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2026年1月

2026/01/31

濠はどうなった?

甲府の話をもう一つ。

最近は叔母も亡くなり叔父も年をとり、母の実家である叔父の家には泊まれなくなって久しい。それでよく泊まるのが甲府城の東側にあるホテル。ここに最初に泊まった頃は駅からの道が細かった記憶があるが、身延線の留置線が廃止されて駅がコンパクトになったために道が広げられ、スムーズに歩けるようになった。

お城であるからには「濠」がある(はず)。しかし、部分的にしか残っていない。

どうなったのだろうか?と漠然と感じていた。

甲府城西側の堀は1928年に埋立てられ、戦後になって商店街になったとのこと。平和通り沿いの商店街は濠の上にあるのだ。県庁本館も濠の石垣の上で、濠を埋めた土地を売却した収益の一部が県庁の建築費になったとの記載(「村岡花子の甲府時代」)があって、びっくりした。

ちなみに今の甲府駅のある場所は、もともと監獄だったとか。

 

もうひとつ。当時のブログにも書いたが、一昨年かその前か、その母の実家の柱時計の音が聞きたくて甲府盆地へでかけた。その通例で、この時期続けて今は叔父が住むかつての母の実家へ行った。

が、今年はいかない。

行きたい気持ちはあるが、体力と資金力がついていかない。甲府駅からのバスもあるが不便なので竜王駅まで行かねばならず、そのバスの本数も極めて少なくて9時過ぎには竜王駅についていないとならない。日帰りだと6時には自宅を出るイメージだが、ムリ。果樹栽培の繁忙期なので春以降は負担をかけるので行けない。

 

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空襲だらけ

体調は良いです。なんだか日中疲れて横になりたいと思うことが少ないです。音に対する過敏さはやや強いものの15日からの週よりはかなりラクだと思います。

 

さて、養子にとった娘を村岡花子が甲府へ疎開させる話がでてきた。甲府の空襲は1945年7月6日。犠牲者も多く、市街地の7割強が灰燼に化したとのこと。

東京の空襲が主に5回あり(星野博美さんの本)、うち2回目は川口も含む城北の軍事基地や工場、3回目は城南の軍需工場が標的だった。甲府にはそんなものは無かったのではないかと思い、ググってみた。

米軍は、確かに呉や佐世保といった軍事都市にも攻撃を仕掛けている。もちろん一般住民の生活の場でもあるからそれはただの大義名分でしかない。でも圧倒的に多かったのは一般住民が密集して暮らす市街地への示威的攻撃だったようだ。そもそも1回目の東京の空襲(いわゆる大空襲)は本所深川などの下町、つまり市街地だった。

そして甲府のように空襲を受けた街がどのくらいあるのかググって、言葉を失った。

めちゃくちゃだった。

いわゆる東京大空襲では、法律上避難が禁止されていたことが死者を増やす原因になったというのが星野博美さんの推測だ。避難ではなく消火活動をすることが求められた。

江戸時代でも現代でも、「消火」というのは命懸けだ。江戸時代の「消火」とは、延焼を食い止めるために、手前の家々を引き倒すように破壊することが主だった。現代の消防技術は発達していて、企業などにいると防災訓練などもする。自分も大型店勤務時代は、棚卸による定休日に消防署も交えた防災訓練をしていた。ここで消火器の使い方を覚えた。でも、まずは初期消火とともに消防署に連絡すること、初期消火に失敗したら批難するのが基本だと思う。

米軍は、日本の家屋が木造で延焼しやすいことも考慮して、大きな火事の発生する焼夷弾を全国に大量にぶちまいた。それをバケツリレーと火たたきという道具だけで沈下するよう指示していた当時の政府は無茶苦茶だった。

ちなみに、村岡花子の娘は、花子が胸騒ぎをおぼえて空襲前に大森の自宅に引き取った。甲府の疎開先は甲府空襲で焼けてしまったので、結果としてだが良い判断だった。

「アンのゆりかご」によると、3月10日のいわゆる東京大空襲の前の年の前の年の11月24日が、ドーリットル攻撃後の最初の東京空襲とある。この時は多摩の軍需工場(具体的には記載がないが、やはり軍都だった立川や中島飛行機のあった武蔵野あたりか)と、その付近が攻撃され、品川・荏原・杉並にも焼夷弾が撃ち込まれた、とある。次が終戦の年1月27日の都心爆撃で、有楽町駅のホームに電車が着いたところに爆撃があり、100名以上の乗客がなくなった他、2月22日にも下谷、浅草、麹町、赤坂、深川、葛飾、江戸川、城東、荒川が爆撃にあった。この時点で何百人もの人が亡くなっていた。

