を育て上げ社会に送り出した里親たちが、自立資金集めに立ち上がりました。
 ゼロから出発し現在は里親会員だけでなく善意ある多くの方がたに支えられて、2004年NPO法人として歩き出しました。


「アン」はもちろん赤毛のアンのことですね。彼女は幼いうちに両親が亡くなり親戚をたらいまわしされた後養護施設に行き、やがて幸運なことにグリーンゲイブルスのクスバート家に引き取られることになります。あの本、昔はアンの立場からしか読めなかったのですが、最近は引き受けたマリラやマシューの気持ちになって読み返すことがあります。わが子ではないアンを育てていく過程で、マリラやマシューはアンの突拍子も無い行動に振り回されます。またあるときはアンのことを疑ったりします。子育てなんかしたことが無い独身同士のマリラとマシューは、しかしやがてアンのことをわが子のように誇りに思うようになります。アンは本当に突拍子も無い事をする子で、おそらく施設ではその有り余るエネルギーのために厄介者になっていたに違いないのですが、グリーンゲイブルスでのびのびと育てられることによって彼女はとても感受性豊かでいろんな意味で頭の良い女性に育って行きます。

さて、当事者性の回復と言うタイトルですので、それにまつわる話を。このアン基金プロジェクトのパンフレットに「うーん」とうならされるような言葉が書いてあります。ハリール・ジブランと言う人の書いた「預言者」の一節です。


あなたの子どもはあなたの子供でもない
彼らは人生の希望そのものの息子であり、娘である、
彼らは、あなたを通じてくるが、
あなたから来るものではない
彼らはあなたとともにいるが、あなたに属さない
あなたは彼らに愛情を与えてもいいが
あなたの考えを与えてはいけない
何となれば
彼らは、自分自身の考えをもっているからだ
あなたは、彼らの体を家に入れてもいいが
彼らの心をあなたの家に入れてはいけない
何故なら、彼らの心は、夢の中でさえ
あなたが訪ねてみることも出来ない、
あすの家にすんでいるからだ
あなたは、彼らのようになろうとしてもいいが、
彼らを、あなたのようにしようとしてはいけない
何故なら、人生は、後戻りもしなければ、
昨日とともに、ためらいもしないからだ
あなたは弓であり、
あなたの子どもは、それから送り出される
生きている矢である


当事者性の回復と言う問題は、夜回り先生の隠れた問題意識でもあり(水谷先生は「自分は子ども達をしかったことが無い」とよくいいますがそれがこれに当たると思います)、べてるの家の問題意識でもあります。
それは現代の大人や健常者と言われる人々への痛烈な批判でもあります。
これからこのテーマを、折にふれて扱っていきたいと思います。


アン基金プロジェクトのお問い合わせは
アン基金PROJECT.
〒173-0022
東京都板橋区稲荷台12-3-102
TEL/FAX:03-3962-5214
メール:anne-kp@jcom.home.ne.jp


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2005/06/02

子どもに見せたい?

今日は、あまり調子が良くないので(主治医に言われて気づいたのですが、本当に動けないくらい調子悪い時と、ストレスを感じる事柄にだけ自分をコントロールできない日と、いけいけでなんでもチャレンジし、ストレスにも耐えられる日とあります。今日は2つめ)簡単に。

おとといでしたか、こどもに見せたい番組の1位にNHKの「プロジェクトX」が選ばれたと聞いて仰天しました。あれは高度成長期のノスタルジーを体現するための番組で、だからこそ人気があるのだと思っていたのですが、「子どもに見せたい番組」となると話は別です。

あの番組は、最初の1~2年は自分も良く見ていましたが、今はちょっと嫌悪感すら感じます。何でもかんでも美談にしてしまうのだもの。黒四ダムの建設は確かに難工事で、完成後は水力発電にも観光振興にも大きく寄与しましたが、今あのダムはそこにたまったヘドロをどう処理するかと言う大問題を抱えています。試験的に排砂したところ黒部川の澄んだ流れがみるみる茶色になり、そのヘドロは富山湾まで注いで、流域や河口付近の漁業に打撃を与えました。流域のきれいなよどみにも泥がたまって無残な姿になったのです。

そういう裏の部分に触れずに表の部分だけを取り上げ、しかも何でもかんでも美談にしてしまう。水戸黄門じゃないんだから、妙に人気があろうとねた切れと言うことで早く打ち切りにして欲しいです。何でこんな番組を子どもに見せたがるのか?ちょっと思考が単純すぎやしませんか?

#この記事は5月21日に書きかけて、お蔵入りにしようかと思っていた記事ですが、公開してしまいます。

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2005/05/31

出生率また1.29

夕刊には載っていないのですが、今のNHKジャーナルでさらっとこのニュースが流されました。「年金の給付水準などに影響を与えることは必至」との内容でした。要はそのための出生率かい?

