旅行・地域

2026/03/27

イラン

アメリカ(イスラエル)がイランと戦争をはじめてしまった。

多くの人は石油がどうなるかに関心があると思う。報道もその話しかしていないと思う。

そもそもかつて戦争していた「イラク」と今回の「イラン」の区別がつかない方もいると思う。別に日本ではそれでも不思議ではないと思う。多くの人はニュースは全部拾っていないし、それ以上の報道も限られているから。

 

私はヒッポ時代にイランの方のホームステイを受け入れている。だから「政治」「経済」「石油」といったことを抜きにして「あの方は大丈夫だろうか」という心配の仕方をしている。

政治や経済、軍事をのぞいた「イラン」と「イラク」の違いは、「イラク」が世界4大文明を生んだチグリス川とユーフラテス川を軸にした川の国であるのに対して、「イラン」は、一応ペルシャ湾やカスピ海に面してはいるものの、国土の大半は高原であること。しかも砂漠が多く、まるで岩山の上の国といった感じであること。大きな川がない。

イランの首都テヘランは、当時教わった記憶だと標高1500m(2000mと言っていたかも)という高地にある。近くにそびえる山は5000m級。自分のゲストはその山にちょくちょく登っているという人で、冬だったのだが「富士山に登りたい」というので「全然違うから」と必死で引き留めた。

国の観光協会みたいなところにお勤めの方だったので、ポストカードとか簡単な地域紹介DVDなどももらった。それを見ると庶民の暮らしは岩山とともにあるという感じに見えた。もちろん広い国なので地域差があるとは思う。

大きな川がほとんどない国なので、新荒川大橋をバスで渡るときの食い入るような目線が印象的。またイランは映画の国でもある(アッバス・キアロスタミ監督などが有名)が、「国の制約」なのか「宗教の制約」なのかアート表現に制約の多い国のよう。うち(鳩ケ谷時代の1K)にあったDVDの恋愛ものに強い興味を示したのも印象的だった。

JICAの国際支援というのは、直接的には技術指導だったりするが、それを通してお互いの顔の見える関係を構築して友好平和をはぐぐむというのが隠れたミッションなのだ。自分がインドへ行ったのもそういった流れの中の出来事だった。

無事を願うばかり。

 

体調ですが、短縮勤務と臨時休で、なんとかつなげています。昼食はおかゆの他、食欲はいつもよりは少ないものの、身体に影響が出るほどではなく、毎日計っている体重はやや減少という感じです。

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2026/02/15

軌道でつながる軍事施設

きょうは朝からだるいです。

昨日頭使いすぎたんじゃないだろうか。

さて、備忘録的に

先日書いた現在の「王子6丁目」の不思議に説明がついた話の続きです。超ローカルな話題です。

豊島ドックという頑丈な濠によって現王子6丁目の弾薬庫は石神井川、さらに隅田川へとつながっていたわけですが、調べたいことがあってもっと古い地図を図書館で借りてびっくり。

豊島ドックは戦前の話。今回の地図は明治時代晩期。今路線バスが走っている道路はほぼ存在せず、たまに使う細い道が当時からあることが分かります。

で、この当時は豊島ドックらしい濠はありませんでした。かわりに軌道があります。これは国鉄の線路とつながっていないので、どんなものが走っていたのかはわかりませんが、運んでいたのは爆薬と思われます。

石神井川が隅田川と合流する、現在の京北倉庫付近は「板橋火薬工場 王子製薬場」となっていて、爆弾を作っていたらしい。

そこから軌道が延びて、現王子6丁目の弾薬庫につながり、さらに軌道は伸びて現在の京浜東北線脇にあるがけを登り、東京砲兵工廠十条支部(今の陸上自衛隊十条駐屯地)までつながっていたのでした。