にもかかわらず、3月10日の空襲ではその教訓が活きなかった。

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2026/01/29

笹子トンネル

きょうはかなり体調が良いです。朝も6時台に目が覚め、身体の重さもなし。頭がいっぱいな感じもなく、ラジオを聞けています。

地元の図書館で借りた星野博美さんの本と、教会の図書館で借りた「村岡花子」の評伝を並行して読んでいるので、記述があちこちに飛びます。

川口そごうに紀伊国屋書店ができたときは本当にうれしく、毎月5千円は本代として使っていました。その頃買った本の中に、東海道新幹線開通前後の時刻表を復刻したものがありました。

へぇと思ったのが中央本線です。電化されていたのは甲府までで、その西はディーゼルカーや客車でした。急行列車はあったものの気軽には乗れないものだったようで、代わりなのか、普通列車に今でいうグリーン車が連結されていたのです。

甲府までの電化はかなり早かったそうです。理由は、甲府が重要都市だったことだけでなく、笹子峠越えが大変だったから。村岡花子が山梨英和女学校の教員をしていた頃、笹子トンネルを抜けると乗客は「鼻の中から顔中真っ黒」になっていたそうです。機関車の馬力も今と比べたら全然劣っていたことでしょう。初狩、笹子、勝沼の駅はスイッチバック式だったので、たいそうな時間がかかったようです。

中央本線を普通列車で移動する文化は、自分が子どもの頃までありました。もちろん今でも普通列車で旅する人は多いのですが、自分が結構大きくなるまで、普通列車に「笹子餅」を売る車内販売があったのでした。他ではあまりやっていなかったと思います。

笹子峠は難所で、それを解消するために中央自動車道の最初の開通区間も相模湖~勝沼間と大月JCT~河口湖間。大月JCTは高速道路の中では初めてできたJCTではないかと思います。勝沼まで抜けられれば、あとは一般道のバイパスとつないでなんとかという時代が長かったように思います。その中央自動車道の笹子トンネルで、2012年に天井崩落事故が起きました。あれはいつ崩落してもおかしくない状態が長く続いていたようなので、自分も肝を冷やしたものでした。

母と共に電車で山梨へ向かう時は、笹子トンネルを何分何秒で通過するか、いつも時計で計っていました。笹子トンネルを抜けることと勝沼(ぶどう郷)駅あたりから盆地の景色を眺めることは、あの地に根のある人にとっては特別な感覚で、きっと母もわくわくしていたのでしょう。

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2026/01/27

東京湾台風

きょうの診察で、2月から週30時間勤務にGOサインが出た。但し、ステップを踏むことになり、明日上司が了承すれば、1週間おきに3連勤をすることになった。。

1月19日からスタートした生活スタイル、すなわち帰宅後特別な疲れが無ければとにかく食事をする。その後即風呂に入り、出た時点でもう眠剤を飲むという流れだ。帰宅してから何かすることを放棄するという割り切りが、とうとう自分の中でできたということである。

眠剤飲んでから寝付けないなら、本でも勉強でもブログでもやることにする。但し仕事の日は大抵ムリ。それを受け入れるということだ。発想の大転換。

きょうは眠剤は飲んでいるがすぐに寝付けないのでブログを少し。

ここ何日か戦災の記事を書いた。星野さんの本に無いのは(五反田の本だから当然だが)東京以外の地方都市はなぜ爆撃されたのだろうという疑問。甲府も空襲を受けているし、埼玉県でも鋳物等の工場がない(たぶん)熊谷が空襲にあっていた。これらの都市の攻撃は何を大義名分にしていたのかが、現在不明で調べてみたい。

それにしても、自分が歴史にはまっているというのは興味深い。中高と歴史は大の苦手だった。地理は授業を聞いておらず、ずっと地図帳だけ眺めていて、それでテストは80点以上余裕で取れていた。