子どもを取り巻く様々な環境を総合的に考えれば、下がって当たり前と思わざるを得ません。夜回り先生の話、CAPシステムの話、先日取り上げた教育の問題、社会秩序が今までとは根底から違ってきていること(希望格差社会の話)小児科運営にまつわる問題、・・・・・・・これらみんな何の解決もされていないです。ごく一部の人が「大変だ」といって走り回っている。

子どもを年金のねたにするのはやめてください。年金ねたにするならちゃんと年金について教えるべきです。先日書いたようにこの国は、若年者に年金のことを隠し続けてきました。

右肩下がりの、ちょうど良い国のあり方を考えるべきではないか?と思います。

#6月1日追記@nifty:NEWS@nifty:04年の出生率は1・29(共同通信).

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2005/04/03

12歳の心の闇

すてきな奥さんなれるかな: 馬鹿が子供を作るな。

最近22時以降はNHKラジオを聴いています。テレビの「ニュース10」をFMで聞くよりも、ラジオの「NHKジャーナル」を聞くほうが聞きやすいし、中身もテレビ並みに充実した内容なので良いです。そのあとも特別聴きたい番組もないので「ラジオ深夜便」を聞いています。

おとといでしたか、鹿児島県で火事があって子どもが数人焼死したというニュースを繰り返して放送していましたが、そのときは取り立てて気にも留めていませんでした。しかし前述のわさびさんの記事を読んで、詳しく事実を知るにつれいたたまれない気持ちになりました。

なんだか、仕事の区切りがついて一段落したので家族(のうち大人)そろってパチンコに繰り出したそうですが、家でご馳走を食べるとか、ドライブに行くとかなんかそういう楽しみは無かったのか?なんて貧しい感性なのだろうとまず思いました。そして焼け死んだ子どもたちのことを思った時、特に12歳の次女のことが不憫でならなくなってしまいました。

家族がそろってパチンコに興じるような家庭です。きっと常に寂しい思いをしていたのではないでしょうか?普通親がダメ親の場合、兄弟姉妹がいるとダメ親の影響を分散して受け止めることが出来る場合が多いのですが、この家庭の場合は姉が24歳で結婚していて子どもが4人もいたわけですよね。12歳も年が離れていたら、心の通い合う兄弟ではなかったでしょう。その上姉の子を4人も面倒見させられて・・・。普段から一人ぼっちだったのではないでしょうか?この次女の気持ちを察する家族は誰もいなかったのではないでしょうか?愛情は存在したのでしょうか?寂しくて仕方なかったのではないでしょうか?

彼女の心の中を想像すればするほど、その心の闇の深さに暗澹とした気持ちにさせられます。分かりませんけれど、もし自分が彼女の立場だったら、いつの日か両親と姉を殺したんじゃないかなんて物騒なことを考えてしまいました。彼女の心が昇華されるよう祈るばかりです。

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2005/03/15

生きることを望まれない子どもたち

ショッキングなタイトルでものを書きます。願わくはこういうことがなければ良いのですが・・・。

虐待としつけ|ACで死別シングルママの鬱・PD克服記
を読んで、最近読んだ「希望格差社会」の本の内容が頭に浮かびました。

家族の二極化が進んでいると言う話の中の一節です。この本は現代の経済の形が1998年ごろから変わってきたと述べ、その結果として高い給料で正社員として囲われ企画・経営などに携わる労働者と単純作業に派遣や請負、パート・アルバイトのような取替えの効く人材として携わる労働者の二極化が進んでいると指摘します。その結果家族というものが(極論すると)高収入を得られる者同士が結婚し、あるいは経済基盤の不安定な者同士が結婚するというパターンに分かれつつあると述べています。その結果急速に増えているのが、20代前半までにできちゃっった婚で結婚した夫婦で、この割合が増えるのと児童虐待相談処理件数の増えるのが時期を同じくすると言うのです。

20代前半までの年齢層は、生活基盤が整わないにもかかわらずレジャーへの関心が高いことを述べています。そうなると子どもは生活を脅かす存在であるばかりでなく、子どもそのものが生活を送るときの邪魔者になる傾向があるということです。極端な例だと信じたいところですが、中高生が親に虐待を受けているといって自ら児童養護施設に駆け込むなどと言うことすらおきているそうです。

自分のような人間は、確かに親のせいでAC(アダルトチルドレン)になりましたが、虐待されたわけではないです。親が未熟な為に過剰な負荷をかけられたり、ペットに対するようなゆがんだ愛情を注がれたりして心がゆがんでしまったわけです。

