家族という闇
8月19日に「これが自分だった」という記事を書きました。あの時、実はあそこで終わらせるつもりではなかったのです。今更わざわざあんな記事を書いたのには訳があります。それは、どうも家族間の心理状態が子どもを傷つける、それが体に反応として出てくるというのが自分のいた家族だけの問題ではなく、もっと非常に多くの家族の中で起きていて、そのことが今の子どもたちにからだの反応として、アトピー、不登校、発達障害、リストカット、自殺未遂、親殺しなどといった一見不可解な現象として出てくるのではないか?と思ったからなのです。うちだけではない。それどころか、家族間に問題があってそれが生きづらさとして感じられるのではないかと気がついてカウンセリングを受けたり精神科に通ったりしている人たちが大勢いるのですが、それすら氷山の一角なのではないかと思えてきたのです。
買って読んではいないのですが、電車の中吊り広告の見出しによると今週の読売ウィークリーでは「自分の過去を消してしまいたい」という見出しで、父親や兄から性的暴力を受けた人の手記が載っているようです。小説の題材としてはこういうことありますけれど、私たちが生きているこの現実の中で「家族」という囲われた密室の中で同じような事がたくさん起きていて、多くの人が傷を抱えているのではないだろうか、それが心理に影響してセクハラ、モラハラが拒否できないようなことにつながったりしているのではないでしょうか。
女子中学生のセイコさんが、「お父さんの私を見る目が気持ち悪い。助けて」と思い切ったように手を上げました。「視線がジトーッとしているんです。わたしがお風呂に入ると、必ずその横の洗面所に来て、わたしをまるでお風呂に閉じこめているように、そこから三〇分たってもお父さんが動かない。また、私の服装に対してもきびしくて、からだの線が出るような服はチェックされるんです。学校の帰りにわたしが男の子と話していたとき、タクシーに乗っていたお父さんが見たらしくて、家に帰って強く叱られました。『どこの馬の骨ともわからない男とつきあうんじゃない』って。逆上したようにわけのわからないことをいうのです。わたしはお父さんがこわい。何をされるかわからない不安があるんです。そのワークにはお母さんの佐知子さんも一緒に来ました。娘のセイコさんは側にいるお母さんの方を向いていいました。「お母さん、お父さんとうまくいっているの?」「うまくいっているわよ、何いってんの。」この話し方から二人が気軽に話せる関係になっている事がうかがえます。彼女はよく父親に殴られます。殴られている時に、お母さんの佐知子さんは助けてくれません。お父さんの後ろにいて、お父さんと一体になったように自分を見ています。
「父親は、娘が好きなんですよ。」
「佐知子さんはそのことをどう思っていますか。」
「父親として当然でしょう。娘をかわいく思うのは。」
「そうじゃないよ。かわいがってくれていないよ、お母さん。気持ちが悪いよ。」
娘のセイコさんが口をはさみました。
「お母さんは、わたしがお父さんにたたかれていても、私に味方しないじゃない。お父さんの方についてしまって。わたしはどうしてお父さんにたたかれなければならないの。」
「だってセイコがお父さんを怒らせるようなことをいうからよ。」
「でもわたしは自分が思っていることをいっているの。ちっとも私を信じてくれない。どうしてお父さんはわたしをあんなにたたくの。そんなお父さんをお母さんはどう思っているの。」
「愛しているわよ。」
「うそだ。もしそうだったらお父さんはもっとお母さんのことを考えてもいいんじゃない。」
「セイコにはわたしたち夫婦についてわからないことがたくさんあるのよ。二人の間ではわかり合っていることがたくさんあるのよ。わたしはお父さんを愛しているわよ。」
「それだったら、お母さんがこの前のように精神を病んで入院するような事もおきないんじゃないの。どうしてお父さんがわたしを殴る時に、お母さんは助けてくれないの。もういやだよ。」セイコさんは母親の佐知子さんを追い詰めていきます。二人のやりとりをきいていると、佐知子さんは夫の心が娘のほうにいくことを恐れているのが伝わってきます。夫の気が娘の方ににいくと、自分が見捨てられるようで不安になるみたいです。そして夫が娘を嫌ってくれることで安心しようとしている。
おかしいでしょう?お父さんとお母さんはうまくやっているといっているけれども、「おかしい。とってもわたしにはうまくやれているように思えない。どうしてお父さんがわたしを殴る時に、お母さんはたすけてくれないの?もういやだ」。なんで自分の娘を殴る自分の連れ合いに対して、娘を守ることができないのか。お母さん自身が小さいとき同じような体験をしているか、愛されていなかったのです。本人の記憶になくても実際は、からだはひどい目にあっているのです。親に殴られたり、精神的暴力を受けた人が、やっと自分を愛してくれると思える人と結婚し子どもができた時、往々にして、連れ合いの心がたとえわが子のところであっても自分から離れて行かないように無意識に動いてしまうのです。愛されなかったさびしさは連れ合いの気持ちがまず一番に自分の方に向いていないと不安なのです。もちろん夫は夫で愛されなかった問題をもっていました。
