恋愛

2008/10/23

家族という闇

8月19日に「これが自分だった」という記事を書きました。あの時、実はあそこで終わらせるつもりではなかったのです。今更わざわざあんな記事を書いたのには訳があります。それは、どうも家族間の心理状態が子どもを傷つける、それが体に反応として出てくるというのが自分のいた家族だけの問題ではなく、もっと非常に多くの家族の中で起きていて、そのことが今の子どもたちにからだの反応として、アトピー、不登校、発達障害、リストカット、自殺未遂、親殺しなどといった一見不可解な現象として出てくるのではないか?と思ったからなのです。うちだけではない。それどころか、家族間に問題があってそれが生きづらさとして感じられるのではないかと気がついてカウンセリングを受けたり精神科に通ったりしている人たちが大勢いるのですが、それすら氷山の一角なのではないかと思えてきたのです。

買って読んではいないのですが、電車の中吊り広告の見出しによると今週の読売ウィークリーでは「自分の過去を消してしまいたい」という見出しで、父親や兄から性的暴力を受けた人の手記が載っているようです。小説の題材としてはこういうことありますけれど、私たちが生きているこの現実の中で「家族」という囲われた密室の中で同じような事がたくさん起きていて、多くの人が傷を抱えているのではないだろうか、それが心理に影響してセクハラ、モラハラが拒否できないようなことにつながったりしているのではないでしょうか。

女子中学生のセイコさんが、「お父さんの私を見る目が気持ち悪い。助けて」と思い切ったように手を上げました。「視線がジトーッとしているんです。わたしがお風呂に入ると、必ずその横の洗面所に来て、わたしをまるでお風呂に閉じこめているように、そこから三〇分たってもお父さんが動かない。また、私の服装に対してもきびしくて、からだの線が出るような服はチェックされるんです。学校の帰りにわたしが男の子と話していたとき、タクシーに乗っていたお父さんが見たらしくて、家に帰って強く叱られました。『どこの馬の骨ともわからない男とつきあうんじゃない』って。逆上したようにわけのわからないことをいうのです。わたしはお父さんがこわい。何をされるかわからない不安があるんです。

そのワークにはお母さんの佐知子さんも一緒に来ました。娘のセイコさんは側にいるお母さんの方を向いていいました。「お母さん、お父さんとうまくいっているの?」「うまくいっているわよ、何いってんの。」この話し方から二人が気軽に話せる関係になっている事がうかがえます。彼女はよく父親に殴られます。殴られている時に、お母さんの佐知子さんは助けてくれません。お父さんの後ろにいて、お父さんと一体になったように自分を見ています。
「父親は、娘が好きなんですよ。」
「佐知子さんはそのことをどう思っていますか。」
「父親として当然でしょう。娘をかわいく思うのは。」
「そうじゃないよ。かわいがってくれていないよ、お母さん。気持ちが悪いよ。」
娘のセイコさんが口をはさみました。
「お母さんは、わたしがお父さんにたたかれていても、私に味方しないじゃない。お父さんの方についてしまって。わたしはどうしてお父さんにたたかれなければならないの。」
「だってセイコがお父さんを怒らせるようなことをいうからよ。」
「でもわたしは自分が思っていることをいっているの。ちっとも私を信じてくれない。どうしてお父さんはわたしをあんなにたたくの。そんなお父さんをお母さんはどう思っているの。」
「愛しているわよ。」
「うそだ。もしそうだったらお父さんはもっとお母さんのことを考えてもいいんじゃない。」
「セイコにはわたしたち夫婦についてわからないことがたくさんあるのよ。二人の間ではわかり合っていることがたくさんあるのよ。わたしはお父さんを愛しているわよ。」
「それだったら、お母さんがこの前のように精神を病んで入院するような事もおきないんじゃないの。どうしてお父さんがわたしを殴る時に、お母さんは助けてくれないの。もういやだよ。」

セイコさんは母親の佐知子さんを追い詰めていきます。二人のやりとりをきいていると、佐知子さんは夫の心が娘のほうにいくことを恐れているのが伝わってきます。夫の気が娘の方ににいくと、自分が見捨てられるようで不安になるみたいです。そして夫が娘を嫌ってくれることで安心しようとしている。

おかしいでしょう?お父さんとお母さんはうまくやっているといっているけれども、「おかしい。とってもわたしにはうまくやれているように思えない。どうしてお父さんがわたしを殴る時に、お母さんはたすけてくれないの?もういやだ」。なんで自分の娘を殴る自分の連れ合いに対して、娘を守ることができないのか。お母さん自身が小さいとき同じような体験をしているか、愛されていなかったのです。本人の記憶になくても実際は、からだはひどい目にあっているのです。親に殴られたり、精神的暴力を受けた人が、やっと自分を愛してくれると思える人と結婚し子どもができた時、往々にして、連れ合いの心がたとえわが子のところであっても自分から離れて行かないように無意識に動いてしまうのです。愛されなかったさびしさは連れ合いの気持ちがまず一番に自分の方に向いていないと不安なのです。もちろん夫は夫で愛されなかった問題をもっていました。

