教育

2012/04/14

きょうの「鶏肉料理」

今朝の起床もすんなりとはいかず、1時間半くらいかかりました。きょうはデイケアへは休みで行かないのでそれはそれで良しというところ。夕食に「鶏肉のトマト煮」を作ったのですが、胸肉100グラム35円の特売で400グラムも買ってしまったために、明日までに食べきれるか微妙な線になってしまいました。夕飯時に食欲がわかなかったのは日中「いのちに触れる 生と性と死の授業」鳥山敏子著を読んだことも理由のひとつ。小学校4年生の授業で「鶏を絞めて、その場で調理して食べる」というのをやった話で、「こういうことは大切だ」と以前に感じて買ったまま積ん読になっていたのでした。この本では豚や牛の飼育にまつわる話や、原子力発電所の作業員の話も出てきて、特に原発の話題は今読むと殊更に考えさせられる内容でした。一部を引用したいくらいですが、そのエネルギーがないのでやめておきます。

とにかく積ん読の本をなんとかするのが喫緊の課題です。自宅だと読めるのですが、デイケアだと疲れてしまって中身の深い本は読めないのです。それでも自宅なら読めるのは大きな変化です。

前日と10℃も気温差があると健康な人でも体調を崩しますね。今週月曜から気温がグンと上がったら、デイケアの看護師さんが2人も体調不良でお休み。きょうは昨日より12℃も下がりましたから病人はなおさら大変です。でもいまのところ自分は大丈夫なようです。

| | コメント (0)

2009/04/06

道徳教育

教育とは、たずさわる個人が本当に所有しているものだけしか伝達されえないものである(福田恆存「教育・その本質」…「学問の下流化」竹内洋著 中央公論新社よりまたびき)というのが本当のところだと思います。だから教員がいくら道徳を説いたところで、子どもたちは本質を見抜いてしまいます。これは教員だけでなく親もそうです。自分の子どもを優秀にしたかったら、まずあなた自身を磨かなければダメ。プレシデントファミリーとか日経キッズなどの雑誌を読んで上辺だけ真似しようとしたってそうはいかない。これらの雑誌のバカバカしさ、真に受ける人の多さにびっくりするやらあきれるやら。

| | コメント (0)

2008/11/05

地方経済の実情

自分は日経メディカルオンラインや日経コンストラクションのメルマガを読んでいます。読んでいるといっても丹念に目を通すことはできないのですが、それでも業界ならではの視点を持つことができるのでテレビを見ているだけでは分からないこの「日本」という国の、本当の実情が少し分かります。

10月22日のケンプラッツ土木の記事の一部を引用します。これを読むと地方経済が公共事業なしには立っていられない実情が透けて見えると思います。無駄な道路、無駄なダム、無駄な○○(ハコモノ)を作らなければならない実態、そうした経済構造を変えていくことの難しさ、しかし変えないと国が滅ぶという自分なりの危機感を少しでも感じていただけたら・・・と思います。


民間信用調査機関の東京商工リサーチは、2008年1月から9月までの建設業の倒産を都道府県や地区ごとに分析。10月20日に発表した。富山県や鳥取県では前年同期に比べて倍増しており、地区別では中国地区を筆頭に、すべての地区で前年同期の倒産件数を上回った。

 2008年1月から9月までの建設業の倒産件数を都道府県別で見ると、36都道府県が前年同期を上回った。増加率が最も高かったのは富山県で、前年同期に比べて117.6%増加。鳥取県も同106.6%増と倒産件数が倍増した。これらに和歌山県が84.2%増、広島県が73.4%増、石川県が60.8%増で続いた。

 全国を9地区に分けた地区別で見ると、すべての地区で建設業の倒産件数が前年同期より増加した。増加率が最も高かった地区は中国地区で、前年同期に比べて47.4%増加。40.9%増の北陸地区と23.6%増の北海道が続いた。
 倒産した企業全体の中で建設業が占める割合を都道府県別で見ると、最も高かったのは宮崎県で57.3%。これに沖縄県の51.9%と鳥取県の50.8%が続いた。これらの3県では、建設業の倒産が全体の過半数を占めている。