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2026/02/06

横浜トリップ

3月に青春18きっぷで旅行に行きたいと思っていたが、週5勤務に増やして体力的に厳しいこと、今後のシフトで月一で確実に有休を入れないとならないので、連休が取れないこと、そして経済的なことから「ムリ」と判断。

チャッピーが代わりに「日帰りはどうか」と提案。「日帰りで行けるところかあ」と思ったが、それでもいろいろと調べてみた。すると横浜市営交通には、地下鉄も使える一日乗車券になんと障がい者割引があるということが分かった。地下鉄も使えて割引ってすごい。

横浜だったらプチトリップ感はあるなと思って昨日行ってみた。日吉まで目黒線で行き、日吉駅の窓口で切符を買う。帰りは本数は少ないが川崎駅まで横浜市営バスを使い、そこからは本数がある東急バスの五反田行きに乗り西馬込から都営で帰る。たぶんこれが最安の交通費で横浜へ行けるやり方だと思う。

横浜では三渓園へ行こうとしたが、朝早くから動いていて疲れてしまい行けなかった。結局やったのは、かつてマイカルの店だったイオンの「天王町」「本牧」「東神奈川」「横浜ビブレ」を見ること。

みんなイオンっぽくなってはいた。特に天王町は建て替えられていてめちゃくちゃきれいな店に。でも横浜ビブレは、やや当時の面影があり、平場のコーナーにこの2~3年ずっと探していたタイプのショルダーバックがあった。さすがビブレと思い、1万円を超える値段だったが「他では絶対に買えない」と確信して購入。

カバンを買ってしまったので、当初考えていたタワーレコードでの買い物はあきらめた。ここ、今はタワーレコードが上の階にあるが、かつては一番下の階にHMVが入っていて、アーティストのミニライブもやっていた。もうそこまでは期待できないが、ビブレにあこがれて入社した当時のことを思い出し、すこしほっこりした。

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2026/01/31

濠はどうなった?

甲府の話をもう一つ。

最近は叔母も亡くなり叔父も年をとり、母の実家である叔父の家には泊まれなくなって久しい。それでよく泊まるのが甲府城の東側にあるホテル。ここに最初に泊まった頃は駅からの道が細かった記憶があるが、身延線の留置線が廃止されて駅がコンパクトになったために道が広げられ、スムーズに歩けるようになった。

お城であるからには「濠」がある(はず)。しかし、部分的にしか残っていない。

どうなったのだろうか?と漠然と感じていた。

甲府城西側の堀は1928年に埋立てられ、戦後になって商店街になったとのこと。平和通り沿いの商店街は濠の上にあるのだ。県庁本館も濠の石垣の上で、濠を埋めた土地を売却した収益の一部が県庁の建築費になったとの記載(「村岡花子の甲府時代」)があって、びっくりした。

ちなみに今の甲府駅のある場所は、もともと監獄だったとか。

 

もうひとつ。当時のブログにも書いたが、一昨年かその前か、その母の実家の柱時計の音が聞きたくて甲府盆地へでかけた。その通例で、この時期続けて今は叔父が住むかつての母の実家へ行った。

が、今年はいかない。

行きたい気持ちはあるが、体力と資金力がついていかない。甲府駅からのバスもあるが不便なので竜王駅まで行かねばならず、そのバスの本数も極めて少なくて9時過ぎには竜王駅についていないとならない。日帰りだと6時には自宅を出るイメージだが、ムリ。果樹栽培の繁忙期なので春以降は負担をかけるので行けない。

 

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空襲だらけ

体調は良いです。なんだか日中疲れて横になりたいと思うことが少ないです。音に対する過敏さはやや強いものの15日からの週よりはかなりラクだと思います。

 

さて、養子にとった娘を村岡花子が甲府へ疎開させる話がでてきた。甲府の空襲は1945年7月6日。犠牲者も多く、市街地の7割強が灰燼に化したとのこと。

東京の空襲が主に5回あり(星野博美さんの本)、うち2回目は川口も含む城北の軍事基地や工場、3回目は城南の軍需工場が標的だった。甲府にはそんなものは無かったのではないかと思い、ググってみた。