ところが虐待を受ける子どもたちは、しつけと言う名目で虐待されているというより積極的な虐待を対外的にしつけと言う言葉でくるもうとしている親に育てられていると言う感じがします。「夜回り先生」のなかのエピソードに「背中のない子ども」というのがあります。なんとタバコの吸殻を背中に焼印のようにいくつもいくつも押し付けられ、その傷跡のせいでプールに入れない子どもの話です。中学までは、プールのあるときは学校をサボればよかったけれど高校になって、プールに入らないと単位が取れなくて留年してしまうという子にたいして「夜回り(水谷)先生」が策を講じて救ってあげるという話です。こんな積極的な虐待をうけても子どもは親をかばおうとするのですね。CAPプログラムを日本の学校でも本格的に取り入れるべきなのでは、と痛感します。(CAPプログラムについては今月中にコメントすることを目標にしています)

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2005/02/06

夜回り先生(続き)

この数日自分を悩ませたのは、32条問題といとこのリストカットとこの夜回り先生のことでした。やっとそれぞれの問題に自分なりの区切りを付け、不安定な気分から脱出しつつあります。昼夜逆転状態を解消するには薬を飲んで早く寝るべきでしょうが、やはり書けるだけ書いておこうと思います。

先日読んだ「夜回り先生」の続編、「夜回り先生と夜眠れない子供たち」を先ほどまでに読みました。

多分ソーシャルワーカーになったら、今よりもっともっと悩まされるのがお金と人間関係の問題でしょう。お金に関しての知識は社労士試験対策の知識が大いに役立ちます。借金のことに関しても自分は平気より詳しい知識を持っていますから多分役に立つでしょう。問題は人間関係ですね。精神系の病気を患う人は多くが人間関係に問題を抱えています。多いのが親子関係でしょう。仕事でうつになる場合も、上司や同僚との問題を抱えていたり、家庭の問題から逃げるためワーカホリックになっていたりして労働しすぎて心に変調をきたすケースが多いでしょう。人間意外とタフなところと、それ以上に弱い部分とがありますね。

いくら自分の言葉をつむいでも伝わらないだろうと思われる部分を「夜回り先生と夜眠れない子供たち」から引用したいと思います。

  
  子どもは失敗して当たり前である。
  でもその失敗を許せない大人があまりにも多すぎる。
  「そんなこともできないのか」
  「なにやっているんだ」
  「そんなことでどうする」
  家庭や学校では、そんな心無い言葉が満ちあふれている。
  そんなに子どもはダメなんだろうか。私はそうは思わない。
  大人の厳しい言葉が、今、心優しい子どもたちをどんどん闇に追い込んでいる。自分の体を傷つけたり、部屋で孤立する子どもは増える一方だ。孤独に苦しむ子どもたちはインターネットやEメールを通して、似た物同士でつながり、死について語り合っている。

  だれがこの状況を止められるのだろうか。

  今、日本の子どもたちは限界に来ていると思う。
  もしかしたら、少年犯罪の増加は止められないかもしれない。
  でも、ぜひ皆さんの手で守ってあげて欲しい。
  愛を分けてあげてほしい。
  子どもは受けた愛の数が多ければ多いほど、
  非行から遠ざかり、心の傷は浅くなる。
  愛は、私たち大人が子どもに与えることの出来る、
  最も簡単で、無尽蔵にあふれる、お金のかからないものだ。

  せめてひと言でいい。
  身近にいる子どもに、
  愛のある優しい言葉をかけてあげて欲しい。
  そしてほめてあげてほしい。

  どうしたの?大丈夫?

  大変だったね。よくやったね。

  昨日までのことはいいんだよ。

  これからのことを考えよう。

  また明日一緒に悩もう。

  また明日たくさん話そう。

  また明日たくさん笑おう。

  おやすみ。またあした。


子どもたちに自分が出来なかった夢を過剰に託したり、競争社会の不安をあおったりするのはやめましょうね。
愛とは相手の思想人格を否定せず丸ごと受け入れてあげることだと思います。違いを認め合う事です。
親になる我々が社会を冷静に見つめ余裕を持って希望を語ってあげようではありませんか。そして「大丈夫」と言ってあげようではありませんか。

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2005/01/26

当事者ならでは

:自宅出産はわがまま?