要は自分事になるかどうかが分岐点なのだと思う。星野博美さんの本は徹底的に史実を調べ、現地にも行って書いている。それが星野博美さんの本の魅力なのだ。

 

で、ここ何日か書いた災害史として、関東大震災(1923年)と東京大空襲(1945年)に付け加えて、もう一つ気になるものがある。大正6年(1917年)の高潮災害。10月1日に襲来した台風は近畿地方より東に甚大な被害をもたらしたが、この台風は別名「東京湾台風」とも言われ、日の最低気圧952.7ヘクトパスカルを記録。この最低記録は未だ破られていないとのこと。近畿地方でも被害が大きく、淀川が破堤したとの記載があった。

台風の中心では風が渦を巻いて、竜巻のように海水を巻き上げる、その巻き上がられた海水が津波状に押し寄せるのが高潮。最近では大阪湾で発生し、関西空港を中心に被害が出ている。

多くの人が誤解しているのだが、高潮は津波のように押し寄せる。とにかく避難が大事なのだ。

東京湾台風では海水が巻き上げられて水位が上がった上、満潮と重なった。結果、当時の京橋区(隣の日比谷はかつて入江だった)深川区、本所区などで、月島、築地、品川、深川は増水が激しく多くの人が溺死したという。東京府全体の死者・行方不明者の数は全国の被災者の半数近い653人に上ったという。

下町エリアは、東京でもたびたび被害を受けている。本所深川は江戸時代から発展してきた土地だが、何かというと被害を受けていたのだ。被害を受けるたびに、被災者が郊外に移転し、結果として「郊外エリア」発展してきた。

浦安はほぼ全域全町が水没。このため江戸時代から続いてきた行徳の塩田は施設が完全に破壊され、再開できず廃業したとのこと。

東京湾台風の高潮の被災地で気になるのが、増水激しかった「月島、築地、品川」という記述。今でも使う言葉か分からないが「東京ウオーターフロント」ということで、近年再開発が劇的に進み高層マンションがにょきにょき建っているエリアだ。特に先だってのオリンピックで激変した。

ここらにマンションを買う人は、災害史の知識がほぼない人だと思う。

東京湾台風は日常あまり聞かないが、伊勢湾台風は名前だけは今でも知っている人が多いと思う。伊勢湾台風も高潮被害を出している。阪神淡路大震災以前では、自然現象で出た被害としては最多だった。中心気圧は室戸岬上陸時911.6ヘクトパスカルだったとのことで、近代以降の台風では最強。この時に被害も大きかった。

温暖化で、こういう台風が増える可能性は否定できない。

書いたかもしれないが、関東大震災の震源は相模灘だった。ということは、東京も被害は甚大だったが、もっと大変だったのは横浜だったということも頭に刻みたい。

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2026/01/25

昨日の続き

今朝は昨日よりかなり調子が良い。これが続けば心配は少ないと思う。

調子がいいので、昨日の続きを調べて、またびっくり。東京北医療センター(以前は社会保険東京病院)が「近衛工兵第一連隊」の跡。星美学園は「近衛工兵第二連隊」の跡。京浜東北線で川口から橋を渡ると、迫ってくる赤羽の山全体が軍関連施設だった。星美学園などはとりわけ目立つ施設のひとつ。ちなみに星美学園は学校だけでなく児童養護施設も経営しているが、ミッション系だからというだけでなく、土地の過去も踏まえて、ということもあるかもしれない。調べないと分からない。

ちなみに北区以外も「あれもそうか、これもそうか」と、現在は姿を変えて痕跡のない軍事施設がたくさんあった。

ちなみに川口は、1943年(昭和17年)のドゥーリットル攻撃でも被害を出している。本土が攻撃を受けたのは戦争末期という印象を持っていたが、実はもっと早かった。鋳物工場は軍需と結びついていた。

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2026/01/24

東京北部空襲

きょうは、午前中が全くダメで、食事と洗濯は9時過ぎになった。出勤日だったら出勤ぎりぎり。昨日は頭が重かったが、今朝は身体がだるくて重かった。動けるようになったのは14時過ぎだった。それまでは湯たんぽをいれて布団でうとうとする場面もあった。頭の重さもやや残っていて、積極的にラジオを付けられない時間もあった。