夫婦の両方が、かつて愛されなかった傷をお互い癒し合う関係としてつながっているのが、外から見て一見夫婦睦まじく見えるけれども、どうも中身が怪しいのです。なぜ娘がジトーッと感じるようなそういう気持ちになるのか。

「『お父さんはそんなことないから安心しなさい』とお母さんがどんなにいっても、わたしは信じられない。あれは普通の状態じゃない」とセイコさんは泣き叫びながら、それを訴えてくるのです。この夫婦の関係は、子ども時代の傷をお互い癒すための、たとえばセックスであり、つながりであって、大人の女として、また大人の男としてのつながりではないのです。自分の内なる子どもを傷ついたままにしておくと、たとえ大人のふるまいをしていても成長はそこで止まっているのです。二人はお互いの傷をしっかりと自覚しないで、さびしさだけを補おうとお互いを求めて合っていますから、その行為がお互いの成長をうながす癒しになっていないのです。二人はお互いの保護者になってしまっているのです。ですから夫のもっている男としての欲求は、妻には求められず、自然と娘にいくのです。つまり娘を女としてみるわけです。

女たちは男に対して自分が本当に感じていることを語っていないように思います。セックスひとつとってみても、夫や男に本当に感じていることがいえず、多くの女たちは感じているように演技をしているのではないでしょうか。しかし中年の男や夫たちのからだは、露骨な欲求を事実として表現しているとわたしは思っています。それは、父親である中年の男たちの決して少数とはいえない人たちが女子中学生、高校生、大学生を買って遊んでいるという事実であり、そしてまた妻たちの多くが夫以外の男たちとセックスの関係を持っている事実です。人間として成熟している夫や妻ならできない行為でしょう。また、ワークが深くなってくると、「わたしは子どもの頃、実は父親に性器をさわられていた。小さいときにお風呂で洗ってくれている時にもさわられた。わたしはいやだというのに無理やりゴシゴシとやられた。」本当に性器を洗っているのなら、子どもは恐怖を感じないのです。父親の中にもっと別の感情が動いていることを小さなからだは無意識のところで敏感にキャッチしているのです。彼女にとってみれば、ただ「洗っている」じゃなくて、もっと違った無意識の女のからだへのセクハラ感覚で迫ってきているというのを、ゼロ歳、一歳、二歳の時から感じているのでしょう。だから父親の行為が信じられない。「よごれているから、きれいに洗ってやったんだ。」「違う。わたしが痛い、痛いといっても、お父さんはごしごしこすりつけてわたしを洗った。」「たしかにお前は、あの時痛い、痛いといっていた。」これが体の恐ろしいまでに正確な、理屈では表現できないすごさなのです。

「夜、お父さんとお母さんの間には弟が寝ていて、私はお父さんの隣に寝かされていました。毎晩お父さんが私の性器にさわってくるんだけど、私はこわくて声も出せず、お母さんにもこのことを言えませんでした。今もいっていないのです。」

本当に今もどんなにたくさんの小さな女の子が、いやもう中学、高校生にもなっている女の子が父親の性的虐待におびえていることでしょう。そして兄からの性的虐待についても然りです。とてもこんなおびえと不安とをかかえているからだの状態では、学校で深く学ぶということは不可能です。

じゃあ、こういう大人としての未熟さは男だけなのでしょうか。セイコさんの母親佐知子さんがワークの数日後手紙を送ってきました。
「先生、実はわたし、息子のからだに関心があるのです。息子がスッポンポンになってパーッと部屋の中を走っている。『まったくしょうがないわね、オチンチンぶらぶらさせて』と、わざとふざけた言い方をしているけれども、実はすごく息子のからだに関心があるのです。おかしいんでしょうか。」

彼女は女としての部分を夫に向けることができないわけですね。なぜなら、佐知子さんにとっては夫は自分を子どもの時に愛してくれなかった父親のかわりであり、夫からみれば妻は自分を子どもの時に愛してくれなかった母親のかわりなのですから。もちろん無自覚だとこのことは意識ではわかりません。このように夫と妻の両方がまだ子どもの頃から成長していませんから、双方が求めているのはその満たされなかった愛を埋めてくれる保護者なのです。彼女は夫とセックスをしていますので、男と女のセックスのつもりなのです。しかしからだは知っているのです。だから理屈ぬきに妻のからだは、目は、息子に男を求めてしまうのです。しかし、だれだってこんな状態になっていることを決して認めたくないのです。認めることは、自分と夫との関係を変えていくことを予感しているし、様々な関係のごまかしを直視しなければならなくなり、社会の枠の中から出てしまうことさえやりかねないのをからだは知っているからです。本当に子どもの時の傷をしっかりと癒して手当をしていないと、いっぱいいろいろな錯覚をするのです。そして、子どもをかわいがっているつもりでいるけれども、実際は子どもの親のつもりとは別の苦しいメッセージを受け取ります。

