基本的人権

2009/12/10

社会進出の前の社会復帰

4年位前、べてるの家や東京シューレなど、決まった時間に決まった事ができなくてもその人それぞれの特性を生かした働き方や学校の通い方を認め生かし育てる環境があり、しかもその環境や人が社会にとって有意義である現実を知りました。それで自分も社会復帰はしない、自分が出来る社会貢献の仕方を考えて社会進出する!と宣言しました。

時が経ち、今、自分は自分自身の特性を十分に生かした社会進出を図る為、あえて社会復帰をめざし始めました。

4年の時間で自分自身も変化し、社会も変化しました。自分はインドに行ったりして国際的ものの見方をするようになりました。国家や社会としての日本という枠組みを相対化できた事は大きいです。

社会の側の変化もあります。うつ病をはじめとした精神疾患に対する認識が格段に向上しました。もっとも言葉だけが先歩きしたり、新たな誤解を生んだりもしています。しかし切り捨てられない社会問題だと思う人が増えたからこそ3障害の扱い統一が少しずつでも進んでいるのでしょう。その中、事業者は全雇用者の一定率障害者を雇わねばならなくなりました。最初は努力義務だったのが、今は達成できないと罰金を払わされるらしいです(詳しくはこちら)。そのため障害者枠での就業という選択肢が出来ました。手帳を持っている障害者でないとこの枠は使えません。もともと身体障害をイメージしていた事業者も、知的障害や精神障害の該当者も雇わないと必要な雇用率を達成出来ないので、あらゆる障害者手帳所持者を対象に雇用し始めています。ハローワーク以外に専門の紹介会社もあります。これなら就労期間にブランクがあってもハンディは小さい!しかも通院日などに配慮してもらえるなどの条件設定が出来ます。働くにも働きやすい。

この枠を使ってまず仕事に就き、障害年金がストップされても食いつなげるようにする事がとりあえずの目標になりました。仕事の選択肢を広げる為、午前9時から仕事開始出来るように練習し始めました。夜は23時までに必ず寝て、朝7時には朝食が食べられ、すぐ活動出来る訓練です。当たり前の生活習慣と感じる方もおられるでしょうが、精神疾患をもつと大変疲れやすい体になりますので、前日いかにやるべき事を後へ回すか、人に頼むかが朝起きる為の鍵になります。精神疾患の患者は概して真面目です。やるべき事はきっちりこなさないと罪悪感から眠れなくなったりします。だからこのチャレンジは主治医や専門のアドバイザーと連携しながらやることが必須です。やりすぎると病状が逆戻りするリスクもあります。

しかしこれが出来るようになれば活動の幅はグンと広がります。そして当事者のサポートの側に回ることも出来ます。いろんな可能性が出てきます。そういう社会進出もありだなと思えるようになりました。だからこそ、そのための社会復帰を目指しているのです。

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2008/02/29

目の前にある貧困

貧困というと発展途上国のものと考えてしまいがちです。

昨日グラミンフォンの話を書いて、中で「銀行と貧困は10年後博物館にあるかもしれない」と記しました。しかし実際には貧困とはしぶといもので、そう簡単に無くならないということも承知しています。

例えば、鳩ヶ谷の変電所交差点の歩道橋の下には人が住んでいます。

荒川の河川敷にもいくつかの小屋のあるのが見えたものです、が最近その小屋のあった付近の木が切られ護岸工事をしています。あれは護岸を守るための工事ではなくそこを住みかにしていた人たちを追い出すための工事である事は明白です。

ずっとブログを書きながら、いつか書こうと思っていた、涙の出るような話があります。

4畳半の台所と、6畳の部屋がふたつ。 そんな家に14人で生活している家族がいた。 母一人、子ども11人、孫も二人いた。

 ある夏休み、当直だった私は学校の近くにあるデパートに夕食を買いに来ていた。すると突然、制服を着た少女が走り込んできて、数人の店員たちに押さえられた。両腕をつかまれると、持っていた紙袋からごろごろと弁当箱がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」必死に謝る少女を、店員たちは有無も言わさず裏へ連れていこうとする。少女の制服はひどく汚れていたが、それが中学生のものだとわかった。私はすぐに後を追い、店員たちに声をかけた。
「勘弁してあげてください。お弁当の代金は私が払いますから」
腕を解放された少女は、すぐその場にかがみこんだ。そして床に散らばった弁当の中身を、猫のようになめはじめた。あまりの異様な光景に、店員たちはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、私は彼らにお金を渡しつつ引っ込んでもらうように頼んだ。
(中略)

 少女の名前は美晴といい、古い市営住宅に住んでいた。
 決して広くないその住まいには、何組もの布団が敷きっぱなしになっている。その上に、カップラーメンや弁当の残りかすがびっしりと散乱していた。部屋の真ん中ではやつれた感じの女性が寝ている。奥の部屋には、乳飲み子を抱く少女も二人いた。

 美晴が弁当の入った袋を見せると、子どもたちがわっと集まってきた。

 女性は私の姿を見るなり布団から出て、おじぎをした。それから台所の一部を片付けて、二人分座れるスペースをつくってくれた。
「子どもは11人いて、美晴は三女なんです」