米軍は、確かに呉や佐世保といった軍事都市にも攻撃を仕掛けている。もちろん一般住民の生活の場でもあるからそれはただの大義名分でしかない。でも圧倒的に多かったのは一般住民が密集して暮らす市街地への示威的攻撃だったようだ。そもそも1回目の東京の空襲(いわゆる大空襲)は本所深川などの下町、つまり市街地だった。

そして甲府のように空襲を受けた街がどのくらいあるのかググって、言葉を失った。

めちゃくちゃだった。

いわゆる東京大空襲では、法律上避難が禁止されていたことが死者を増やす原因になったというのが星野博美さんの推測だ。避難ではなく消火活動をすることが求められた。

江戸時代でも現代でも、「消火」というのは命懸けだ。江戸時代の「消火」とは、延焼を食い止めるために、手前の家々を引き倒すように破壊することが主だった。現代の消防技術は発達していて、企業などにいると防災訓練などもする。自分も大型店勤務時代は、棚卸による定休日に消防署も交えた防災訓練をしていた。ここで消火器の使い方を覚えた。でも、まずは初期消火とともに消防署に連絡すること、初期消火に失敗したら批難するのが基本だと思う。

米軍は、日本の家屋が木造で延焼しやすいことも考慮して、大きな火事の発生する焼夷弾を全国に大量にぶちまいた。それをバケツリレーと火たたきという道具だけで沈下するよう指示していた当時の政府は無茶苦茶だった。

ちなみに、村岡花子の娘は、花子が胸騒ぎをおぼえて空襲前に大森の自宅に引き取った。甲府の疎開先は甲府空襲で焼けてしまったので、結果としてだが良い判断だった。

「アンのゆりかご」によると、3月10日のいわゆる東京大空襲の前の年の前の年の11月24日が、ドーリットル攻撃後の最初の東京空襲とある。この時は多摩の軍需工場(具体的には記載がないが、やはり軍都だった立川や中島飛行機のあった武蔵野あたりか)と、その付近が攻撃され、品川・荏原・杉並にも焼夷弾が撃ち込まれた、とある。次が終戦の年1月27日の都心爆撃で、有楽町駅のホームに電車が着いたところに爆撃があり、100名以上の乗客がなくなった他、2月22日にも下谷、浅草、麹町、赤坂、深川、葛飾、江戸川、城東、荒川が爆撃にあった。この時点で何百人もの人が亡くなっていた。

にもかかわらず、3月10日の空襲ではその教訓が活きなかった。

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2026/01/29

笹子トンネル

きょうはかなり体調が良いです。朝も6時台に目が覚め、身体の重さもなし。頭がいっぱいな感じもなく、ラジオを聞けています。

地元の図書館で借りた星野博美さんの本と、教会の図書館で借りた「村岡花子」の評伝を並行して読んでいるので、記述があちこちに飛びます。

川口そごうに紀伊国屋書店ができたときは本当にうれしく、毎月5千円は本代として使っていました。その頃買った本の中に、東海道新幹線開通前後の時刻表を復刻したものがありました。

へぇと思ったのが中央本線です。電化されていたのは甲府までで、その西はディーゼルカーや客車でした。急行列車はあったものの気軽には乗れないものだったようで、代わりなのか、普通列車に今でいうグリーン車が連結されていたのです。

甲府までの電化はかなり早かったそうです。理由は、甲府が重要都市だったことだけでなく、笹子峠越えが大変だったから。村岡花子が山梨英和女学校の教員をしていた頃、笹子トンネルを抜けると乗客は「鼻の中から顔中真っ黒」になっていたそうです。機関車の馬力も今と比べたら全然劣っていたことでしょう。初狩、笹子、勝沼の駅はスイッチバック式だったので、たいそうな時間がかかったようです。