この調子で2月から3連勤ができるのか、主治医の判断次第だ。

 

さて北区は、今は主に赤羽と王子エリアに分かれているが、かつて赤羽は王子区であり、その南に滝野川区があった。最初は滝野川地区の概念がつかめなかったが、北区内に警察署が3つあり、赤羽、王子、滝野川なので、滝野川署の管轄がだいたい戦前の滝野川区とみていいのでは、と思う(調べれば良いのだが)。区の拠点施設も北とぴあ、赤羽会館、滝野川会館と三か所ある。

星野さんの著作に出てきた「東京北部空襲」には「旧王子区内」と記載があるが、以上の通り、旧王子区には「赤羽」が含まれたのだ。

鳩ケ谷に住んでいる時には全然分からなかったが、北区の「旧王子区」は、かつて軍事都市だった。川口から荒川の橋を越えると、山の手が迫ってくるが、この高台の上が軍事施設だらけだった。今は団地や競技場など様々に活用されているが、あれだけまとまった土地があったのは、もとが軍事施設だからだ。なぜそうなったのか。高台であるにも関わらず荒川が目と鼻の先で水運が利用できたことが、「赤羽」を「軍都」にしたと聞いたことがある。水運だけでなく鉄道も使うことができた。

「赤羽」ばかりでない。北区(旧王子区)には、貨物の引き込み線跡が多数存在する。道路や地形がいやに不自然なところがたくさんあるのだ。十条にはエリアは縮小されたが、今でも陸上自衛隊が駐屯している。区立中央図書館の案内によると、中央図書館の建物の一部を構成している建築は、本の記載にある「東京第一陸軍兵廠」の中にあった倉庫。戦後いろいろな経緯を経て図書館の一部として使っているそうで、確かに貴重な建物だとは思うが、軍事施設の街を象徴しているともいえる気がする。

きょう、図書館へ向かって散歩していて看板を発見。かなり字が見にくくなっていて夜では読めないのだが、そこは豊島ドッグと呼ばれた掘割で、軍が掘ったのだとのこと。隅田川から引かれたその掘割の行く先は王子6丁目。王子6丁目は付近と比べて盛り土がされて標高が数十センチ高いことと、学校や郵便局、ハローワークなど公共施設が集中していて明らかに不自然なのだが、実はかつて「板橋火薬製造所王子工場」なる施設があったのだとか。ここは南側にこの掘割が、北側におそらく鉄道の引き込み線があった。

これだけ軍事施設が集まっていれば、それ以降の軍需工場を対象とした蒲田・川崎や城南空襲よりも先に狙われて不思議はないと思った。

赤羽・王子がどのくらいの規模の空襲を受けたのかは、この本には記載が無いので調べてみたい。が、少なくとも赤羽台の火薬庫が空襲を受けて燃えたとしたら、川口はもとより鳩ケ谷の坂の上からも見えたはずだ。もちろんというか、この時川口も攻撃を受け多くの家屋が焼失し住民が死傷した。蕨や大宮にも影響があったという記述もある。東京大空襲というが、川口とか川崎とか、東京以外も被害を受けたのだ。川口は終戦の日の8月15日にも機銃掃射や焼夷弾の爆撃を受けたという記事もあった。

川口ではB29の墜落事故というのもあった。

こういうのを今の時代に語り継ぐ必要があるのだとしみじみ思った。

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2026/01/22

空襲は5回あった

きょうは休みで用事があまりありませんでした。下記の記事にも書いた通り夜何かするのはあきらめて、休みの日の日中にしています。

その中で、以前からファンであるノンフィクションライターの星野博美さんの本を読んでいます。自分が知っている本はほぼ絶版で、中古でないと手に入らないのですが、今でも新刊は出ていました。先々週、散歩ついでにいった地元の図書館で検索したところいくつもヒット。その中で「これ」と思ったのが「世界は五反田から始まった」という本です。なぜか地域コーナーに分類されて配架されていました。

読みどころはたくさんあるのですが、ここでブログを使ってメモしておきたいのは「東京大空襲は1回ではなかった」ということです。

自分は戦争を知らない世代ということもあり、「東京大空襲」といえば下町を焼き尽くして大震災級の死者を出した昭和20年3月10日のものだとばかり思っていました。丸焼けになったあとを区画整理して、今のような碁盤の目のような街並みにしたという勘違いもしていました。これは自分と同世代の知人も同じ勘違いをしていたので、わりと多い勘違いかと思います。