佐知子さんは、手紙の中で「おかしいでしょうか」と語っていますが、わたしはこのことが決してめずらしいことではないことを話しました。それは何万人もの苦しみのもとをたどるワークをしてきて、たくさんの「嫁と姑」の関係の問題にとりくんできたからです。「嫁と姑」の関係が昔よりよくなっていない事実に立ち会い、その問題の深さを感じてきたからです。「嫁と姑」の問題の根底にあるものは、多くは母親が長男と精神的結合状態にあるところからおきているように思えてなりません。自分の夫との関係をつくれない姑たちが自分の息子をとりこみ子離れできず、いかに深く同一化してしまっているかは驚くばかりです。こんな状態の中では、家庭内で嫁と姑がぶつかっても夫は「嫁」からみてもどっちつかず、態度のはっきりしないあいまいな人にしかならず、母親を気遣い、妻の苦しみを感じない夫にしかみえないのです。つくづくと「嫁・姑」問題を「男と女の性の視点」でとらえる必要を感じているのは、わたしだけではないでしょう。

こういう性的なものは、これから社会の中でどんどん問題になってくると思います。例えば女の人の場合に、小さいときにいたずらされた瞬間から、自分を大切に思えなくなり、とるに足らない価値のないもの、きたないもの、人を愛せないものに自らしていってしまうためです。

性的ないたずらを体験した娘たちは、みんな口をそろえて叫んでいます。
「私は恋愛ができない。恋愛してもいつもうまくいかなくなる。あのいたずらされた日から世界はカラーから白黒に変わった。」

これは前回の時も引用した「居場所のない子どもたち」(鳥山敏子著 岩波書店1997年2月)から、一節まるごとひっこぬいてきました。ここに書いてある事柄ですごく納得のいくことがあります。母親はたぶん自分のことを性的対象としてみていた事でしょう。仮にそうでなかったとしても、そのように自分が感じてずっといやだったことを思い出しました。具体的にどういうことがあったかはここではさすがに書けません。

これを読んで思い当たることがあった方は、ぜひこの本、鳥山敏子さんの本を読んでください。そして必要だと思ったらカウンセリングにかかってください。

自分は両親といるのがいやでいやで、だからしょっちゅう旅行に出かけ、休みもつぶしてワーカホリックに仕事をしていたのです。結果としてからだが限界点に達し「うつ病」というかたちで、周囲にも目に見える形で問題が表面化したのだと思います。しかし結果としてそれによって何回と無くカウンセリングを受け、ヒプノセラピーによって子ども時代をやりなおしまた傷にパッチを貼り、べてるの家と出会うことで「治らなくても良い」「人の為に生きるのではなく自分の為に生きる」「自分で自分を支えられないのに人を支えようとするのは、実は逆で自分が支えて欲しいからだ」など、さまざまな気づきを得ました。これは不幸中の幸いだったかもしれません。もしうつ病にいきつくところまでいかなかったら、鳥山さんがここに書いておられるような、典型的な「精神的母親・長男合体型」になっていて、好きな女性を愛する事も出来ず、自分のやりたい事もわからず、一人暮らしも出来ず、今自分が抱いているような夢を持つ事もままならず、子どもたちと育ち合うこともできなかったでしょう。本当に振り返ってみれば恐ろしい修羅場から抜け出してきたのです。

よく「こんなに明るい元気なうつ病患者はいないんじゃないの?」といわれますが、それは心理的なサポートを充分に受け、「自分が自分でいること」がこういうことなんだと気付きをもらえたからです。人を愛するということはどんな小さな条件をもつけず、丸ごとその人を受け入れる事。病気があろうと、障害があろうと、何があろうとです。それに気がつくことが出来たのはなんとラッキーな事でしょう。

精神科に通院している自分のほうが、こうした問題にふたをして社会的につくろいながら暮らしている多くの人たちと較べるとずっと精神的に健全なのではないかと思えてくるのです。この問題の根は深い・・・。

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2008/04/29

「婚活」の時代

「婚活」とはなんぞや?読んで字のごとく結婚するための活動・・・。就職活動を「就活」というのと対を成しています。この言葉を本にして出したのが「パラサイトシングル」「希望格差社会」などの言葉を生み出してきた社会学者山田昌弘氏であり、共著なのが白河桃子氏・・・白河氏は自分と同じ年代の未婚者がついつい買ってしまう週刊誌アエラに記事をたくさん書いている「少子化ジャーナリスト」です。

2人が書いている現実はすさまじいです。いまや「結婚」が生活必需品ではなく嗜好品になったとか、「結婚」したかったら自分磨きをはじめ相当の努力を強いられるとか、日本だけではなく世界中で異文化が近接する中で、相手に気を使える日本女性は国際的にもてているのに気が利かず押しの足りない日本男性は世界一もてないとか・・・。めためたです。

以前インドでも晩婚化が進んでいるという記事を書きましたが、ネットニュースで読んだはなしだと中国では日本でいわゆる「負け犬」女性が大挙出現しているのだとか。A女などと呼ばれて、学歴も経済力も仕事力もある女性が自分以上の男性を結婚相手として求めるので、結果そんな男は数えるほどしかいなくて結婚できないのだそうです。