中央本線を普通列車で移動する文化は、自分が子どもの頃までありました。もちろん今でも普通列車で旅する人は多いのですが、自分が結構大きくなるまで、普通列車に「笹子餅」を売る車内販売があったのでした。他ではあまりやっていなかったと思います。

笹子峠は難所で、それを解消するために中央自動車道の最初の開通区間も相模湖~勝沼間と大月JCT~河口湖間。大月JCTは高速道路の中では初めてできたJCTではないかと思います。勝沼まで抜けられれば、あとは一般道のバイパスとつないでなんとかという時代が長かったように思います。その中央自動車道の笹子トンネルで、2012年に天井崩落事故が起きました。あれはいつ崩落してもおかしくない状態が長く続いていたようなので、自分も肝を冷やしたものでした。

母と共に電車で山梨へ向かう時は、笹子トンネルを何分何秒で通過するか、いつも時計で計っていました。笹子トンネルを抜けることと勝沼(ぶどう郷)駅あたりから盆地の景色を眺めることは、あの地に根のある人にとっては特別な感覚で、きっと母もわくわくしていたのでしょう。

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2026/01/27

東京湾台風

きょうの診察で、2月から週30時間勤務にGOサインが出た。但し、ステップを踏むことになり、明日上司が了承すれば、1週間おきに3連勤をすることになった。。

1月19日からスタートした生活スタイル、すなわち帰宅後特別な疲れが無ければとにかく食事をする。その後即風呂に入り、出た時点でもう眠剤を飲むという流れだ。帰宅してから何かすることを放棄するという割り切りが、とうとう自分の中でできたということである。

眠剤飲んでから寝付けないなら、本でも勉強でもブログでもやることにする。但し仕事の日は大抵ムリ。それを受け入れるということだ。発想の大転換。

きょうは眠剤は飲んでいるがすぐに寝付けないのでブログを少し。

ここ何日か戦災の記事を書いた。星野さんの本に無いのは(五反田の本だから当然だが)東京以外の地方都市はなぜ爆撃されたのだろうという疑問。甲府も空襲を受けているし、埼玉県でも鋳物等の工場がない(たぶん)熊谷が空襲にあっていた。これらの都市の攻撃は何を大義名分にしていたのかが、現在不明で調べてみたい。

それにしても、自分が歴史にはまっているというのは興味深い。中高と歴史は大の苦手だった。地理は授業を聞いておらず、ずっと地図帳だけ眺めていて、それでテストは80点以上余裕で取れていた。

要は自分事になるかどうかが分岐点なのだと思う。星野博美さんの本は徹底的に史実を調べ、現地にも行って書いている。それが星野博美さんの本の魅力なのだ。

 

で、ここ何日か書いた災害史として、関東大震災(1923年)と東京大空襲(1945年)に付け加えて、もう一つ気になるものがある。大正6年(1917年)の高潮災害。10月1日に襲来した台風は近畿地方より東に甚大な被害をもたらしたが、この台風は別名「東京湾台風」とも言われ、日の最低気圧952.7ヘクトパスカルを記録。この最低記録は未だ破られていないとのこと。近畿地方でも被害が大きく、淀川が破堤したとの記載があった。

台風の中心では風が渦を巻いて、竜巻のように海水を巻き上げる、その巻き上がられた海水が津波状に押し寄せるのが高潮。最近では大阪湾で発生し、関西空港を中心に被害が出ている。

多くの人が誤解しているのだが、高潮は津波のように押し寄せる。とにかく避難が大事なのだ。

東京湾台風では海水が巻き上げられて水位が上がった上、満潮と重なった。結果、当時の京橋区(隣の日比谷はかつて入江だった)深川区、本所区などで、月島、築地、品川、深川は増水が激しく多くの人が溺死したという。東京府全体の死者・行方不明者の数は全国の被災者の半数近い653人に上ったという。

