医療一般

2016/12/15

どこを見ているんでしょう

ある人が5年も診てもらっている医師から非常に厳しいことを言われました。同席していたわけではないので詳しいことはわかりかねますが、なにかデータに基づいた判断だったようです。

しかしその判断は内科的にどうのこうのということではなく、精神科的判断です。つまり体がどうこうということではなく、それなのに生きるモチベーションに響くくらいのことを言われたのです。それを今本人に言わなければならない必然性のない診断です。

その医師はいったい何を見ているんでしょうか。症状だけを見てその人の生きているバックグラウンド的なものは全く黙殺されているのです。

母が最初入院した大学病院には「病を見ずして人を見よ」という趣旨の創立者のメッセージが貼り出されていました。あれはいかに医者が「病だけ」を注視してしまうかを反面的に表していたのかもしれません。

自分も現在の主治医に不満を持ち続けています。実際問題患者一人当たり3~5分で決着をつけていかなければいけないほどの患者数をさばいているので仕方ないのかなと思っていました。また気持ちの行き違いがあったまま主治医を変えると、診療情報が引き継がれず障害者手帳や障害年金の診断書が不利に書かれるケースが多いことも頭にありました。

しかし・・・

自分がなぜそんなにあれこれやろうとするのか、というところを見ずに薬だけちょびちょび調整したって、過活動を修正していくのはムリ。自分はたくさんの人に会いたい、それでいろいろな話を聞きたい、それで心の肥やしを増やしたい、感謝の手紙を書きたい、それをできるだけ実現したいのです。それは単なる病気の症状としての過活動なのか?医師としては「何がこの人らしく生きる道なのか」を考慮して、一面的な判断を下すのを控えるべきだと思います。あるいはあるべき方向と本人の意思を整合させるための時間を取るなり、それができなければなんらかの補助的サポートを薦める必要があると感じます。

その必要をほとんど認めていないことが、主治医に不満を感じる点です。

かかりつけの内科の先生も歯科の先生もよくバックグラウンドを把握してくれているだけに、なおさら「どうして」という思いは強いです。内科の先生なんか、月一度10分はかかっていない診察でも、一度だけ同席した自分の父のことを忘れていないのです。

理不尽な話に触発されて、気持ちが昂ってしまいました。

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2010/04/06

進化するデイケア

今日、週2回に減りつつも通所している都内の精神科デイケアに行きました。以前もご紹介したように、最近このデイケアではエクセルで作ったワークシートを、精神保健福祉士の資格を持つ(先日までは仮免だったのですが、先日行われた試験で2人見事に合格しました)看護師さんたちが患者であるメンバーさんごとにカスタマイズして一種間の好不調を数字やグラフで記入してもらい、それを診察やカウンセリングの際にフィードバックしながら医師と患者双方で因果関係を確認し、次に生かすという作業をしています。これが画期的なことで、今年のデイケアにまつわる精神医学の学会(正式な学会名は分からないのですが、昨年は沖縄で行われたそうです。昨年はメンバーである患者自身が創意工夫しながら作り上げたレクリエーション的プログラムとデイケアスタッフ側で企画する啓発プログラムとのコラボレーションがうまくいっているという内容だったとか。メンバーである患者自身が役割を決めながら自主的に作っているレクリエーションは、他の教育機関でも十分通用するほど良く練られており、外部向けの啓発イベントでも大変好評です)での発表が予定されています。なんと今年は「べてるの家」がある北海道浦河町が会場なのだそうです。

ワークシートによる表やグラフを使った自己分析の取り組みだけでもすごいのですが、今日はさらにおどろきました。メンバーさんと看護師さんが買い物に出かけて「何だろう」と思っていると、帰ってくるなりみんながエプロン姿になり「どうですか?」と残っていた自分たち他のメンバーに言うのです。「は?」口をあんぐりあけていると、なんとデイケアのある医院の近隣にスペースを借り、喫茶店を始めるというのです!当初は内部の職員や患者の家族を対象(お客)として運営するそうですが、将来的に地域に開放することを視野にいれているようです。