 さらに、建設業の倒産が全体の倒産件数の40%以上を占めていたのは14県に及び、例えば鹿児島県では47.0%を、愛媛県では46.6%を建設業の倒産が占めた。

 東京商工リサーチ情報出版本部の友田信男統括部長は、「これらの県では、建設業が基幹産業の一つ。公共投資の削減で、地元の経済は大きな打撃を受けている」と言う

ここには公共投資と書いてありますが、投資の部分は少なく多くが浪費であることは地元に住んでいる人でも感じることでしょう。その浪費産業が地域の基幹産業となっている、税金と借金が地域経済をまわしているのです。これではまずその地方がよくならない。公共事業に頼らなくても自力で考える力があれば、地域の特色を生かしたさまざまな仕事をベンチャーで起こせるはずなのです。中学・高校と(最近は小学校も)自分で考える力を育てることがまったくなく、制服を押し付けて「TPOにあわせて何を着たらいいか」などという切り口で物を考える力を奪い、さらに暗記中心の「実学」ではない、選別のための教育を延々と受けさせられるのですから、そりゃ自分で考えられなくても仕方ない。宮崎県の恥として有名になった宮崎一区選出で引退表明をしている中山氏の「戦後教育の失敗」とは何を指すのか、彼は学力をどういうものと心得ているのか、福沢諭吉の示す「愛国心」について彼はどう思っているのか・・・聞くまでもないか・・・。福沢諭吉が「学問のススメ」で示している本来の愛国心について、ぜひここのリンクからたどってもう一度読んでください。

こんなところでは仕事を作ってくれる議員と発注する公務員が一番えらいということになってしまうのも仕方ないですね。ホントは逆なんだけど・・・。そのためには逆の発想ができる人材が必要です。お金じゃなく人、本当のリーダーが足りないのだと思います。はやく気づいて!!

| | コメント (0)

2008/10/30

タブーをなくす

日本ではお金の話題と性の話題はタブーととらえられ、なかなか大きな声で話せない部類のことです。しかし万葉集などを読むと、昔は性の話題については随分オープンだったのではないかと思われる節があります。つまり世の中の変化に応じてタブー視される必要のあるもの、そうでないものがあるということです。

現代はインターネットで様々な情報が瞬時に検索され知ることができる時代です。そういう意味では「隠す」ことはむしろ逆効果になるケースが多いのです。子どもたちに見て欲しくないサイトをフィルタリングするだけでは対処療法のいたちごっこで、結局悪用する人間がたくさん出てきて問題解決方法としてはダメだと思います。

日本人の買春ツアーのように海外にまで恥をさらす、傷を負わせる人たちを、あるいは世界的に糾弾されている日本の児童ポルノに対する規制の甘さなどを根本から変えていくためには、私たちの社会そのものを変えてこれらのタブーをなくす必要があると自分は強く考えています。

まず性の問題に関するタブーに関して、見方を変えていただくために「デンマークの子育て・人育ち」(沢度夏代ブラント著 大月書店 2005年11月)の中身を引用します。