自分が漠然と感じていた事柄がよく分析され的確に文章化されているのでうなりました。この本は通りがかりの本屋で偶然見つけたのですが、書店の売り文句曰く「今年の流行語ベスト10に選ばれること間違いなし」だそうですよ。山田氏が東京学芸大在職中に出す本としては最後だそうです。

この本を読んで、自分はもっとずうずうしくならないとダメだと思いました。ちょっとやりすぎて失敗したかなと思ったりしたのはそうではなかったことがわかりました。ちょっと断られたくらいで引いているようではいけません。

押しが強いだけではダメ。自分の優れている点を増やして自分からアピールしていくこと、それもさまざまな媒体、場所でやっていかなければ認めてもらえない。それとコミュニケーション能力が高くないとダメ。価値観が多様化した自分たち以下の年齢の人たちは、男女ともお互いの価値観をすり合わせる努力をしないとすぐ離婚に至るのですね。例えば昔なら母親のインテリアセンスに家族全員がはまっていくのが普通でしたが、自分のことを考えると狭くて汚い部屋ながらも自分の好きなデザインの布を使ってカーテン代わりにしたりしているし、食器にしろ寝具にしろ自分の心地よいデザインというものがかっちりできてしまっています。多くの人がそうでしょうから、そこのところをすり合わせる事からやらなければならないのです。しかも人間的成長とともに価値観や嗜好も変化していきますから、お互いがそれを自分自身で伝えて、その都度するあわせていかなければ結婚生活は持続しないのです。自分の親たちの世代には理解不能でしょうね。

本について
「婚活」時代 ディスカヴァー携書21 2008年3月1日発行 出版元ディスカヴァー・トゥエンティワン 本体1,000円

追記:この本はいわゆる新書版の体裁をとっていますが、中身に比して値段が極めて高いと思います。というか他の本が安すぎるんだろうなと思いました。岩波新書なんか安すぎる。でも安くても売れない出版不況の最中。だいたい新聞も読まない、本も読まない大学生や大卒があふれかえる時代ですからね。新書ではなくあえて「携書」と名づけているのは、携帯電話のように簡単に読めて持ち運べる適度な中身を意識しているのだろうかとおもいました。

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2008/01/07

安全でない家庭

新年のミサでベネディクト16世が出したメッセージではこのようなことを言われています。

男と女の結婚に基づく、いのちと愛の親密な交わりである自然な家庭は「個人と社会が人間らしくなる第一の場」であり、「生命と愛のゆりかご」です。それゆえ家庭を第一の自然な社会とすることは適切です。家庭は「人間の人格の生命の基盤となる、神の定めた制度であり、あらゆる社会秩序の原型です」

神が定めたかどうかは別にして、家庭が社会秩序の原型であることは疑いを入れません。

もう少し続けます。

実際わたしたちは、健全な家庭生活の中で、平和のいくつかの根本的な要素を体験します。すなわち、兄弟姉妹の間の正義と愛、両親が示す権威の役割、若さや高齢によって弱い立場におかれた成員に対する愛に満ちた配慮、生活に困った時の助け合い、進んで人を受け入れ、必要な場合はゆるす姿勢です。だから家庭は「なくてはならない第一の平和の教師」なのです。

確かにそうですが、皆さんの周りを見ても家庭生活がこのような理想的姿で運営されていないケースが多いとお感じになるでしょう。実際自分の育った家庭はこんな理想的なものではありませんでした。

それゆえ家庭内で暴力がふるわれることは、何よりも許しがたい事です。(中略)家庭は自然が若者のために準備した「巣」です。この「巣」以上に、若者が平和の本来の「味」を味わう事をゆっくりと学べる場があるでしょうか。家庭について語ることばが、平和について語ることばです。わたしたちは平和を語ることばを失わないために、つねに家庭からことばを学ぶ必要があります。さまざまなことばがあふれる中で、社会はたえず家庭の「文法」に耳を傾けなければなりません。すべての子どもは、ことばを覚える前であっても、母親や父親のまなざしとしぐさからこの「文法」を学ぶからです。

ここで言われる暴力のなかには言葉の暴力(セクハラモラハラ)も含まれるでしょう。

したがって、たとえ無自覚にであっても、家庭という制度を攻撃する者は、国内的な次元でも国際的な次元でも、共同体全体における平和を脆弱なものとします。

ここでいう「家庭という制度を攻撃する者」には、働く人を長時間拘束して彼らが親たる時間を奪う、人事管理がいい加減な職場も含まれると思います。

このメッセージはもっと長いものなのですが、読めば読むほど私たちが実際に生活を営む「家庭」との乖離が大きすぎて絶望的な気持ちになってきます。もちろんここにかかかれているような理想的家庭が多数派ではあると思います。しかし家庭より安全だからといって自ら児童相談所に飛び込んでくる子どもたちもいるくらいで、家庭が安全を保証していないケースは枚挙に暇がありません。そんな「危険な家庭」で平和がはぐくまれるわけがないと思います。特に両親のいずれか(多くは女性)がモラハラセクハラの犠牲になっているケースではなおさらで、母親が自分の安全のために子どもを危険にさらすことすら発生します。