自分がうつ病をわずらって模索をしていた10年くらい前、精神科医療でこんな試みが始まるとは予想だにしないことでした。当時から、そして今でも、多くの場合精神疾患は「隠すもの」であり続けたのです。地方によっては精神科に入院歴があるとなれば本人は社会的に抹殺され、親族にまで偏見の目が及ぶところがまだまだ多いでしょう。

自分の通所しているデイケアでは「東大病院のデイケアみたいな立派なことは出来ないけれど、街中のごく一般的な医院のデイケアでもこれだけできる」というような発表をするのだ!と、すごい意気込みです。実際、見た目は街中のごく普通の医院で、別のフロアには高齢者デイケアもあります。ここでできることなら他でも出来るでしょう。しかし先頭を切るのは、このありふれたデイケアということになりそうです。

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2010/03/17

ノロウイルス対策

ノロウイルスが流行していると、自分の通うデイケアでも注意喚起されました。「手洗い・うがいが大事です」とのこと。インフルエンザ予防と同様だなと思っていました。

日記もそうなのですが、リンクされているブログのなかに閉鎖されているものがあるので整理をかねて訪問してみたところ、以前お会いしたこともある慶応大学医学部の加藤眞三先生が管理しておられる医師のブログ集「MELIT」がまだいきていました。加藤先生のブログによると診察に訪れた感染性胃腸炎の患者6人中5人が「かき」を食べていた、しかも前日ではなく前々日だった、3人は生ではなくカキフライで食べていたとの記載があります。

もちろん「かき」そのものが危ないわけではありません。自分もかきは大好きです(お値段の関係で最近ご無沙汰ですが、年に何回かデイケアの食事ででることがあります)。いたずらに危険視するものではありませんが、よく加熱するのが大事なようです。詳しくは「メリット 加藤眞三先生」をご覧ください。

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2010/02/13

障がい者就労支援制度の全体像 その2

その1では中身に全く触れないままでした。

障害者自立支援法が出来るまでは、統合失調症などの障がいを抱えている人の就労先は授産施設か作業所しかありませんでした。これらは「福祉」の枠組みという建前があり、都道府県別の最低賃金以下の給料でもいいことになっていました。これは今でもそうです。ヤマト運輸の元会長だった故小倉昌男氏はその実態を「福祉を変える経営」(日経BP社 2003年10月)の中で指摘しています。そして1993年に保有していたヤマト運輸の株式のうち200万株(当時の時価で24億円)を拠出し「ヤマト福祉財団」を設立、役所の福祉制度のもとでは障害者は自立できないと福祉施設の施設長や職員を対象に経営セミナーを開くほか、「スワンベーカリー」という焼きたてパンの店を広島のタカキベーカリーと共同で立ち上げました。この「スワンベーカリー」は大変好評で業績もよく、今はフランチャイズで店舗を広げていますがフランチャイズ1号店が十条店(東京都北区)でした。スワンベーカリー十条店の取り組みは、今や多くの北区民に知られており、埼京線十条駅前に最近出来たNPOのカフェ&集会場でも朝の通勤客に焼きたてパンを販売して好評です。

しかし、そうした先進的な取り組みにも関わらず福祉施設のほとんどは未だに中身があまり変わっていません。が、障害者自立支援法はその状況を少し変えました。現在授産施設や作業所は公式の名称が次のように変わっています。

就労移行支援
就労継続支援A型
就労継続支援B型
自立訓練(生活訓練)
生活介護
地域活動支援センター
身体障害者通所授産施設
知的障害者通所授産施設
知的障害者通所更生施設
精神障害者通所授産施設
精神障害者小規模作業所

このうち上の3つが就労へのステップとして大きな役割を持っています。就労移行支援施設とは2年を限度に就労することが前提の福祉サービスです。この施設の運営主体は当事者一人当たり1日7828円の費用を受け取り就労に向けての訓練を当事者に施します。サービス内容は個々に応じてアレンジされます。そして2年以内にサービス利用者が就職し、5ヶ月以上就業が続くと運営主体と雇用企業に補助金が出る仕組みになっています。