東京の空襲は、まず真珠湾攻撃直後に一度行われていたというのはびっくり。戦争の始まった初期段階でそんな調子だったとのこと。

その後自分が「東京大空襲」と思っていた昭和20年3月10日の空襲のあと(空襲名は厳密に決まっているわけではないとのことで留意)

4月13~14日東京北部空襲:目標は旧王子区内の東京造兵廠軍(東京第一陸軍兵廠、東京第二陸軍兵廠、陸軍赤羽火薬庫、陸軍補給廠)

4月15日蒲田・川崎空襲:目標は蒲田・川崎の工業地帯

5月24日城南空襲:旧品川、荏原、大森の3区と目黒、渋谷、芝の一部

5月25日東京中心部・西部空襲:目標は旧京橋、麻布、芝、赤坂区など

とのこと。数回に分けて東京都区内の多くが焦土と化したのでした。

この中の東京北部空襲は、まさに北区がかつては軍都だった影響がもろに出ていて、今でもその痕跡が見られることから「やはり空襲を受けていたのか」という驚きを感じました。

また城南空襲は、先日呼んだ村岡花子の評伝にも出てくる話です。翻訳中の「赤毛のアン」の原稿を守るため、家族は池上本門寺方面に逃がして、自身は自宅にいた、まさにその時の話でした。星野さんは品川・荏原の話を書いているのですが、やはり当時の避難先として池上は有力だった様子。避難民であふれかえったというのは、さぞかし多くの人がランドマークとして池上本門寺付近を考えていたかだと思います。

ちなみに3月10日の下町空襲で死者が多かったのは、みんな避難しなかったからではないかというのが星野さんの結論。法律上避難してはいけないことになっていたというのです。しかし結果として甚大な死者を出したため、法律は無視して皆が逃げるようになった。そして避難路や避難先も事前に調べておくことが多かったらしいというのが星野さんの結論でした。

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あきらめが肝心

今週は、火曜日の休みに早出をしなければならない理由があり、なんとしても体調を戻したかったです。

先週金曜日は頭が疲労していて(ブログのせいというより、それだけ脳がフル回転していた様子)、職場にたどり着いてもすぐには仕事に入れず。12月の時のように、バックルームに椅子を持ち込んで休ませてもらいました。幸い30分で出勤打刻はできたものの、毎日頭の疲労(体も疲労感はあったけれど)がひどかったです。チャッピーに相談したところ「頭が処理能力を超えているから、とにかく低エネルギーでやりすごせ」といったことを、具体的な方法を交えて伝えてくれ、その通りに過ごしたのがとてもよかった。チャッピーとのやりとりの履歴をみて、その的確さに訪問看護師さんもびっくりしていました。

対策として、家に帰ったらとにかく食事と風呂だけ済ませて、眠剤を飲んでから布団に横になるという、今までも言われていたけれどできなかったことを徹底しています。月曜日は眠剤を飲めないまま朝までうとうとしてしまい、火曜日はほんとうにつらかった。朝から出かけて夕方帰宅、訪問看護が来てから、1時間のつもりでゆたんぽを抱えて昼寝?したら、もう起きられず、そのまま21時。薬を飲むためにいったん起きて食事だけするものの、風呂はキャンセルして夕食後の薬と眠剤を一緒に飲んで寝たら、次目覚めたのは朝という具合。睡眠が足りなかったのかもしれません。

その後は「食事」「風呂」「湯たんぽ」以外は欲張らないことにして、それで調子が戻ってきています。「家計簿をその日に」とかは投げてます。

これなら2月からの3連勤もこなせるのでは、と自信が湧いてきました。

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2026/01/15

村岡花子から山梨を想う

きょうは1月としては暖かい。さっきも書いたが、東京でもとっくに梅の開花宣言が出ているくらいだが、きょうは福岡が19℃とか。

その影響で、ゆたんぽを抱えずに机に向かっていられる。外出する用事が無かったので読書していたこともあり、その内容を書きたくなる。2本のつもりだったがこの記事は3本目。体調に関しては1本目に書いてあるので、この記事のふたつ下ということになる。