ひと昔前のこと、デンマークを含むスカンジナビア諸国は「フリーセックス」の国と、少々わいせつさを含むレッテルを貼られていた時期がありました。これは、日本人の大きな勘違いで、誤解が一人歩きしていたようです。(中略)その本来の意味は「偏見なく性について話す」ことであり、その大きな目的は、性感染を防ぎ、個人の家族計画を可能にした上で、「望まれた子」の誕生をめざすことです。(中略) どうも日本では一般的に、「性」という言葉は、「陰」にとらえられる傾向があり、発言はタブーに近いところがあります。しかし、性の問題は、人権問題を含む男女平等の発達、妊娠のコントロールを可能にする、エイズを含む病気の予防、社会的な犯罪の減少など、広い分野に大きな関係があることを認識したいものです。幼子から思春期そして青年期に、「正しい性の情報提供」を行うことが子どもたちの健全な成長を促し、やがて健全な社会生活を営む基盤の一つのなっているように思えます。(中略) 私のデンマーク生活が始まって間もない1970年当時、テレビの番組で全裸シーンが放送されていました。しかも、まだ夜の8時代、日本では目にしなかったシーンが、子どもたちもまだ起きている時間に放送されていて、テレビ局の無神経さにあきれたり、驚いたり、目のやり場がなくて困ったのを覚えています。私は「こんな場面を、子どもが起きている時間帯に放送するなんて信じられない」と話し、すっかり夫が同意すると思っていました。ところが彼は「人間の裸は現実だし、隠せば覗きたくなるのは人間の心理でしょう。いつも見ていれば、悪質な興味とならないのでは」と、反応してきました。「うーん、なるほど」と、私がそれまで馴染んできた考えと全く逆の発想だったので、ちょっとしたデンマーク社会入門時のカルチャーショックでした。(中略)

書きかけですがとりあえずここまでで一度公開します。あとで書き足します。

| | コメント (0)

2008/10/28

勉強嫌いでもOK

自分は午前中いつもNHKラジオの「ラジオビタミン」を聞いています。番組全体が子育て世代を応援する、そういう世代を中心層にすえているのでとても聞きやすいのですが、特に10時からのときめきインタビューに出演する人の多彩さにしびれています。

昨日は教育ベンチャー会社社長の丸幸弘さんでした。以下はホームページで紹介されているプロフィールです。

宇宙で半年過ごした種は発芽率や大きさに違いが出るだろうか。11月から始まる宇宙実験の委員長となった。今年30歳の丸幸弘さん、生命科学の博士でいまも研究を続ける。子どもたちに科学の面白さを伝え、理解を広げようと6年前に、大学院生ばかりで学校に科学実験の出前などをするベンチャー会社を起業した。子供たちは科学が好き、きっかけさえあれば興味が広がってゆく、理科離れは勉強を強いるからだと考えている。いま員は32人、年商は10倍以上に成長した。 「やりたいことは全やりたい。夢は多く持てば立ち直れない挫折をすることはない」という丸さん、さまざまな分野で夢の実現をめざしている。

この丸さんは小学校3年生くらいまでシンガポールにいて、それから日本に戻ったら日本の学校の詰め込み教育が全然合わず、ずっと勉強嫌いできたそうです。大学に一浪して進んでからも答えの既に出ている実験をやるのは嫌で、答えのない課題を見つけて自分の工夫と努力で結果を出すのが面白かったとか。そういう性格は大学あたりから花開きだし、東大の院に進んでからどんどん世界が広がりだしたのです。生物の分野はわかっていないことが多いと聞いてそちらにすすんだりしていて、とにかく分からないことが好き。

丸さんに限りませんが既存の教育が自分の体質にうまく合わない人がいてむしろ当たり前。自分も(何度も書きますが)暗記が大嫌いで、人に教えるのが大好き。なので中学まではクラスの子に勉強を教えまくってそれを自分のモノにできた、だから成績も良かったのに高校に入ってからは勉強がつまらなくて成績は低位安定。特に英語の単語や発音の暗記が大嫌いでした。中学までは得意だった数学や理科もどん底に沈み、行く大学がなかった。かろうじて英語が極端に易しい代わりに国語が難しい大学があって、そこにひっかかりましたが自分の興味対象と専門が違って苦悩。1年生の時は取得単位0。集中力と低い進級ハードルのおかげでまる3年で首尾よく卒業してしまいました。大学時代も本は読みましたが(友人と「岩波文庫を全部読破しよう」と話したりしましたが、結局飽きっぽかったのと読書のための筋力みたいなものがまだまだイマイチで100冊も読めなかったです)、今は時間があることもあってよく本をよんでいます。勝間和代さんがお勧めする本と自分がお勧めの本、数のレベルが違って大きなことは言えませんがかぶっているものがいくつかあります。興味の対象が似ています。ただ勝間さんのお勧め本には、教育や障害者問題、ホスピタリティにまつわる本が全くないです。敢えて分野を絞ってあるのかもしれませんが・・・。自分の本で一番の特徴は有明海にまつわる本が何冊もあることです。有明海問題は日本の公共事業依存経済やその他政治、マスコミなど様々な問題を包含していて、この国の課題を凝縮しているところがあります。