この就労移行支援サービスは2年の限度があるため、生活リズムが整っていて毎日決められた時間に通所出来ることが要求されるらしいのです。自分の場合は次のステップというイメージです。

就労継続支援サービスは期間の定めのないタイプになります。A型は雇用契約となり法定最低賃金が適用になりますがB型は工賃契約で、事業(多くは内職のような一つあたり○銭という仕事です)収益に応じて通所者に分配されます。

これらのサービスを受けるためには利用料がかかります。就労移行支援の一日あたり7828円の費用は市町村が利用申請した当事者に対し現物支給する形になっています。ただし、費用の1割は自己負担なのです。通所すればするほど費用がかかる仕組みになっています。これが「自立支援ではなく自立阻害」と言われるゆえんです。世帯の所得に応じて減免制度があり、自分は一人世帯で障害年金生活なので上限は支払うのに問題ない程度の額ですが、何らかの理由で世帯分けできない場合、例えば夫婦の一方が利用者という場合はもう一方が生活を支えるために稼げば稼ぐほど費用負担の上限が高くなります。

分かりにくい話なので図を使いたいのですが、ブログに図を埋め込む方法を調べる余裕がなさそうです。今日のところはここまで。

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2010/01/22

苦悩する病院

苦悩する病院
済生会川口病院に行くとその都度新しい事があり、その仕組みや制度を導入せざるを得なかった病院関係者の苦悩を感じます。

今日行ったらなんと受付票に番号が打ってあり、窓口では名前ではなく番号で呼ぶというのです。プライバシー保護の為とはいうけれど、普通ならば人間として名前で呼ばれるのが尊重されている証でもあります。これは国や文化を問わないようです。それを敢えて番号で患者さんを呼ぶ事には院内でも相当議論されたことでしょう。

プライバシー保護のかけ声の向こうには孤立していのちの電話しか頼るあても無い人が大勢います。「時代」とくくって良いのか、何しろ大変生きづらいことです。

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2010/01/20

障がい者就労支援制度の全体像 その1

「そろそろ体調も安定して毎日通所できるようになってきたのでデイケアから一歩足を踏み出してみませんか」と主任看護師さんから提案をもらったのが11月。それから「とにかく動こう、情報を集めよう」とあちらこちら電話したり、足を運んだり、参考文献を読んだりしてきました。12月には実際に市にひとつはある(はずですが鳩ヶ谷市では設置予定がなく川口市のセンターが受けています)就労支援センターを訪問、面談し登録しました。そして「就労移行支援型」というサービスを受けるべく数箇所の施設を見学し、いよいよ今週から、ある支援施設へおためし通所をはじめました。

ここへ来るまでなかなか大変な思いをしました。「した」と過去形ではなくむしろ現在進行形です。一番大変なのは制度を勉強することでも、あちらこちらの施設へ足を運んで情報を集めることでもなく、「自分を知る」ことでした。

このブログでよく登場する「べてるの家」のソーシャルワーカー、向谷地生良さんは著書「安心して絶望できる人生」(生活人新書199 NHK出版 2006年)のなかでこんなふうに書いています。

 

精神障害を抱えて生きる苦労を繰り返す当事者を見ていると、その最大のテーマが「自分を知ること」において生じるジレンマにあることがわかります。
 実は、「自分を知る作業」というのは想像以上の苦しさを伴います。自分を知る作業がはじまるのはいわゆる「思春期」です。子どもから大人へと脱皮する作業は、人間という生き物が延々と繰り返してきた自然の営みであるはずが、いつの間にか「逸脱」や「病理」の世界として括られ、問題視されるようになってきました。(p21)