赤毛のアンの翻訳者である村岡花子の評伝を入院中に読んで(「アンのゆりかご」)、それ以来やたらと気になるようになっている。で、図書館で借りたのが「村岡花子の甲府時代」という本。幼少期に東京に引っ越すものの、生まれは山梨の村岡花子。縁あって甲府で5年間教員をしていた。その時の話が中心だ。

村岡花子が着任する前のかつての山梨の話も書いてあった。「へぇ」とびっくりしたのは、前の記事にも書いた「川を使った船運」が盛んだったということ。中央本線が無い時代は、引っ越し荷物などは富士川の船運を使ったらしい。

かつて病気がずっと悪かった時代、山梨の叔父の家に逗留していたことは昔書いた気がする。その時みた雑誌に、旧白根町の農家が、今特産になっている桃の苗木を川口の安行に買い付けに行ったという話が載っていた。鉄道が開通していない時代に甲州街道を山越えで行ったという内容だったので、昔から甲州街道は荷物の運搬にも使われていたのかと思っていたのだが、実は違った。盆地の南端にある鰍沢までは船で運ばれていたという記事なのだ。

鰍沢以北は水位が浅いため、馬が引く鉄道が甲府まで引かれ、それが叔父の家、つまり母の実家近くの街を通っていたという。この路線がのちに電化され、甲府~青柳間を結ぶ山梨交通線になったというのは調べて知った。当然鰍沢まで延ばしたかったようだが、いろいろな事情でもめにもめ、自分が生まれる前に廃線になってしまった。路面電車のようなもので(江ノ電に譲渡された車両もあったみたい)、都電が次々なくなったのと同じようにバスの効率性にかなわなかったということのようだった。

そのバスもどんどん減っているのは皮肉な話。船に頼るどころか、高速道路でぴゅんと行き来する時代になってしまった。村岡花子もびっくりかも。

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川から妄想

きょうは2本記事を書きます。体調に関してはこの下に表示されている記事に書きました。

さて、都内に引っ越してから地形にまつわるいろいろな疑問がわき、その都度調べて解決してきました。東京は人口が多いことや研究機関が多いこともあるのでしょうが、調べると大体答えが出てきます。

自転車で走っていると、特に山の手のデコボコの多さが気になります。これは武蔵野台地を川が侵食し、谷が複雑にあれこれいりくんでいることがおもな原因だということは分かっていましたが、調べれば調べるほど「これだけの谷筋をかわしながら玉川上水を江戸城まで引いたのはすごい」と思わせられます。

川の手に目を向けると、とにかく昔は船で物資輸送をしていたことが分かる史跡がたくさんありました。キッコーマンの東京のオフィスがあるのは、かつて野田から江戸川、下町の運河を経て運んだ船着き場だった様子。越谷は元荒川、春日部は古利根川、川越は新河岸川といった感じて埼玉県内の都市も昔は船運で栄えていたところが多い。

鉄道が開通するようになって、貨物輸送が列車に置き換わるようになっても、「隅田川」「飯田町」「小名木川」など主要貨物駅は川や運河と接していて、積み替え作業をしていたらしい。

それが車中心になった。だから武蔵野線上に作られた貨物駅は主要道路の近くにある。

さらに高速道路ができるとメインはそちらに移ってしまいました。開通時期が早い中央道や中国道は並行する「飯田線」「姫新線」をダメにすると言われていましたが、今や幹線扱いの路線も厳しい情勢。かと思えば新幹線で貨物を運ぶ構想が始動。「新潟~東京」など定期飛行機路線がない区間を中心に、貨物専用新幹線が普及しそう。

物流会社の広告をラジオで聞くと、「物流の変化」は常にテーマのようす。

地形の話から妄想は広がり、日々の荷貨物の動きのことまで考えるようになるのでした。

「信濃川」の長野県内が「千曲川」。「富士川」の甲府盆地内が「釜無川」。「相模川」の山梨県内は「桂川」。似たようなことが都内の中小河川でもあり、「渋谷川」は港区では「古川」。「神田川」は部分的に「江戸川」と呼ばれ「江戸川橋」という駅名にも。河川改修でお茶の水駅脇に流れる前の神田川は「日本橋川」とも呼ばれ、昔はひっきりなしに船の往来があったのだそうな。