勉強が嫌いでも全然構わない。そういう子どもでも実は学者になるような素質があるかもしれない。単一のレールではなく、東京シューレのようなフリースクール、あるいはその他のレールがあったら私たちの大事な大事な子どもたちがもっと生き生きと過ごし、自己の関心を少しずつ拡げていつか羽ばたく。そんな気がしてなりません。


| | コメント (0)

2008/10/23

家族という闇

8月19日に「これが自分だった」という記事を書きました。あの時、実はあそこで終わらせるつもりではなかったのです。今更わざわざあんな記事を書いたのには訳があります。それは、どうも家族間の心理状態が子どもを傷つける、それが体に反応として出てくるというのが自分のいた家族だけの問題ではなく、もっと非常に多くの家族の中で起きていて、そのことが今の子どもたちにからだの反応として、アトピー、不登校、発達障害、リストカット、自殺未遂、親殺しなどといった一見不可解な現象として出てくるのではないか?と思ったからなのです。うちだけではない。それどころか、家族間に問題があってそれが生きづらさとして感じられるのではないかと気がついてカウンセリングを受けたり精神科に通ったりしている人たちが大勢いるのですが、それすら氷山の一角なのではないかと思えてきたのです。

買って読んではいないのですが、電車の中吊り広告の見出しによると今週の読売ウィークリーでは「自分の過去を消してしまいたい」という見出しで、父親や兄から性的暴力を受けた人の手記が載っているようです。小説の題材としてはこういうことありますけれど、私たちが生きているこの現実の中で「家族」という囲われた密室の中で同じような事がたくさん起きていて、多くの人が傷を抱えているのではないだろうか、それが心理に影響してセクハラ、モラハラが拒否できないようなことにつながったりしているのではないでしょうか。

女子中学生のセイコさんが、「お父さんの私を見る目が気持ち悪い。助けて」と思い切ったように手を上げました。「視線がジトーッとしているんです。わたしがお風呂に入ると、必ずその横の洗面所に来て、わたしをまるでお風呂に閉じこめているように、そこから三〇分たってもお父さんが動かない。また、私の服装に対してもきびしくて、からだの線が出るような服はチェックされるんです。学校の帰りにわたしが男の子と話していたとき、タクシーに乗っていたお父さんが見たらしくて、家に帰って強く叱られました。『どこの馬の骨ともわからない男とつきあうんじゃない』って。逆上したようにわけのわからないことをいうのです。わたしはお父さんがこわい。何をされるかわからない不安があるんです。

そのワークにはお母さんの佐知子さんも一緒に来ました。娘のセイコさんは側にいるお母さんの方を向いていいました。「お母さん、お父さんとうまくいっているの?」「うまくいっているわよ、何いってんの。」この話し方から二人が気軽に話せる関係になっている事がうかがえます。彼女はよく父親に殴られます。殴られている時に、お母さんの佐知子さんは助けてくれません。お父さんの後ろにいて、お父さんと一体になったように自分を見ています。
「父親は、娘が好きなんですよ。」
「佐知子さんはそのことをどう思っていますか。」
「父親として当然でしょう。娘をかわいく思うのは。」
「そうじゃないよ。かわいがってくれていないよ、お母さん。気持ちが悪いよ。」
娘のセイコさんが口をはさみました。
「お母さんは、わたしがお父さんにたたかれていても、私に味方しないじゃない。お父さんの方についてしまって。わたしはどうしてお父さんにたたかれなければならないの。」
「だってセイコがお父さんを怒らせるようなことをいうからよ。」
「でもわたしは自分が思っていることをいっているの。ちっとも私を信じてくれない。どうしてお父さんはわたしをあんなにたたくの。そんなお父さんをお母さんはどう思っているの。」
「愛しているわよ。」
「うそだ。もしそうだったらお父さんはもっとお母さんのことを考えてもいいんじゃない。」
「セイコにはわたしたち夫婦についてわからないことがたくさんあるのよ。二人の間ではわかり合っていることがたくさんあるのよ。わたしはお父さんを愛しているわよ。」
「それだったら、お母さんがこの前のように精神を病んで入院するような事もおきないんじゃないの。どうしてお父さんがわたしを殴る時に、お母さんは助けてくれないの。もういやだよ。」