つまり、思春期にほとんどの人が成長のプロセスとして通る葛藤を、この年になって再度やっているようなものなのです。そして思春期の子どもたちが進路が思うように決まらずもんもんとしたり、自分の能力を思い知らされたりするのとほぼ同様、進路指導や面談を受けたりしています。年齢が違うだけでやっていることの根本は一緒です。いわゆる普通の「思春期の葛藤」は子ども時代にもっている「全能感」とでもいうようなさなぎの中から出て進学・就職その他の人生イベントを通して自分の限界を悟りゆく過程で起こるものです。しかし、この年代の「自分を知る葛藤」は「以前はこんなことも出来た、あんなことも出来た」という実績があるのでなおさら面倒だといえます。いい意味での自尊心すらずたずたにされ「こんなことすらできない自分」をいやというほど味わわなければなりません。これは精神障がいに限らず、身体障がいでも同様でしょう。屈辱的な気持ちすらするかもしれません。しかし、逆を言えば人々は年を取るにつれて社会的ステータスをもつのが順調と考えられている社会の中で、一度身ぐるみはがされて、「もう何も残っていないのではないか」という境地まで来たところに、家族・親類・友人・知人その他の人々が見捨てることなく「がんばれ、一緒にやっていこう」と言ってくれる。実は何も失っていなかったことに気づく。それは、社会的に順調に過ごしてきている人には決してわからない大事な気づきであり、ここをくぐり抜けることは本当の意味での「生きる力」を身につけることなのではないか、という気がしています。こういう類いのものですから「思春期」や「反抗期」の子どもに必要なのと同じような周囲のサポートが不可欠です。

就労支援制度の活用は、まずこの境地に来てからなのかもしれません。自分の今いるエリアには意欲と能力がかみ合わず空回りしている人が大勢います。「あせらず」という意味は、病気や障がいを再発させないということ以上に、意欲を空回りさせないことが大事で、そのためのプロセスをきちんと踏んでいくことが必要なのだ、という意味であるようです。

次の機会に支援制度の全体像を書いてみたいと思います。専門家以外に全体像をつかんでいる人はごく少数だと思いますので、上手に文章にして少しでもお役に立てるものになればと思っています。ぼちぼちいきますので、少々お待ちください。

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2009/06/27

医師は本当に不足しているのか

インドでホームステイをさせてもらったニラージュさん宅は奥さんが眼科医でした。自分の目が赤くなっているときなど、すぐ覗き込んでいました。この奥さん、コウシリャは以前単身赴任でカトマンズなどへ行っていたこともあるようですが、今は街の一番大きな病院に勤めていました。。しかし勤務医とはいえ、朝は自宅の家事をこなし、お昼にはいったん自宅へ帰って食事をし、夕方も早くあがって親類の結婚式の手伝いなどをしていました。

日本でも女医さんが大変増えましたが、勤務医の場合、仕事と家庭の両立はほとんど困難で多くがやめてしまうようです。医療の世界は日進月歩なので、一回現場を去ると復帰するのは相当難しいようです。これは女性に限らず、男性医師は宿直明けに通常の外来を数十人から百人こなしたりするのでしょう?こんな勤務体制でやっていくのが大変。勤務体制の大幅な見直しで家の用事と両立できるくらいの余裕ある勤務体制なら、現状に医師数でも不足していないのではないのでは・・・。どうなんでしょう?

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2009/03/19

常識を裏切る発想で生き延びよう

セブンイレブンが初めて出来た頃はその名の通り朝7時から夜11時までの営業でした。年中無休とこの営業時間、そして多店舗小口配送を実現するためにメーカーと店舗の間に物流センターを作り、無駄のない配送網を築いたのです。それが小売の常識をうちやぶり普及したのでした。これだけのことを成し遂げたのですから以前のセブンイレブンは偉大だったと思います。

今やそれがスタンダードになりました。でもセブンイレブンを始めとしたコンビニは利益を追求しすぎて膨大な食料品の廃棄ロスを生み、個店の店長やオーナーに殺人的な長時間労働を強いるようになりました。