下町エリアは、東京でもたびたび被害を受けている。本所深川は江戸時代から発展してきた土地だが、何かというと被害を受けていたのだ。被害を受けるたびに、被災者が郊外に移転し、結果として「郊外エリア」発展してきた。

浦安はほぼ全域全町が水没。このため江戸時代から続いてきた行徳の塩田は施設が完全に破壊され、再開できず廃業したとのこと。

東京湾台風の高潮の被災地で気になるのが、増水激しかった「月島、築地、品川」という記述。今でも使う言葉か分からないが「東京ウオーターフロント」ということで、近年再開発が劇的に進み高層マンションがにょきにょき建っているエリアだ。特に先だってのオリンピックで激変した。

ここらにマンションを買う人は、災害史の知識がほぼない人だと思う。

東京湾台風は日常あまり聞かないが、伊勢湾台風は名前だけは今でも知っている人が多いと思う。伊勢湾台風も高潮被害を出している。阪神淡路大震災以前では、自然現象で出た被害としては最多だった。中心気圧は室戸岬上陸時911.6ヘクトパスカルだったとのことで、近代以降の台風では最強。この時に被害も大きかった。

温暖化で、こういう台風が増える可能性は否定できない。

書いたかもしれないが、関東大震災の震源は相模灘だった。ということは、東京も被害は甚大だったが、もっと大変だったのは横浜だったということも頭に刻みたい。

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2026/01/25

昨日の続き

今朝は昨日よりかなり調子が良い。これが続けば心配は少ないと思う。

調子がいいので、昨日の続きを調べて、またびっくり。東京北医療センター(以前は社会保険東京病院)が「近衛工兵第一連隊」の跡。星美学園は「近衛工兵第二連隊」の跡。京浜東北線で川口から橋を渡ると、迫ってくる赤羽の山全体が軍関連施設だった。星美学園などはとりわけ目立つ施設のひとつ。ちなみに星美学園は学校だけでなく児童養護施設も経営しているが、ミッション系だからというだけでなく、土地の過去も踏まえて、ということもあるかもしれない。調べないと分からない。

ちなみに北区以外も「あれもそうか、これもそうか」と、現在は姿を変えて痕跡のない軍事施設がたくさんあった。

ちなみに川口は、1943年(昭和17年)のドゥーリットル攻撃でも被害を出している。本土が攻撃を受けたのは戦争末期という印象を持っていたが、実はもっと早かった。鋳物工場は軍需と結びついていた。

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2026/01/22

空襲は5回あった

きょうは休みで用事があまりありませんでした。下記の記事にも書いた通り夜何かするのはあきらめて、休みの日の日中にしています。

その中で、以前からファンであるノンフィクションライターの星野博美さんの本を読んでいます。自分が知っている本はほぼ絶版で、中古でないと手に入らないのですが、今でも新刊は出ていました。先々週、散歩ついでにいった地元の図書館で検索したところいくつもヒット。その中で「これ」と思ったのが「世界は五反田から始まった」という本です。なぜか地域コーナーに分類されて配架されていました。

読みどころはたくさんあるのですが、ここでブログを使ってメモしておきたいのは「東京大空襲は1回ではなかった」ということです。

自分は戦争を知らない世代ということもあり、「東京大空襲」といえば下町を焼き尽くして大震災級の死者を出した昭和20年3月10日のものだとばかり思っていました。丸焼けになったあとを区画整理して、今のような碁盤の目のような街並みにしたという勘違いもしていました。これは自分と同世代の知人も同じ勘違いをしていたので、わりと多い勘違いかと思います。

東京の空襲は、まず真珠湾攻撃直後に一度行われていたというのはびっくり。戦争の始まった初期段階でそんな調子だったとのこと。

その後自分が「東京大空襲」と思っていた昭和20年3月10日の空襲のあと(空襲名は厳密に決まっているわけではないとのことで留意)