日本で無差別殺人が頻繁に起こったり、カルト宗教に入信して身の安全を他人にゆだねたり、自分で自分の命を終わらせたりするケースが多いのは家庭での安全が担保されないから、そこに根本的な原因があるような気がします。但しこれは日本だけのケースではありません。世界的に見ると自分の身を犠牲にして社会秩序を混乱させるいわゆる自爆テロが人々の身近で頻発しています。自爆テロのようなことをする(洗脳されてしまう)人たちが平和な家庭とは縁遠い生活を強いられてきたのだろうことは容易に想像できます。平和な家庭の味を知っている人は、自分の命を差し出して人の平和な家庭を陥れるようなことはしないでしょう。

自分が日本の現状でとても心配している事。それは若い女性の異常な占い信仰です。たまに興味があって「アンアン」などを買って読むことがあるのですが、美しくなりたいという願望をくすぐる美容外科などの広告があふれているのは男性誌も同じで、年頃だったら仕方ないと思います。しかし占いに関する広告のボリュームの多い事にはホントびっくりするとともに考えさせられます。日本で普通に何にも考えずお嬢さん生活をすると、自分のことを自分で決められないようにさせられてしまうということでしょう。本気で自分の大事な人生を他人に、占いにゆだねてしまう。その結果自分で決められない女性のまま結婚してセクハラ亭主、モラハラ亭主の犠牲になってしまうのです。いかに自分で決める力を失っているか。それは「デートDV」なんてことが起こるほどです。結婚もしていない、いつ逃げようと思えば逃げられる恋人関係のうちにDVの犠牲になってしまうのです。愛情=束縛だと思ってしまう。違います。愛情とは相手をより自由に生きる事を容認するものです。なぜなら安心があるから。子どもが親の愛情を感じていればこそ行動範囲を広げていくことができるのと同じように、男女間の愛情もお互いの存在があるからこそ自分が自分らしく外へ活動範囲を広げていける、そういうものなのです。

デートDVに関しては別記事に書きます。セクハラモラハラは過去記事をご覧になってみてください。セクハラも普通に考えられている以上に多様なものがあるのです。

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2007/10/21

心の健康と恋愛

先月の今頃だったか、以前の勤め先の先輩と久々に飲む機会がありました。もうあまり会社のことを思い出したくないので以前の勤め先の人と会うのを控えていたのですが、久しぶりに話を聞いてもいいかなと思ったのです。以前の職場の人と会うと必ず当時勤めていた人たちの消息に話題が及びます。辞めた人、残っている人、出世した人、遠くに転勤になった人など色々な人の消息を聞きました。そのなかで、以前自分が付き合いかけた女性の話題が出ました。自分が辞める頃には別の人と付き合っていたので、もう多分結婚しているだろうと思っていたのです。が、転勤もせずとある店で6年以上勤め続けていて、どうも結婚した様子がないというのです。え~、余計なお世話だけどもう30代後半に突入しているじゃないか~。どうするのかなあと気になってしまいました。恋愛は別として、昔の話もしつつ、最近どうしているのか話してみたいなあと思いました。

でも、昔の事にどうしてもこだわりを持ってしまうのが男で、女性はひとつ物事が終わったらそのことはすっぱり忘れて次にいくという話も聞いているので、自分の消息なんかにはきっと興味がないだろうと思い直しました。

古い記事で男性と女性の指向の違いを書いたことがあります(鳩ヶ谷雑記:ミスマッチ)。あの記事を書いた頃は、自分と付き合うのには自分の病気に対する深い理解がないと難しいのではないかと思って、あえてうつ病だという事を書いていたものです。でも最近「別に病気のことなんか分からなくてもいいや」と思うようになりました。もちろん病状に対する理解はないと、今の自分とは付き合えないでしょう。でもどうしてうつを発症したかという流れや、しんどかった頃の話なんか分からなくてもいいと思うようになっています。そうでないと健康に問題もなく過ごしてきた人とは付き合えないでしょう。どうでもいい話だと思うようになりました。

だいぶ前ですがうつを発症している女性に「自分の気持ちも分かってもらえるかな」という期待をして、好きになることがありました。でもそれは先ほどの過去記事で空猫さんがコメントしてくれているように、それは叶わない恋になることがほとんど。気持ちは少なくとも元気でないとダメだろうと思います。お互いが元気で与え合える状態でないとダメ。そういう意味で心の健康って大事だなと思ったのでした。「助けて欲しい」と一方が思っている(あるいは両方が思っている)状態では共倒れしてしまいます。まず自分で自分のことが支えらるようになって、それからでしょう。