夫婦の両方が、かつて愛されなかった傷をお互い癒し合う関係としてつながっているのが、外から見て一見夫婦睦まじく見えるけれども、どうも中身が怪しいのです。なぜ娘がジトーッと感じるようなそういう気持ちになるのか。
「『お父さんはそんなことないから安心しなさい』とお母さんがどんなにいっても、わたしは信じられない。あれは普通の状態じゃない」とセイコさんは泣き叫びながら、それを訴えてくるのです。この夫婦の関係は、子ども時代の傷をお互い癒すための、たとえばセックスであり、つながりであって、大人の女として、また大人の男としてのつながりではないのです。自分の内なる子どもを傷ついたままにしておくと、たとえ大人のふるまいをしていても成長はそこで止まっているのです。二人はお互いの傷をしっかりと自覚しないで、さびしさだけを補おうとお互いを求めて合っていますから、その行為がお互いの成長をうながす癒しになっていないのです。二人はお互いの保護者になってしまっているのです。ですから夫のもっている男としての欲求は、妻には求められず、自然と娘にいくのです。つまり娘を女としてみるわけです。
女たちは男に対して自分が本当に感じていることを語っていないように思います。セックスひとつとってみても、夫や男に本当に感じていることがいえず、多くの女たちは感じているように演技をしているのではないでしょうか。しかし中年の男や夫たちのからだは、露骨な欲求を事実として表現しているとわたしは思っています。それは、父親である中年の男たちの決して少数とはいえない人たちが女子中学生、高校生、大学生を買って遊んでいるという事実であり、そしてまた妻たちの多くが夫以外の男たちとセックスの関係を持っている事実です。人間として成熟している夫や妻ならできない行為でしょう。また、ワークが深くなってくると、「わたしは子どもの頃、実は父親に性器をさわられていた。小さいときにお風呂で洗ってくれている時にもさわられた。わたしはいやだというのに無理やりゴシゴシとやられた。」本当に性器を洗っているのなら、子どもは恐怖を感じないのです。父親の中にもっと別の感情が動いていることを小さなからだは無意識のところで敏感にキャッチしているのです。彼女にとってみれば、ただ「洗っている」じゃなくて、もっと違った無意識の女のからだへのセクハラ感覚で迫ってきているというのを、ゼロ歳、一歳、二歳の時から感じているのでしょう。だから父親の行為が信じられない。「よごれているから、きれいに洗ってやったんだ。」「違う。わたしが痛い、痛いといっても、お父さんはごしごしこすりつけてわたしを洗った。」「たしかにお前は、あの時痛い、痛いといっていた。」これが体の恐ろしいまでに正確な、理屈では表現できないすごさなのです。
「夜、お父さんとお母さんの間には弟が寝ていて、私はお父さんの隣に寝かされていました。毎晩お父さんが私の性器にさわってくるんだけど、私はこわくて声も出せず、お母さんにもこのことを言えませんでした。今もいっていないのです。」
本当に今もどんなにたくさんの小さな女の子が、いやもう中学、高校生にもなっている女の子が父親の性的虐待におびえていることでしょう。そして兄からの性的虐待についても然りです。とてもこんなおびえと不安とをかかえているからだの状態では、学校で深く学ぶということは不可能です。
じゃあ、こういう大人としての未熟さは男だけなのでしょうか。セイコさんの母親佐知子さんがワークの数日後手紙を送ってきました。
「先生、実はわたし、息子のからだに関心があるのです。息子がスッポンポンになってパーッと部屋の中を走っている。『まったくしょうがないわね、オチンチンぶらぶらさせて』と、わざとふざけた言い方をしているけれども、実はすごく息子のからだに関心があるのです。おかしいんでしょうか。」彼女は女としての部分を夫に向けることができないわけですね。なぜなら、佐知子さんにとっては夫は自分を子どもの時に愛してくれなかった父親のかわりであり、夫からみれば妻は自分を子どもの時に愛してくれなかった母親のかわりなのですから。もちろん無自覚だとこのことは意識ではわかりません。このように夫と妻の両方がまだ子どもの頃から成長していませんから、双方が求めているのはその満たされなかった愛を埋めてくれる保護者なのです。彼女は夫とセックスをしていますので、男と女のセックスのつもりなのです。しかしからだは知っているのです。だから理屈ぬきに妻のからだは、目は、息子に男を求めてしまうのです。しかし、だれだってこんな状態になっていることを決して認めたくないのです。認めることは、自分と夫との関係を変えていくことを予感しているし、様々な関係のごまかしを直視しなければならなくなり、社会の枠の中から出てしまうことさえやりかねないのをからだは知っているからです。本当に子どもの時の傷をしっかりと癒して手当をしていないと、いっぱいいろいろな錯覚をするのです。そして、子どもをかわいがっているつもりでいるけれども、実際は子どもの親のつもりとは別の苦しいメッセージを受け取ります。