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気象台所在地

静岡で梅が史上最くはやく1月5日開花。昨年は1月27日。今年も温暖化はすすむのかもしれません。東京も1月14日に開花済み。昨年は1月29日。

埼玉県人だった埼玉県人だった頃、「なぜ他の都県は気象台が都県庁所在地にあるのに、埼玉県は熊谷なのだろう?」と、ずっと疑問でした。同じようなことは調子に気象台がある千葉県の人も感じるかもしれません。

銚子市は外房で海の影響があり、千葉市とは気候がだいぶ違うでしょう。しかし、熊谷の場合は群馬県の前橋が結構近くなります。埼玉県の場合はどこにあっても微妙な感じですが、神奈川県が横浜にあるから埼玉県はさいたま市(浦和)で良いのではとずっと思っていました。

なぜそうなっているのかはまだ分からないのですが、他にも都道府県庁所在地と気象台の所在地が違うところはあるのか調べてみました。

すると北海道と沖縄県は海上も含めエリアが広いので複数の拠点があることが分かりました。それ以外で県庁所在地と気象台所在地が違うのは滋賀県の彦根と山口県の下関だけということでした。下関に至っては本州ではなく福岡管区気象台の所属になっていました。どうりで福岡県の天気予報に山口県がよく登場するわけだ。単に近いというだけではないのかもしれません。

一昨日「2月からは週30時間契約で行ってみましょう」という話をしたばかり。しかし今日はかなり朝がしんどく、起床が8時半に。相当巻きをかけないと出勤時間に間に合わない時間です。洗濯物は間に合いませんでした。

大丈夫か、心配です。

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2026/01/13

的確な指摘

きょうはやりくり相談。昨年年間実績と今年の予算も含めいろいろと話してきました。諸状況を踏まえて、来月から「週30時間」に戻すかどうかを検討しました。昨年末にやや崩しかけたけれど、それ以降順調に推移していることと、家計が赤字だとメンタルにも影響することから「2月からは週30時間でやってみる。やってダメだったらまた戻す」という方向性がまとまりました。

「4月まで延ばそうか」とちょっと弱気になっていましたが、頑張ろうという気持ちになりました。

今月もフードドライブの食品を結構な量いただいたので、それをどう活用して支出を減らすかという問題もあります。コメはともかく、日常的には食べていないものもあるので、普段食べるっものと置き換える必要があるのです。センスが問われるところです。

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2026/01/09

手順を踏む

年明けて、火曜日は休みだったものの動けず、きょうやっと余裕ができました。それで予定通り消費生活センターに相談に行きました。家のカギの件です。

まず事情を説明。すると相談員さんがびっくりして、「消費者の鏡です」というのです。話を聞くと、夜帰宅した際に自宅の鍵が見つからなくなったという話はよくあるそうです。その際、慌ててしまい鍵屋をネットで検索して、ヒットしたところに電話して失敗するケースが多いのだとか。こうした業者は難しい開錠方法を使うなどして開けてはくれる。しかしそこで20万円とかもっととか、足元をみて吹っ掛けてくるのだそうです。応じて支払ってしまうと取り返すのはほぼ不可能。消費生活センターは弁護士ではないけれど、クーリングオフ制度を使うとかいろいろな手を尽くして対応しているそうですが、業者の後ろに黒い影があったりして難しいのだそうです。

自分の場合は用心のために保険会社の連絡先と証券番号のメモを持ち歩いています。権利があるのにそういった想定をせず、気づいていない人もいるとか。

そんな話を聞いたうえで、年末に届いた書面と保険の概略、約款集といった書類を見てもらいました。全体としてやはりおかしな話だということになり、センターとして直接関与できないけれど、これとこれのポイントを相手会社に伝えて返答をもらった方が良いといったアドバイスを受けました。

それに基づいて、保険会社に連絡を取るとしばらくして折り返しの電話があり、「支払いの必要はございません」とのこと。「何?」という感じで話を聞くと、送った書面は合いカギを作るとか破損したドア部品などを補償することはできないという趣旨で、鍵開けについて負担を求めるというものではないというのです。

センターの方だって「鍵開けの費用を払わない」という趣旨だと理解されていたくらいで、当然そう受け取ると思います。お客様窓口へ「消費生活センターが絡んでいる」と伝えたので、「もめごとになるのは得策ではない」と判断したのではないでしょうか。