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2007/05/11

カウンセラーがかわりました。

自分は今でもカウンセリングを受けて、自分の心の中を整理しなおしていく必要があります。何回も書いていますが、この手の病気の場合人間関係やコミュニケーション方法などさまざまな面でこんがらがっていることが多いので、カウンセリングは必要な医療なのですが、現在は保険適用にならないため大体50分7000円~10000円を全額自己負担することになります。ぜひカウンセリングにも保険を適用して欲しいと思います。

ところで、自分はピースマインドというカウンセリング機関を利用していますが、先週からカウンセラーが変わりました。今までの山脇さんという方は自分が考えていくことに対していつも肯定のメッセージを与えてくださる方でずいぶん助けられたのですが、3月に父親が突然我が家に来たときの混乱以来、自分はなんとか親からの援助と介入を無くしたいと今まで以上に真剣に考えるようになりました。ところが話していくと、今のスタンスでもずいぶんよくやっているのですが、それ以上に親の援助と介入を防ぐというのは困難という結論になってしまったのです。既成の枠組みでは働けないことが大きなネックです。

今度自分の担当になった末松さんというカウンセラーは、以前スポーツ選手のメンタルトレーニングをされていた方です。最初は分野が違うのではないかと思っていたのですが、カウンセリングを受けてみると今の自分にとってはとてもあっていると感じられました。スポーツ選手はある目標(例えばフルマラソンを1時間10分で走るなど)に向けて普段のトレーニングをしていくわけですが、闇雲にやってもダメなんですね。目標に行くためには足を鍛える、肺活量を増やす、精神面を強くするなどというふうに大きな目標を具体的に分解して、それぞれに効果のアルトレーニングを重ねていくことが必要なのです。

この方法を応用するのが末松さんのカウンセリングです。親の介入をなくしたい→援助をきりたい→働かなければならない→時間で働くものはムリ→物書きはどうか、というところまできていたのですが、物書きをするならまず作品をつくらなければだめだよね、それも少なくとも100ページくらいのもの、そういう長い文を書くためには章立てをして起承転結をつけなければダメだね、そのためには事実に即して書かなければダメだね、すると取材も必要だよね・・・、という風にやるべきことを細かく分解してくれるのです。もうひとつ恋愛に関しても自分は母親の影響が強すぎて、甘えたいのに自分ががんばる形でしか付き合えなかったり、あるいは本気で相手に寄りかかったら相手がつぶれてしまうのではないだろうかと心配で、どうしても負荷を自分の手から離せないということがありうまく行きません。末松さんいわく、いつまでも親の影響とも言っていられないよね、どういう人が理想なんだろう、どういうだけだと抽象的に成りがちなので項目を作って、こういうことにはどういうスタンスの人が好き、別のことにはどういうスタンスの人という風に項目をつくってそれに対しての理想を細かく書き出してみよう、それをやってから人物像を練り上げてみよう、それならば抵抗なくいいパートナーシップがつくれるかも・・・という形でのアドバイスをもらいました。

こうして目標を分解して小さく分かりやすく達成しやすくすることで、一歩先へ進むのが楽になることがわかりました。今の自分にはこれがあっている気がします。少し「大変だな」と思うところもあるのですが、具体的な達成可能な目標になったからこそ「大変さ」も見えてきたのだと思います。ささ、どんな風に変わって行きますか、乞うご期待。

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2006/12/24

自分を掘るうつ

たぶんAC(アダルトチルドレン)が原因だと思うのですが、人とちゃんと恋愛をした事がないな、と思い返してしまいました。親に尽くす子ども時代だったので、今になっても恋愛みたいに相手と近い関係になる前に、「自分は相手の面倒を一生見なければならないのだろうか」と言う気持ちが先ずでてきてしまい、それにたいしてとても臆病になってしまいます。

親の面倒を一生見るのかと思って絶望していた10年位前の記憶がとても傷になっているのだなあと今日改めて思いました。たまたまmixiの「障害者だって恋がしたい」というコミュニティを昨日のぞいてみて、ハンディキャップを持っていても恋したいと積極的に考えている人たちの文章を読んだのですが、うーんと思い悩んでしまいました。相手も人間だし、関係性という意味では50対50だと思うのです。理屈で、頭でそう思っても、「自分をつぶすのではなく、自分を大事にしなければ、本当の自立ではないよな」と分かっているけれど、でもつらいそぶりを見せずに、相手の厳しい局面に一緒になってたとうとしてしまう。

本当は甘えたいのは自分なのに、甘えられない、相手をサポートすることでしかつながれない。そういう自分が見えて、今日はとても苦しいです。これは病気のせいか、それだけではないのか・・・先週のカウンセリングではバランスが大事だよと言われてきましたが、うーん。

いや、別にクリスマスうんぬんでそんなことを考えているわけではないのですが。やはり12月はいろいろと思い出されることが多くて厳しいや。

おっと、痛まないと思っていた大根がすっぱいにおいに。なんだかみんなうまくいかないような気がする。

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2006/10/30

成り行きに任せます

先日ヒッポの集まりの後、ちょっとした懇親会があって参加しました。最近自分は、自宅ではビールをほとんど飲まないし、金銭的な問題もあって厳選して参加しているので、本当に久々のビールでした。