貴重な食料を無駄にせず、人間的な働き方の出来る新しい小売りの形が求められている気がします。

これは小売り店に限らずあらゆる産業に言える事のように思います。インドの農村部に衛生的かつ人々の地位向上のため、様々な人々が一から産業を立ち上げているのを知るにつけ、日本でも女性や障害者など、弱者に優しい働き方でかつ弱者でも使いこなせる物や資源を無駄にしないサービスを考える余地がたくさんあるような気がします。 そこにこそ自分の生きる道を模索するべきでしょう。

自分がこの世を生き延びる為には、サポートを受けつつも自力で変革を起こすしかないのかなと思ったりします。

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2009/03/08

とても難しい「できるけれどやらない」

今年の自分の目標は「できるけれどやらない」です。なんじゃそりゃ?というかんじですか。

今までの自分は「自分でできることはやる」がモットーでした。そしてその結果として週に2日くらいは完全沈没(トイレしか行けないで寝たきり)の日が出ていました。それを何とかしようという意識は希薄でした。普通の人並みにできて当たり前で、結果として沈没する日があることが自分の「障害」ととらえていたのです。しかし昨年主治医が変わってからこの方針は積極的に直すように言われてきました。波をおだやかにすべきだ、そうでないと社会進出以前に日常のベースとなる生活ができないではないか。

そういわれても自分をセーブできない時間が長く続いていました。セーブできないことよりも人並みのエネルギーで活動できないことのほうが自分にとって大きな障害と考えていました。実際ひっぽの活動に参加するのはかなりのエネルギーを消費するので、ある程度テンションをあげないと、特に初対面の人が多いケースではこなすことができないです。基本的にやっていることは一緒なのですが、それでも初参加の地域ではどんな流れになってもついていく柔軟性が必要です。学校ではないので自主性がもとめられるからかな・・・。

先日買った「発達障害当事者研究」(医学書院 2008年)はアスペルガー障害(自閉症のひとつ)の当事者が、自分の感じている世界を言葉としてつむぎだした画期的な本で、日々をすごすことのどういうところが大変なのかがものすごくよく分かります。その執筆者があとがきで「しかし、家事、具体的には『買い物、炊事、洗いもの、片付け』、この四つは特に、情報を絞り込みまとめあげる作業そのものであり、(中略)私に多大な負担をかけるのである。それらの仕事を、わたしは決してできないわけではない。『ゆっくりていねい』でよければ、むしろ人よりうまくできるかもしれない。しかし日々の生活というのはそういうわけにはいかない。朝ごはんは七時一五分までに作らなければ家族が遅刻してしまう。(中略)母親が苦もなくこなしているのを見てきて、自分も当然できるのだろうと思っていたし、実際、自分もなんとかこなしていたので、実はそれが自分に多大なる負担をかけていることに気づかなかった」そうです。そこで「がんばればがんばるほどできる範囲は広がるし、『できるできない』の境界線があらかじめ引かれているわけでもない。だから『できるできない』の二択ではなく『できるけれどもどれくらいの負担が伴うか』と量的に伝えて『できるけれどもやらない』と周囲に伝えることが大事」とアドバイスを受けています。

長々引用しましたが、まさに自分の問題はこれだと思いました。「できる」からなんでも引き受けているのではダメで、「できるけれどこのくらい疲れるからやらない」という判断をつけること、それを周囲に伝えることが自分の本当のリハビリであり課題であると認識したのです。

こんなに小難しく納得させないと自分は動けない。頭でっかちといわれればその通りです。ただ前掲の本で「健常者と障害者、あるいは障害者どうしもスペクトラム(グラデーション)になっているので『同じでも違うでもない』という人と人との相互理解が必要だ」とあって、「なるほど、別に障害ととらえて小さくなる必要もないか」と思ったら、本当に自分の個性として伝えていく、それでも受け入れてくれる人たちともっとつながりたいと考えられるようになって、「できるけれどやらない」と周囲の人に言って休みながらこなすことに抵抗が薄れてきたような気がします。実践するのは難しいのですが、今年の新たなチャレンジとして取り組みます。