これを読んで即座に頭に思い描いたのが日経夕刊昨年12月1日の1面連載特集「そこまでやるか」でした。全部引用したいところですが、出来ないのでところどころ。


「趣味は出産、特技は安産」。自称出産オタクにして「バースコーディネーター」。謎の肩書きの持ち主、大葉ナナコは「痛い、苦しい」と言うイメージを否定する、妊婦のカリスマだ。・・・・・・

ラマーズ法、助産院、自宅出産・・・。切開せず、陣痛促進剤も使わずに。安産のための体操や漢方処方、食事法も一通り試した。このオールラウンダーぶりに「あの妊婦さん、すごいらしい」とのうわさが立ち、看護師が出産の見学に詰めかけるまでになった。


自宅出産が「危険でわがまま」ならば、この人のことはどう評価したらいいのでしょう。5人の子供をもっていて、しかも自然な理想のお産を追うため毎回違うスタイルで生んでいるというんです。ご本人の言うとおり「出産オタク」でしょうか?出産と言うイベントがそんな「オタク」なんて言葉でくくられるでしょうか。この話題、自分が扱うとどうも経験がないだけに部外者の感想みたいになってしまいますが、5人生んでいる人の話ですからね。


第四子の産み方が会心だったという。分娩台であおむけになるのは不自然と、夫に支えられて立てひざをした。これなら重力に逆らわず呼吸も自然だ。
破水の瞬間、金色のフラフープのような輪が体を包み、頭のほうから抜けていった気がした。いきもうと思う間もなく、赤ちゃんは世に出て助産師の手に受け止められていた。「ああ、きもちいい。私は命の玄関だ・・・」


当事者でなければ絶対に味わえない感覚。その感覚によりどころを求めるのはとても自然なことだと思います。自分の友人の友人は出産をきっかけに看護師資格を取り、助産師にもチャレンジしていると言います。自分がうつ病体験から精神保健福祉士を目指しているのと基本的に変わらないではないですか。この大葉さんも「あとに続く者たちを楽に」ただそれだけといいます。助産師にチャレンジしている友人の友人もおそらく同じ思いなのではないでしょうか。

「自宅出産は赤ちゃんにとって危険で迷惑。自宅出産を選ぶ人は赤ちゃんのことは二の次で自分のことばかり考えている。」と言った方がどういう立場でその発言をしたのか分からないのですが自分の子供を生むのに子供のことを考えない人はいないでしょう。産院の都合に合わせて出産時間を昼間に調整される妊婦さんのほうがかわいそうだし、子供にムリはかからないのか。

ま、やはり所詮独身男のものの見方ですかね・・・。

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2004/12/04

こんな産婦人科医もいます

最近は耳にしなくなりましたかね。ベネッセの育児系雑誌が「たまごクラブ」(妊娠中)「ひよこクラブ」(出産後)と言う名前で、発売日はラジオでも「今日はたま・ひよの日」といって宣伝していたのですが。(今はそのさきの「こっこクラブ」もある)

こちら鳩ヶ谷雑記でも複数のお母さんやお母さんの卵が読んでくれている可能性があるので、充実したサイトをご紹介します。
すくすくネット -こどもを心豊かに育てるためのインターネット放送
ここに出ているDr.Nさんはひょんなことから知り合った若手の産婦人科医です。「歌って踊れる産婦人科医」と言うキャッチフレーズどおり、ミュージカルにも挑戦されたりいます。ゆくゆくはお母さんたちの精神的なケアまでできるといいなといいうことで、マタニティブルーとか、産後うつのことまでカバーされていくのかなと思って期待しています。
サイトでは読者の質問に答えてくれるコーナーやお子さんの年齢別掲示板など、その他書ききれないほどのお役立ちコーナーがあります。ぜひ一度ご覧ください。

ついでにもうひとつ
赤枝六本木診療所
をご紹介します。この方は「六本木の赤ひげ」と異名がついている先生で主に若い男女の性感染症や望まない妊娠といったことを少しでも減らそうと六本木や横浜のクラブやライブハウスへ出張してエイズ検査を無料でしたり、六本木のハンバーガーショップで相談を受け付けたりしています。ラジオ番組も持っていて、文化放送の月曜1時半から2時まで(以前はInter FMでしたが2月からこちらになっているようです。)リスナーの相談に応じています。
性感染症もそうですが、いわゆる不妊治療についても「男性の側も知識を持って女性の体を守るべき」といい、パートナー2人そろっての受診を勧めたりしています。自分はこの方の事をFM放送時代に知りましたが週刊誌でもとりあげられるなど、また財団を設立し研究助成をするなど、本当に多方面での活躍をなさっています。興味をもたれた方は一度ご覧になってください。

そう、不妊治療に関してパートナーが2人で受診することを勧めるのは、男性の側に原因があることもあるからです。当然といえば当然なのですが、雅子さまの例を見てもそうだったように、どうも世間一般では女性に原因を求めがちです。この際だから書いてしまいますが、自分は以前「不妊の原因になりそうだ」という下腹部の手術を受けたことがあります。血管が少し伸びているために、精子に体温が伝わり熱で殺してしまう可能性があるということでした。

これは泌尿器科でかかりましたが、精神神経科にも行って泌尿器科にも行ってどちらでも入院していれば、もう病院に恥ずかしくて怖い受診科なんかあるもんですか(笑)

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