セイコさんは母親の佐知子さんを追い詰めていきます。二人のやりとりをきいていると、佐知子さんは夫の心が娘のほうにいくことを恐れているのが伝わってきます。夫の気が娘の方ににいくと、自分が見捨てられるようで不安になるみたいです。そして夫が娘を嫌ってくれることで安心しようとしている。

おかしいでしょう?お父さんとお母さんはうまくやっているといっているけれども、「おかしい。とってもわたしにはうまくやれているように思えない。どうしてお父さんがわたしを殴る時に、お母さんはたすけてくれないの?もういやだ」。なんで自分の娘を殴る自分の連れ合いに対して、娘を守ることができないのか。お母さん自身が小さいとき同じような体験をしているか、愛されていなかったのです。本人の記憶になくても実際は、からだはひどい目にあっているのです。親に殴られたり、精神的暴力を受けた人が、やっと自分を愛してくれると思える人と結婚し子どもができた時、往々にして、連れ合いの心がたとえわが子のところであっても自分から離れて行かないように無意識に動いてしまうのです。愛されなかったさびしさは連れ合いの気持ちがまず一番に自分の方に向いていないと不安なのです。もちろん夫は夫で愛されなかった問題をもっていました。

夫婦の両方が、かつて愛されなかった傷をお互い癒し合う関係としてつながっているのが、外から見て一見夫婦睦まじく見えるけれども、どうも中身が怪しいのです。なぜ娘がジトーッと感じるようなそういう気持ちになるのか。

「『お父さんはそんなことないから安心しなさい』とお母さんがどんなにいっても、わたしは信じられない。あれは普通の状態じゃない」とセイコさんは泣き叫びながら、それを訴えてくるのです。この夫婦の関係は、子ども時代の傷をお互い癒すための、たとえばセックスであり、つながりであって、大人の女として、また大人の男としてのつながりではないのです。自分の内なる子どもを傷ついたままにしておくと、たとえ大人のふるまいをしていても成長はそこで止まっているのです。二人はお互いの傷をしっかりと自覚しないで、さびしさだけを補おうとお互いを求めて合っていますから、その行為がお互いの成長をうながす癒しになっていないのです。二人はお互いの保護者になってしまっているのです。ですから夫のもっている男としての欲求は、妻には求められず、自然と娘にいくのです。つまり娘を女としてみるわけです。

女たちは男に対して自分が本当に感じていることを語っていないように思います。セックスひとつとってみても、夫や男に本当に感じていることがいえず、多くの女たちは感じているように演技をしているのではないでしょうか。しかし中年の男や夫たちのからだは、露骨な欲求を事実として表現しているとわたしは思っています。それは、父親である中年の男たちの決して少数とはいえない人たちが女子中学生、高校生、大学生を買って遊んでいるという事実であり、そしてまた妻たちの多くが夫以外の男たちとセックスの関係を持っている事実です。人間として成熟している夫や妻ならできない行為でしょう。また、ワークが深くなってくると、「わたしは子どもの頃、実は父親に性器をさわられていた。小さいときにお風呂で洗ってくれている時にもさわられた。わたしはいやだというのに無理やりゴシゴシとやられた。」本当に性器を洗っているのなら、子どもは恐怖を感じないのです。父親の中にもっと別の感情が動いていることを小さなからだは無意識のところで敏感にキャッチしているのです。彼女にとってみれば、ただ「洗っている」じゃなくて、もっと違った無意識の女のからだへのセクハラ感覚で迫ってきているというのを、ゼロ歳、一歳、二歳の時から感じているのでしょう。だから父親の行為が信じられない。「よごれているから、きれいに洗ってやったんだ。」「違う。わたしが痛い、痛いといっても、お父さんはごしごしこすりつけてわたしを洗った。」「たしかにお前は、あの時痛い、痛いといっていた。」これが体の恐ろしいまでに正確な、理屈では表現できないすごさなのです。