ヒッポには家族で参加している人が多いです。当日東京の多摩地区から講演に来られたご夫婦の奥さんが自然と「奥さんはいないんですか?」と自分に聞いたので、「仕事している頃は出会いらしきものもあったけれど7年以上うつで仕事ができないでいる。男性で仕事ができないというのは、結婚などありえないでしょう。もう最近はずっと独身で行くと思っている」と話すと、「100%そうとも言い切れないのでは。ひょんなことから出会いがあるかもしれませんよ」とおっしゃいました。

話の流れでそう言うしかなかったのかもしれませんが、確かに自分の友人で、だんなさんが躁うつ病でかなり重く、全く働けない状態なのを「結婚して治療に専念させる」といって、両親の猛反対も構わず結婚してしまった人がいます。これは例外中の例外だと思っていましたが、何がどう転ぶか分からないというのも確か。結果として奥さんが主として働いている例も自分の知人友人には多いです。自分はヒッポに参加している地域の子どもたちを「甥っ子、姪っ子」のような感覚で見ています。子どもがいることで自分が育つ面って大きいなと感じています。身近に発想の違う人がいるのも、人生行き詰まらないためにはいいなとは思います。

ま、しかし現実問題として、病気が治らないことを前提に暮らす、自立することを懸命に模索している自分としてはけっこんするのは難しいでしょう。今の病人なりに充実した生活リズムを維持しながら、あとは成り行きで、そういうことがあればそれはそれで拒む必要もないのかなと、ちょっとだけ思いました。

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2006/06/22

ああ、勘違い

この記事、引用許可をもらう都合で書いてから間が空いています。読み返すとずいぶん恥ずかしいことを書いているなあと思いますが、まあのっけちゃいます。

最近、自分が読んでいるメルマガ2本でほぼ同じ内容のことが書いてありました。ひとつは「ピースマインド」のもの。「ピースマインド」は現在自分がかかっているカウンセリング機関で、東京から福岡までカウンセリングルームを持つ「大手」といってもいいようなところです。日経夕刊の火曜日にピースマインドのカウンセラーさんが交代でコラムを書いています。

中身は恋愛に関すること。実は恋愛のどきどき感と緊張した時のどきどき感というのはおなじものだというのです。その根拠としてこんな実験のエピソードが引いてあります。「1974年に発表されたカナダのダットンとアロンが行った生理・認知説のつり橋実験です。場所はカナダの大渓谷、キャピラノ川。ここの大つり橋を独身男性に渡ってもらいます。中ほどには若い女性が待っていて、ちょっとしたテストに答えてもらい、詳しいことを知りたければあとでここにと連絡先を渡します。このシチュエーションとは別に木橋でも同じ実験をしてみると、怖い大つり橋の上で手渡された男性の半数近くが連絡をし、木橋では1割程度という結果が出ています。」 詳しくはここをクリックして「『好き』を科学する」というコラムを選択してご覧ください。山脇さんというのはたまたま自分がかかっているカウンセラーでもあります。

これと同じことを、自分がにしまーと呼んでいる精神科のお医者さんがメルマガで書いてくれました。なんでモラハラをはじめDV(ドメスティックバイオレンス)にあうような相手と恋愛関係に陥るのかという話ですが、一緒にいると胸がドキドキするというのは、実は居心地が悪くて緊張しているだけなのだとか。恋愛経験が少ない人はこれを恋と勘違いしてしまうのだそうです。

このことを以前から知っていたら自分の人生は大きく変わったかもしれないなーと思いました。自分は恋愛経験の少ない部類に属します。20代前半までは(親の影響もあったでしょうが)たとえ好きとはいえ他人同士が一緒に暮らすというのが全然ぴんときていませんでした。自分の両親のようにいがみ合って過ごすのが夫婦というものというような漠然とした感覚がありました。その上高校が男子校で、大学も事情があって男女とも親しく付き合った友人足りえた人がごくわずかなのです。演劇もやっていましたが、ずっと自分が年齢的に一番下ということもあり「年上のお兄さん、お姉さんたち」という感覚で接していました。なので中学卒業してから会社に就職して同僚たちと遊びに行ったり酒を飲んだりして密な人間関係を結ぶまで恋愛とはほとんど無縁の生活をしていました。そんなわけで、25過ぎくらいから会社でドキドキするような人が現れると、「自分はこの人のことを好きなんだ」と「勘違い」していました。本当はいっしょにいて落ち着くような人もいたのに、目に入らなかったり相手から好きだといわれても拒絶したりしていました。

「ああ、勘違い」ですねえ。でも世の中にドメスティックバイオレンスなどの問題がこれほどたくさん起きて社会問題化しているのを見ると、自分みたいな勘違いをした人は本当におおいのでしょう。多くの人に「脳は意外に単純」だということを知らせたいものだと思いました。