 もともと孤児として育ったという母親の過去はすさまじかった。彼女は中学を卒業した後すぐ、職場で知り合った男と同棲したが、子どもができたとたんに捨てられ、それからは主に売春で生活を支えてきたという。
 彼女には避妊の知識がなかったため、子どもは次々と生まれたが、11人の子どもの父親はすべて違った。誰からの助けもなかった。それでも彼女はずっと、たとえ妊娠しているときですらも、街角に立って体を売り続けた。
 2年前に過労と性感染症で倒れ、売春ができなくなった。それからは17歳の長女と16歳の次女が、母親のかわりに売春で家族の生活を支えた。さらにその娘にも、それぞれ父親がわからない赤ちゃんができていた。
 しかし、三女の美晴だけは売春が許されなかった。家族の中で一番勉強のできる美晴は、14人の家族にとっての唯一の希望だったからだ。家族全員が美晴を高校に入れて、立派な人になってほしいと願っていた。
 もちろん美晴も家族たちを愛していた。小さい頃から成績がよく、性格も明るかった美晴は、学級担任や福祉事務所員から何度か里子の話を持ちかけられたが、いつも断っていた。自分だけが貧しい生活から逃れることよりも、家族みんなで幸せに暮らすことを望んだ。素晴らしい家族だった。私は話を聞きながら胸を打たれていた。長い教員生活でいろんな家族と関わってきたが、これほど慈しみあっている家族を見たのは初めてだった。
(後略)

これは「夜回り先生と夜眠れない子どもたち」(サンクチュアリ出版 2004年10月)から抜き出しました。自分はこの話を読んだとき、中国の極貧の村の話を思い出しました。その村でも一人の勉強の出来る女の子がいて、村中がその子を学校に出したいと思ったのです。しかし本人の親はもちろん村の誰も学費を援助できるような人がいませんでした。村長は逡巡した挙句、村を担保にお金を借りてその娘を町の学校へ出したのです。その娘は「勉強して必ず村のためになるような事ができるようになって帰ってきます」と涙ながらに誓って旅立ったのです。NHKのドキュメント番組だったと思います。

まるで同じだ。

中国の極貧の農村の話が、実はひとごとではなく日本の横浜(だとおもいます)に転がっているのでした。

格差格差と騒ぎ立てるちまたの人たちはこういう話を知っているでしょうか?

「夜回り先生」こと水谷修氏の著書にはこういう話がそれこそいくらでも出てきます。犠牲になるのはいつも子どもたちです。

親がアル中でどうしようもなく、アダルトチルドレンとなって苦しんでいる子どもたち・・・。でも実は当の親も子ども時代に親のアル中で傷ついていた、飲まずにはいられなかった・・・。そういう貧困と精神病の連鎖がついこの間まで日常だったところが北海道の浦河です。「べてるの家」の初期のメンバーたちはそういう環境下にいたのです。町の経済も疲弊していましたし、アイヌ民族をオリジンとする人々への差別もありました。べてるはそういうすさまじい現実の中から生まれたのです。

精神科病院に入院するとき「ご家族に同じような病気を持っている人はいますか?」と聞かれました。自分の家系で精神科病院に入院したのは自分が初めてでしょう。あまり違和感をもたなかった質問ですが、あとで強烈に響くようになりました。地域では「精神病患者を出した家」というだけで白い目で見られてしまうところもあります。しかし、自分がいろいろな書物を読んで分かってきたのは、病気が遺伝するのではなく貧困やきわめて困難な環境(部落差別など)が親を苦しめ、その苦しみが子どもに深い傷を与えて、病気が連鎖していくという事実でした。地域のコミュニティがそういう人たちを暖かく迎え入れれば、おそらく世代間連鎖はとまるでしょう。しかし・・・。

答えのない問題です。

はっきりといえるのは「貧困」はよそ事ではないということです。日本国憲法が基本的人権と生存権を保障しているのに・・・です。

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2007/05/17

誰がばらすのか?

福島で母親を殺した男の子の話題が週刊誌の大見だしになっています。しかし「通院歴」なんて関係ないじゃないか!誰だ、こういう事をばらすのは?こんなもの報道の自由でも何でもないじゃないか!だから基本的人権を尊重して下さいとまた言うしかないのです。

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2007/02/28

メタボリックなのは人権ではなく大学

某閣僚が、人権をバターにたとえて「とりすぎるとメタボリックシンドロームになる」などと発言したとか。人権尊重というのはイコール「相手の立場に立ってものを考える」ということです。権利ですから当然義務も伴います。権利だけ主張する人がいるからそれとごっちゃになっているのかもしれませんが、国というのは土地に帰属するのではなく人に帰属するものでしょう。だから「国を愛する」イコール「人権を尊重する」でしょう。閣僚がこの程度のこと分からないのかと悲しくなります。

本当にメタボリック的なのは昨日書物の紹介のついでに書きましたが、大学でしょう。大学4年間通うのにいったいいくら掛かるでしょう?そしてそれに見合う教育がされていると思いますか?