「夜、お父さんとお母さんの間には弟が寝ていて、私はお父さんの隣に寝かされていました。毎晩お父さんが私の性器にさわってくるんだけど、私はこわくて声も出せず、お母さんにもこのことを言えませんでした。今もいっていないのです。」

本当に今もどんなにたくさんの小さな女の子が、いやもう中学、高校生にもなっている女の子が父親の性的虐待におびえていることでしょう。そして兄からの性的虐待についても然りです。とてもこんなおびえと不安とをかかえているからだの状態では、学校で深く学ぶということは不可能です。

じゃあ、こういう大人としての未熟さは男だけなのでしょうか。セイコさんの母親佐知子さんがワークの数日後手紙を送ってきました。
「先生、実はわたし、息子のからだに関心があるのです。息子がスッポンポンになってパーッと部屋の中を走っている。『まったくしょうがないわね、オチンチンぶらぶらさせて』と、わざとふざけた言い方をしているけれども、実はすごく息子のからだに関心があるのです。おかしいんでしょうか。」

彼女は女としての部分を夫に向けることができないわけですね。なぜなら、佐知子さんにとっては夫は自分を子どもの時に愛してくれなかった父親のかわりであり、夫からみれば妻は自分を子どもの時に愛してくれなかった母親のかわりなのですから。もちろん無自覚だとこのことは意識ではわかりません。このように夫と妻の両方がまだ子どもの頃から成長していませんから、双方が求めているのはその満たされなかった愛を埋めてくれる保護者なのです。彼女は夫とセックスをしていますので、男と女のセックスのつもりなのです。しかしからだは知っているのです。だから理屈ぬきに妻のからだは、目は、息子に男を求めてしまうのです。しかし、だれだってこんな状態になっていることを決して認めたくないのです。認めることは、自分と夫との関係を変えていくことを予感しているし、様々な関係のごまかしを直視しなければならなくなり、社会の枠の中から出てしまうことさえやりかねないのをからだは知っているからです。本当に子どもの時の傷をしっかりと癒して手当をしていないと、いっぱいいろいろな錯覚をするのです。そして、子どもをかわいがっているつもりでいるけれども、実際は子どもの親のつもりとは別の苦しいメッセージを受け取ります。

佐知子さんは、手紙の中で「おかしいでしょうか」と語っていますが、わたしはこのことが決してめずらしいことではないことを話しました。それは何万人もの苦しみのもとをたどるワークをしてきて、たくさんの「嫁と姑」の関係の問題にとりくんできたからです。「嫁と姑」の関係が昔よりよくなっていない事実に立ち会い、その問題の深さを感じてきたからです。「嫁と姑」の問題の根底にあるものは、多くは母親が長男と精神的結合状態にあるところからおきているように思えてなりません。自分の夫との関係をつくれない姑たちが自分の息子をとりこみ子離れできず、いかに深く同一化してしまっているかは驚くばかりです。こんな状態の中では、家庭内で嫁と姑がぶつかっても夫は「嫁」からみてもどっちつかず、態度のはっきりしないあいまいな人にしかならず、母親を気遣い、妻の苦しみを感じない夫にしかみえないのです。つくづくと「嫁・姑」問題を「男と女の性の視点」でとらえる必要を感じているのは、わたしだけではないでしょう。

こういう性的なものは、これから社会の中でどんどん問題になってくると思います。例えば女の人の場合に、小さいときにいたずらされた瞬間から、自分を大切に思えなくなり、とるに足らない価値のないもの、きたないもの、人を愛せないものに自らしていってしまうためです。