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2009/01/02

うつの発作

今日午後3時くらいまでは元気だったのですが、そこから気分が急降下。めったにないくらいの憂うつ気分に支配されてしまいました。メールを書いたり年賀状のお返事を書いたりしなければと思いつつまったく手につかず、鳥山敏子さんの「ワーク」の本を読んだり、性犯罪に巻き込まれた人の手記を読んだりしてますます絶望感が増してきていたたまれなくなってきてしまいました。「これはまずい」と思って、起きていることを日記に書き取って「これを診察のときに伝えよう」と思ったら少し楽になってきました。まだまだこういう発作みたいなものが突然やってくるんだなとびっくり。いつ買ったのやら小林美佳さんという方の手記がうちにあって、読んでいくと「自分とまったくではないけれど同じ」ところがたくさんありました。自分が人間として扱われていない感じ、それが昂じて自分を無価値に感じてしまう心境、犯人をどうこうするよりまず自分をケアしてほしいという切実な気持ち。とにかく周囲に自分が人間であることを認めて無条件に丸ごと受け入れてほしい。それがとても難しいのは周囲の無知のせいで誰も攻められない。

いたたまれなくなるまで読み込んでしまいました。こういう毒になる本は早く捨てろとまた主治医に言われるだろうなあ・・・なんておもうところまでなんとか落ち着いてきました。でもトラウマのない人は逆に読んでほしい本だと思いました。

重ねて書きますが、嫁姑問題というのは姑が自分の伴侶に男を感じられず自分の息子に男を感じることから生ずる三角関係なんですよ。心理的問題の影には往々にして性の問題がからんでいるようです。DVがこれだけ問題になっていて、でもまだまだ氷山の一角だと思われるし。性のことを知るというのは生き抜くための必須条件だと思います。心理学でこういう問題がよく取り上げられるのは当然といえば当然なのかもしれません。

ついでだから書きます。って、いうのがちょっと異常テンションだと自分で感じつつ書いちゃいます。たいしたことではないです。

自分はほぼ毎朝NHKラジオのラジオビタミンという番組を聞いています。その番組のインタビューコーナーにずいぶん前に出た作家で佐川光晴さんという方がいます。インタビューを聞いてその方の代表作だという「金色のゆりかご」という小説が読みたくなり、買ってしかし「積読」にしてありました。先ほどからこれを読んでいるのですが、舞台が与野ということもあって引き込まれています。高校三年生の女の子が望まない妊娠をして7ヶ月になり、胎盤剥離しそうになってコンビニに駆け込むところから物語が始まりますが、その主人公須藤まりあが子どもを生む気でいるのに世間体の大事な母親から、違法を承知で堕ろすか生まれた子を母に託して人の知るところとならない形で幕引きをはかることの2択を強要され、「まりあは、あらためて、自分が孕んでしまう性であることにおそれを感じ」てしまいます。日本の女性はそういう危険からあまりにも無防備なままにされていると感じます。「できちゃった」婚(最近はおめでた婚というそうですが)が世間的にほぼ容認されてしまって、ほんとうに怖い。最近どこぞのお医者さんが「生むって事は死ぬかもしれないということ」だとブログに書いたら大騒動になったそうです。でも赤毛のアンだって、アンが孤児なのは母親が体が弱く、アンをこの世に生み出すと同時に亡くなっているからだし(おとうさんもごく小さい頃に病気でなくなったことになっています)、アン自身も初産のとき命を危うくしています。最近妊婦のたらいまわしが問題になっていますが、その中には産科を一度も受診していないためにリスクが大きすぎて受けられない妊婦が多いのだとも聞きます。

命が大事だというのならば、こういうリスクを包み隠さず知らしめるべきです。性のことはタブーで、でも生まれた子を育てられないために熊本の病院に託すのは許せないなんて・・・!こういう倫理のゆがみがこの社会での生きづらさを助長しているように感じられてなりません。

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