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2006/05/01

もて力チェック

くだらないと思いつつ、ついやってしまうこの手の…一種の占いですかね。今回はDoblog総合病院のななこ先生がチャレンジしたものをやってみました。あまりにも現実と違う結果に「なんじゃこりゃ」と思う始末。チャレンジする方はこちら。なんちゃんの結果を見たい方はこちら

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2005/11/20

どきどき

今、とてもどきどきしています。自分はまた殻を割ってしまいました。

前の記事に書きましたように共同通信社会部元記者の横川和夫さんの本(「大切な忘れ物 -自立への助走- 」)を読んでいく中で自分の中で「ぷちん」とはじけたものがあります。それは「治らなくても良いや」という割り切りの発想でした。じつはこのはじけ方が衝撃的で、自分の中でひとつはじけるとそれが誘発して他の考えもはじけていくという連鎖を生み出していて、自分は混乱状態にあるのです。こういう体験は久しぶりです。

今までの自分の過ごしかたは「病気が治る」ということを前提にしたものでした。勉強をしたりしましたが、「病気なんだからだめでもともと」と思っていました。実際社労士の勉強では終盤やっていられなくなりリタイアしました。リタイアしてもそれは規定路線の範囲内だったのです。何しろ治らなければ何も始まらないわけですから、モラトリアムの時間に少しでもスキルを高めておこうという発想でした。結構それでも自分に負荷をかけながらやってはいたのですが・・・。その中で簿記2級と初級システムアドミニストレータの資格を取ることが出来たのは成果でもありました。特に簿記は経済に関する話題を理解するのに無くてはならないツールでした。

しかし横川さんの著書を読んでいるうちに自分の中で何かががらがらと音を立てて崩れていきました。横川さんの本には、不登校の子どもを「学校に行かせなければ落ちこぼれる」という発想のもとで学校に行かせようとしていた親が、「必ずしも学校は必要でない」ということに気づかされ、変わっていくさまを追っているところがあります。「必ずしも学校は必要でない」という発想が、自分の「必ずしも治らなくても良い」という発想につながりました。自分も「義務教育の学校に行かない」なんていうことを考えたことがありませんでした。しかし横川さんの本を読んでいくと、子どもが不登校になる原因は、実は学校の環境が悪くて子どもが本能的に自己防衛をしているのだということに気付かされます。それは原因のひとつなのかもしれません。しかしとても思いがけない理由でした。自分はそのことと自分のおかれた状況とをつなげて考えていました。本当に治らなければ何も出来ないのだろうか。このまま治らなければ自分のたくわえばかりでなく、本当は頼りたくない親の金も食いつぶしモラトリアムを続けるのだろうか。確かに「復帰」というスタンスで考えたら「治る」ことは最低ラインです。しかし6年にわたる闘病生活の中で矛盾を感じつつありました。病気になる前の姿だけが自分の姿なのか?発病前は崩壊家族の中でもがき苦しみ、逃避としてワーカホリックに走っていた部分だってある。あのときの100%の力に戻ることでしか自分は存在を認められないのだろうか?

それとは別に、自分がソーシャルワーカーという援助職を目指すことは、ACの連鎖で自分をつぶしながら親の代わりに誰かのケアをすることなのではないかと思えてきました。援助職を目指すという人生の道選びだけではありません。同じくうつになっているいとこのことに介入したりすることも同じ発想。はたまた恋愛感情のなかで「相手が生き生きとすごしてくれるためなら自分をつぶすこともいとわない」と思っている自分に気がつきました。そうではないだろう・・・、ケアを必要としているのは自分だ、満たされるべきは自分だ、自分が満たされないのにどうして相手のことが尊重できるだろうか・・・。恋愛でも仕事でも何でも、自分が自分をまず大事にしなくてどうして人のことを大事に出来るのか。そう思い至った時今度は別の考えがはじけます。自分は援助しようと思って人に近づきながら本当は援助されたがっていたのではないか。自分で自分をケアすることを怠り、人にケアしてもらおうとばかり思っていたのではないか。

ついこの間まで「自分が生きることで一人でも楽に生きられるようになれば、生きる価値がある」と思っていたのですが、これではだめです。「自分で自分を活かす」ことを考えなければ・・・。

これは、実は自立の一歩です。自分は今まで人に依存してきたのです。自分で自分を支えるという当たり前のことにいまやっと踏み出すのです。「自分をつぶして人に尽くす」というのは共依存関係そのものであることにやっと気がつきました。

だからどきどきしているのです。自分で自分をケアする、生かすという未知の事をしていかなければなりません。病気というハンデもあります。正直少々びくついています。

ゆっくり慣れていくしかないのでしょう。それこそ、これに気がつかなかったらずっとモラトリアム状態を続けていたわけで、そこから少しでも違う方向に体を向けることが出来ればずいぶんと違うものが見えてくるはずです。あせらずに、少しずつ「病気とともに生きる」(にしまるせんせは病気を人格化するのはクレイジーだといいますが・・・ってわからないですよね)「自分で自分をケアする」「自尊心を持つ」ということをやっていきます。ACは自尊心が低いといわれていたけれどこういうことだったんだ・・・やっと納得です。

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