性的ないたずらを体験した娘たちは、みんな口をそろえて叫んでいます。
「私は恋愛ができない。恋愛してもいつもうまくいかなくなる。あのいたずらされた日から世界はカラーから白黒に変わった。」

これは前回の時も引用した「居場所のない子どもたち」(鳥山敏子著 岩波書店1997年2月)から、一節まるごとひっこぬいてきました。ここに書いてある事柄ですごく納得のいくことがあります。母親はたぶん自分のことを性的対象としてみていた事でしょう。仮にそうでなかったとしても、そのように自分が感じてずっといやだったことを思い出しました。具体的にどういうことがあったかはここではさすがに書けません。

これを読んで思い当たることがあった方は、ぜひこの本、鳥山敏子さんの本を読んでください。そして必要だと思ったらカウンセリングにかかってください。

自分は両親といるのがいやでいやで、だからしょっちゅう旅行に出かけ、休みもつぶしてワーカホリックに仕事をしていたのです。結果としてからだが限界点に達し「うつ病」というかたちで、周囲にも目に見える形で問題が表面化したのだと思います。しかし結果としてそれによって何回と無くカウンセリングを受け、ヒプノセラピーによって子ども時代をやりなおしまた傷にパッチを貼り、べてるの家と出会うことで「治らなくても良い」「人の為に生きるのではなく自分の為に生きる」「自分で自分を支えられないのに人を支えようとするのは、実は逆で自分が支えて欲しいからだ」など、さまざまな気づきを得ました。これは不幸中の幸いだったかもしれません。もしうつ病にいきつくところまでいかなかったら、鳥山さんがここに書いておられるような、典型的な「精神的母親・長男合体型」になっていて、好きな女性を愛する事も出来ず、自分のやりたい事もわからず、一人暮らしも出来ず、今自分が抱いているような夢を持つ事もままならず、子どもたちと育ち合うこともできなかったでしょう。本当に振り返ってみれば恐ろしい修羅場から抜け出してきたのです。

よく「こんなに明るい元気なうつ病患者はいないんじゃないの?」といわれますが、それは心理的なサポートを充分に受け、「自分が自分でいること」がこういうことなんだと気付きをもらえたからです。人を愛するということはどんな小さな条件をもつけず、丸ごとその人を受け入れる事。病気があろうと、障害があろうと、何があろうとです。それに気がつくことが出来たのはなんとラッキーな事でしょう。

精神科に通院している自分のほうが、こうした問題にふたをして社会的につくろいながら暮らしている多くの人たちと較べるとずっと精神的に健全なのではないかと思えてくるのです。この問題の根は深い・・・。

| | コメント (0)

2008/01/30

つぶしてしまえ

文部科学省の諮問機関が、現在学力テストを課さずに入学させている推薦入試やAO入試合格者に対し、基本的な学力を問う試験を課すよう提言したそうです。背景には6割の大学で高校レベルの授業の補習をしている現実があるそうです。自分は大賛成です。学力テストで大学の授業についていけないと判断された受験生は入学させられないようなシステムにしましょう。そうすれば補習をしなければならないような学生でも経営上採らざるを得ないレベルの低い大学は学生が確保できずつぶれるでしょう。大学全入なんていうのは百害あって一利なしです。

自分が大学の質にこだわるのは、インドへ行った事でアジア地域の子どもたちの様子を知るチャンスがあったからです。経済発展がこれからという国の子どもたちはめちゃくちゃ勉強していますよ。しかも日本と違って子どもたちの人数が多い、きれいな人口ピラミッドの配置になっている国が多いです。これらの国では能力のある学生に、それに応じたレベルの高い教育を受けられるチャンスが与えられます。同じ学士でも今の日本の学士レベルと他のアジア諸国の学士のレベルは大きく開きすぎです。