自分らが学生の頃でさえいい加減な授業が多かったと思いますし、休講なんてのも多かったです(それに乗じて喜んでいた自分も浅はかでしたが)。授業料を払っているのに休講なんてありえないでしょう。理解できていないのに単位をよこす教員も多数いました。楽に単位が取れる分授業もお粗末極まりなかったです。大学で買わされたテキストの中で、今も価値あると思って持っているのは数冊しかないです。

よその国の話しを聞くと、大学のレベルというのはかなり高いです。しかも国によっては学生が教員を評価する制度まであって、毎年同じノートをもとに講義するとか休講なんてことをやっていると評価がぼんと落ちると聞きます。だから教員のレベルもおのずと高くなるわけです。

今、少子化で大学全入時代と言われますが、大学なんてものは勉強したい人やする必要がある人が行くところで、必ずしも全員行くべきところではないし、それだけの経済負担に耐えられる学生またはその親も減ってきていると思います。なのにまだ新しい大学や新設学部が出来るのはどういうことなのでしょうか?

自分の考えですが、原因は大学院生の粗製乱造にあると思います。自分が学生だった頃、大学院にはいれるのは大体3000人くらいだったと聞きます。それが最近は1万人を越えるそうです。法科大学院といった特定の目的のための大学院生を抜いても昔の3倍くらいは院生がいると思います。大学院に行くと言うことは昔はたいてい研究室に所属してその研究室を持つ教授の徒弟になることを意味しました。だからどこどこ研究室を出たということが価値を持ったのです。院の入試にしても、入試の前に入りたい研究室の教授が受験する学生のことを知っていて、受かった時に行く研究室は事前に決まっていたと思います。当然入れば自主的に勉強して論文を書いたりするのは当たり前でした。

しかし、最近の大学院生は「教授がきちんと教えてくれない」などといって文句をたれるとか。それは大学の延長と言う意識なのでしょう。その時点でその人は形式だけの院生ということだと思います。そんなレベルの人が卒業して修士などと名乗るのはばかげていると思います。さらにそんなレベルの学生が教員になったりする。

自治体が税金で大学を誘致するなんてことが未だにあります。土地を無償で提供したり建物に補助金を出したりするけれど、それは「わが市にも大学がある」と言う面子のためでほとんど納税者のためになっていません。そこへ大学も便乗。水ぶくれした自大学の修士や博士を教え手として送り込むわけです。何人かは名のある人を雇っていたりするけれど、最近はその「名のある人」がそもそも大学で教えるレベルの人か疑問というケースもいっぱい。私立だから学費も高い。高い学費のくせに中身は空っぽという大学が増えるのはそんな事情もあるのでしょう。

先の某閣僚は大学を管轄する省庁の大臣でしょう。「メタボリック」なのはどこなのか、よくよく考えて欲しいものです。

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2007/02/16

人権意識0の弁護士

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今日の朝刊を見て怒りを覚えます。某教団のM被告に対する裁判について、東京高裁が裁判の迅速な進行を妨げ、「被告の権利を奪った重大な職責違反」として、被告の控訴審の弁護人2に対して請求した処分に対し、日弁連は「裁判終結後に弁護士の処分を求める請求は不適法」として門前払いとしました。該当弁護士らが記者会見で「懲戒されるべきは裁判官だ」とか「M氏の精神状態なども検証してもらいたい」などと発言しています。

馬鹿にするな。相変わらず「精神状態」いかんで迅速な裁判を受ける権利や罪を償う権利を奪おうとする弁護士の態度にはらわたが煮えくり返るような怒りを覚えます。この2弁護士の代理人に全国の弁護士約600人が就いたとの事。相変わらずこの程度の人権意識しかない弁護士が山ほどいることにも情けなさを感じます。東京高裁は「弁護士に対する国民の信頼を失わせるばかりか刑事裁判に対する国民の信頼を損ないかねない」とコメント。ある法科大学院の教授は「弁護士自治に対する市民の信頼が揺らぎかねない決定だ」と話しているとのこと。これらの意見に共感します。

自分は「自己破産などの申し立てにも、必ずしも弁護士は必要ない」と言っていますが、そのように言う理由のひとつは、高い手数料を払って申し立てを依頼したとしても、その事務手続きだけして依頼人のその後のケア(闇金からのDM対策や、再度同じ轍を踏まないためのカウンセリングの斡旋など)なんかには全く興味の無い連中が多いからです。多重債務者を金づるとしか思っていない弁護士が多いぞ。

「精神障害」を犯罪者を無罪にする免罪符として使うのは、憲法の基本的人権の尊重に明らかに違反します。基本的人権というのは「相手の立場に立って物を考えること」です。弁護士は特権階級にあぐらをかき、基本的人権とは何かと言う根本的なことすら考えることができない頭でっかちが多すぎます。「人権」を意識して奔走する弁護士も沢山いるけれど、何が「人権」か、立ち止まって考えたことの無い弁護士のほうが多数だと感じます。医者でさえ「患者の立場に立つ」ことを、改めて教育されるプログラムがあるのですよ。弁護士にもそういう態度を教育する必要があると強く思います。弱者のためこその弁護士たれ。

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