佐知子さんは、手紙の中で「おかしいでしょうか」と語っていますが、わたしはこのことが決してめずらしいことではないことを話しました。それは何万人もの苦しみのもとをたどるワークをしてきて、たくさんの「嫁と姑」の関係の問題にとりくんできたからです。「嫁と姑」の関係が昔よりよくなっていない事実に立ち会い、その問題の深さを感じてきたからです。「嫁と姑」の問題の根底にあるものは、多くは母親が長男と精神的結合状態にあるところからおきているように思えてなりません。自分の夫との関係をつくれない姑たちが自分の息子をとりこみ子離れできず、いかに深く同一化してしまっているかは驚くばかりです。こんな状態の中では、家庭内で嫁と姑がぶつかっても夫は「嫁」からみてもどっちつかず、態度のはっきりしないあいまいな人にしかならず、母親を気遣い、妻の苦しみを感じない夫にしかみえないのです。つくづくと「嫁・姑」問題を「男と女の性の視点」でとらえる必要を感じているのは、わたしだけではないでしょう。
こういう性的なものは、これから社会の中でどんどん問題になってくると思います。例えば女の人の場合に、小さいときにいたずらされた瞬間から、自分を大切に思えなくなり、とるに足らない価値のないもの、きたないもの、人を愛せないものに自らしていってしまうためです。
性的ないたずらを体験した娘たちは、みんな口をそろえて叫んでいます。
「私は恋愛ができない。恋愛してもいつもうまくいかなくなる。あのいたずらされた日から世界はカラーから白黒に変わった。」
これは前回の時も引用した「居場所のない子どもたち」(鳥山敏子著 岩波書店1997年2月)から、一節まるごとひっこぬいてきました。ここに書いてある事柄ですごく納得のいくことがあります。母親はたぶん自分のことを性的対象としてみていた事でしょう。仮にそうでなかったとしても、そのように自分が感じてずっといやだったことを思い出しました。具体的にどういうことがあったかはここではさすがに書けません。
これを読んで思い当たることがあった方は、ぜひこの本、鳥山敏子さんの本を読んでください。そして必要だと思ったらカウンセリングにかかってください。
自分は両親といるのがいやでいやで、だからしょっちゅう旅行に出かけ、休みもつぶしてワーカホリックに仕事をしていたのです。結果としてからだが限界点に達し「うつ病」というかたちで、周囲にも目に見える形で問題が表面化したのだと思います。しかし結果としてそれによって何回と無くカウンセリングを受け、ヒプノセラピーによって子ども時代をやりなおしまた傷にパッチを貼り、べてるの家と出会うことで「治らなくても良い」「人の為に生きるのではなく自分の為に生きる」「自分で自分を支えられないのに人を支えようとするのは、実は逆で自分が支えて欲しいからだ」など、さまざまな気づきを得ました。これは不幸中の幸いだったかもしれません。もしうつ病にいきつくところまでいかなかったら、鳥山さんがここに書いておられるような、典型的な「精神的母親・長男合体型」になっていて、好きな女性を愛する事も出来ず、自分のやりたい事もわからず、一人暮らしも出来ず、今自分が抱いているような夢を持つ事もままならず、子どもたちと育ち合うこともできなかったでしょう。本当に振り返ってみれば恐ろしい修羅場から抜け出してきたのです。
よく「こんなに明るい元気なうつ病患者はいないんじゃないの?」といわれますが、それは心理的なサポートを充分に受け、「自分が自分でいること」がこういうことなんだと気付きをもらえたからです。人を愛するということはどんな小さな条件をもつけず、丸ごとその人を受け入れる事。病気があろうと、障害があろうと、何があろうとです。それに気がつくことが出来たのはなんとラッキーな事でしょう。
精神科に通院している自分のほうが、こうした問題にふたをして社会的につくろいながら暮らしている多くの人たちと較べるとずっと精神的に健全なのではないかと思えてくるのです。この問題の根は深い・・・。
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