やっとぴんとくる
なんだか、変なことを思い出した。
昔、国鉄のコンテナには「戸口から戸口へ」というキャッチフレーズが書かれていた。
小、中学生の自分にはピンとこないキャッチフレーズだったが、あれは当時大改革だったのだと理解できるようになった。
あの頃はまだ、コンテナ貨物は少数派。車扱い貨物といって貨車単位で運ばれることが多かった。当然貨車は道路を走れないので、物は駅へ運んで貨車に載せ、相手も駅まで引き取りに行かなければならなかった。
今のように道路優位ではない時代。荷貨物の運搬は鉄道によることが多かった。駅へ運んだり取りに行ったりするのを省くため、駅の脇に工場を作ってしまう会社もあった。今はアリオ川口などになっているリボンシティは、自分が鳩ケ谷に引っ越したばかりの頃はサッポロビール川口工場だったが、それは「戸口から戸口へ」がまだ一般的でなかった時代はとても合理的な立地だったわけだ。
自分が鳩ケ谷に来た頃は、もうトラック輸送が主体になっていたビール工場だった。が、それ以前に京浜東北線でわきを通ると原料を運ぶホッパー車という独特の貨車、そして製品を運ぶためのパレット専用貨車がたくさん止まっていたと思う。フォークリフトで貨物の積み下ろしができるパレット専用貨車が普及する前は手積みだった。
貨物だけではない。宅配便が普及していなかったので、荷物は郵便小包か鉄道小荷物で送られることが多かった。貨物同様駅まで持参し、駅まで引き取りに行っていた。小学生の自分は三郷に住んでいたが、三郷では当然荷貨物の扱いがない。もともと貨物線として計画された路線に申し訳程度に作られた駅。操車場はあったが、仕分け機能しかない。だから母の実家からブドウなどが届けられても、南越谷の貨物ターミナルにしか届かない。貨物駅ではあるが、引き渡し施設が無いので越谷駅まで引き取りに行かねばならなかった。新越谷駅が無かったので、南越谷駅から越谷駅までは歩くしかなかった。大変な時代だった。
「あまちゃん」を見ていると「1984年」という年がクローズアップされることがある。それがきっかけでこんなことを思い出すのかもしれない。
普段聞いているラジオを取りやめて「あまちゃん」の世界に没頭している。今年は新しい取り組みは何もしていないが、仕事がきつく感じる。片づけ作業はやめていないが、家に帰ってもそればかりやっていたら苦しくなるばかり。一時的にでもボケっとするために借りてきたDVDだが、これのおかげでなんとかしのげているという状況になっている。
夏の終わりごろに想定している「妄想トラベル」実現までは、つらいがなんとかしのいでいくしかない。
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