なぜ日本の教育の質が悪いのか。社会が大学教育を馬鹿にしているからでしょう。そうでなければ3年生(関西では3回生といいますね)の今から就職活動に夢中になれるわけが無い。授業をこなすので必死のはずです。学生が大学に期待する教育の水準が低いので、教授をはじめとする大学の講師陣は徹底的に手を抜いています。まともな授業をしている人もいますが、毎年工夫も無く同じノートを黒板に書いていくだけの授業など受けても無駄です。

日本以外では高校でも先生が黒板にポイントを丁寧に板書するというのは少ないようです。先生の言っていることをノートにどんどん書き取っていかなければなりません。授業中寝ているヒマは無いのです(これは自分に対する戒めも含めます)。実際自分の知人である医師と同じ講演を聞いたことがあるのですが、ノートのとり方が全然違いました。自分は話を聞きながらポイントを必死に書き取っていたのですが、知人は講師の話をすべてノートに取っていました。そして講義が終わってからノートをぱらぱら見ながら実に正確に講師の話を再現していました。「全然レベルが違うや」と脱帽しました。

この水準で学生はもちろん教えるほうも切磋琢磨するような環境でなければダメだと思います。日本の大学に対する評価は下がる一方でしょう。はいろうと思えば誰でも入れる大学なんて存在価値がありません。ましてや専門学校の滑り止めが大学なんていうケースが存在するにいたってはナンセンスです。それでも一定レベルに達していない場合卒業させなければいいのですが、実際はどんどん出してしまうでしょう。こんな大学は教職員が飯を食うためだけの学校で教育機関とはいいがたいです。そんな大学はつぶしてしまえ。そして受験生には「困る」体験が必要だと思います。3年でも4年でも社会に出て働いたらいいと思う。それで勉強の必要を感じてから受験すればいいと思います。

日本の価値観をひっくりかえして、いつでもその気になった時にはチャレンジできるシステムに変えましょう。今はタイミングを逃すと挽回できない社会です。それでは少子化の今、日本はどんどん衰弱してしまうと思います。社会人になってから10年くらいたってもその気があればハイレベルの教育を受けるチャンスがあり、それが生かせる社会にしないと。

| | コメント (0)

2007/12/20

年金問題のゆううつ

はっきり言って今の政治課題は年金問題なんかではありません。優先すべき問題がてんこ盛りなのに年金問題で内閣の支持率が大きく上下するのは情けない。如何に年寄りが政治を動かしているかの証明みたいなものです。少子化対策(これも年金の為に子どもを増やすんじゃ在りません)や教育の質向上(のためには教職員増員より存在価値のない無駄な大学の大幅淘汰による専門教育の質の担保が必要)や消費税率上げ、改革する気のない連中への補助金カットなどやって行かなきゃなりません。借金財政は持続不可能です。年金が欲しかったら改革に手を貸しなさい。国家財政による児童虐待を許さないで下さい。将来への投資のためには、もっと私たちの世代以下の年齢層が大声を出さなければ!

| | コメント (0)

2007/11/18

給費生制度

神奈川大学が給費生制度のポスターを電車に出しています。給費生でなくても、奨学金でも良いですが、学費が当座免除される制度はもっと拡げるべきです。やる気のある子はチャレンジして来るでしょう。自分から食らい付くファイトの無い子はその気になるまで放置したほうが本人の為だと思う。目的意識もなく、専門学校の滑り止めに大学行くなんてお金の無駄使いでしょう。

| | コメント (0)

2007/10/18

意味が無かった法科大学院

法科大学院の司法試験合格者が発表になりましたが、結果的には教育の中身より試験対策を如何にしたかが問われる結果になりました。法科大学院なんて意味ないじゃないか!そもそも大学院の前に大学の低レベル授業をなんとかして行かなきゃ!就職も大学で何をどう勉強したのかなんて問わないのだから。そうでなきゃ再来年卒の学生を今から青田買い出来る訳ないよ。

安くて良質の授業をしてくれて、しかも卒業したことに価値がある大学を作って欲しいです。今の私大の半分は存在価値が無いので、淘汰されてしかるべきでしょう。

| | コメント (0)