4月13~14日東京北部空襲:目標は旧王子区内の東京造兵廠軍(東京第一陸軍兵廠、東京第二陸軍兵廠、陸軍赤羽火薬庫、陸軍補給廠)

4月15日蒲田・川崎空襲:目標は蒲田・川崎の工業地帯

5月24日城南空襲:旧品川、荏原、大森の3区と目黒、渋谷、芝の一部

5月25日東京中心部・西部空襲:目標は旧京橋、麻布、芝、赤坂区など

とのこと。数回に分けて東京都区内の多くが焦土と化したのでした。

この中の東京北部空襲は、まさに北区がかつては軍都だった影響がもろに出ていて、今でもその痕跡が見られることから「やはり空襲を受けていたのか」という驚きを感じました。

また城南空襲は、先日呼んだ村岡花子の評伝にも出てくる話です。翻訳中の「赤毛のアン」の原稿を守るため、家族は池上本門寺方面に逃がして、自身は自宅にいた、まさにその時の話でした。星野さんは品川・荏原の話を書いているのですが、やはり当時の避難先として池上は有力だった様子。避難民であふれかえったというのは、さぞかし多くの人がランドマークとして池上本門寺付近を考えていたかだと思います。

ちなみに3月10日の下町空襲で死者が多かったのは、みんな避難しなかったからではないかというのが星野さんの結論。法律上避難してはいけないことになっていたというのです。しかし結果として甚大な死者を出したため、法律は無視して皆が逃げるようになった。そして避難路や避難先も事前に調べておくことが多かったらしいというのが星野さんの結論でした。

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2026/01/15

村岡花子から山梨を想う

きょうは1月としては暖かい。さっきも書いたが、東京でもとっくに梅の開花宣言が出ているくらいだが、きょうは福岡が19℃とか。

その影響で、ゆたんぽを抱えずに机に向かっていられる。外出する用事が無かったので読書していたこともあり、その内容を書きたくなる。2本のつもりだったがこの記事は3本目。体調に関しては1本目に書いてあるので、この記事のふたつ下ということになる。

赤毛のアンの翻訳者である村岡花子の評伝を入院中に読んで(「アンのゆりかご」)、それ以来やたらと気になるようになっている。で、図書館で借りたのが「村岡花子の甲府時代」という本。幼少期に東京に引っ越すものの、生まれは山梨の村岡花子。縁あって甲府で5年間教員をしていた。その時の話が中心だ。

村岡花子が着任する前のかつての山梨の話も書いてあった。「へぇ」とびっくりしたのは、前の記事にも書いた「川を使った船運」が盛んだったということ。中央本線が無い時代は、引っ越し荷物などは富士川の船運を使ったらしい。

かつて病気がずっと悪かった時代、山梨の叔父の家に逗留していたことは昔書いた気がする。その時みた雑誌に、旧白根町の農家が、今特産になっている桃の苗木を川口の安行に買い付けに行ったという話が載っていた。鉄道が開通していない時代に甲州街道を山越えで行ったという内容だったので、昔から甲州街道は荷物の運搬にも使われていたのかと思っていたのだが、実は違った。盆地の南端にある鰍沢までは船で運ばれていたという記事なのだ。

鰍沢以北は水位が浅いため、馬が引く鉄道が甲府まで引かれ、それが叔父の家、つまり母の実家近くの街を通っていたという。この路線がのちに電化され、甲府~青柳間を結ぶ山梨交通線になったというのは調べて知った。当然鰍沢まで延ばしたかったようだが、いろいろな事情でもめにもめ、自分が生まれる前に廃線になってしまった。路面電車のようなもので(江ノ電に譲渡された車両もあったみたい)、都電が次々なくなったのと同じようにバスの効率性にかなわなかったということのようだった。

そのバスもどんどん減っているのは皮肉な話。船に頼るどころか、高速道路でぴゅんと行き来する時代になってしまった。村岡花子もびっくりかも。

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