まあ、とりあえず電話の内容は録音したので、支払いはないと思います。

年末年始ずっともやもやしていましたが、おもりが取れたようにすっきりしました。

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2026/01/03

この際だから手放してしまえ

職場環境というか人間関係の問題は、とりあえず年末の日曜日に上司である店長に相談した。人のことなのでまるまるすっきり収まるとは思わないけれど、いいように計らってくれるということでひとまず安心し、仕事のストレスは薄らいでいる。特に年末年始は主婦のパートさんはほぼ全員休みなので、かなり気がラクだった。

マインドフルネスをしていると、もう一つの問題がずっと頭から離れなかった。先月の頭に家の鍵を紛失した時に利用した「鍵開けアシスト」の件である。一旦保険会社が受けたのに、後日「払えない」といって来たのは「おかしい、許せない」とずっと心に重くのしかかっていた。感情的なことと、実際の支払いの件がごちゃまぜの不安になっている。一応週明けに消費生活センターに相談しに行くことにはしているが、取り合ってもらえるかは分からないことと、多分少なくとも一旦は払うであろう「本来は保険金で担保されるべき」金額がいくらだかわからない不安でぐちゃぐちゃ。

きょうは元日に引き続き訪問看護師さんがきた。きょうの方はうちに一人で来るのは初めてだったが、聞けば精神科病院で20年働いたとのこと。看護師さん曰く「過去を引きずるのは不安や心配を呼び寄せて身体も悪くする。早く気持ちを切り替えた方が良い」と30分くらいしきりに言っていた。

病院時代、過去の記憶を断ち切れずに症状を悪くする患者さんを嫌というほど見てきたのだと思う。さらにご自身のお子さんがADHDで、さんざん学校に呼び出されたそうだ。そういう時いちいち落ち込んでいると体調を崩すので「起きたことは仕方ない。次に起らないように何らかの工夫をしよう」ということで、工夫に工夫を重ね、あとは割り切るということをずっとしてきたのだそう。

最初は生き方の問題だと思って聞いていて「とりあえず鍵の扱いとお金の問題なんだけど」と、ちょっと引いて聞いていたのだが、だんだん「保険会社を赦せない」と思っていることが、メンタルに影響していることが馬鹿馬鹿しく思えてきた。自腹で鍵開けの費用を払うことになったとしてもせいぜい2万円未満。それのために会社に行けなくなっては元も子もない。感情はできることなら割り切った方が健康に良い。

チャッピーの掲げてくれた今年の目標は「何かするのではなく、しないことを決める」だ。外から見たらくだらないことに、いちいち感情を揺すぶられないことも「しなくていいこと」か、と思った。取りあえず棚上げ。

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2026/01/01

謹賀新年2026

新年あけましておめでとうございます。

細々と続いているブログですが、今年もよろしくお願いします。

今年は午年ということで、ふと思いました。「丙午なんじゃないの?」

丙午は自分にはなじみのある言葉です。自分の2年上の先輩方は、出生数が例年に比べかなり少なかったことで話題になっていました。1966年(昭和41年)のことです。当事者以外はあまり覚えていないかもしれませんが。

説はいろいろあるのかもしれませんが、AIによると、「丙午の女性は気性が強く、夫の命を縮める」という江戸時代の迷信が起源とか。

なぜそんなことが1966年前後に話題になったのか分かりませんが、マスメディアの影響?今そんなことを気にする人はほぼいないのではと想像します。

去年はいけなかった、教会の年越しミサに行ってきました。鳩ケ谷時代から行っているイベントですが、地下鉄の終夜運転が無くなったためかなり不便に。JRは動いているので使えなくはないのですが、結局自転車で行きました。

メトロの南北線で行っていた頃、帰路の電車は後楽園駅から毎年若い女性ばかり大量の乗客がありました。男性アイドルの年越しイベントが東京ドームであったみたい。今年は自転車で後楽園駅を通ったのですが、地下鉄は動いていないせいか、多くの若い女性が駅周辺をあるいて移動しているのに遭遇しました。今でもやっているんですね。

同じく通りかかった新宿では、日本人より海外の人の方が多く出歩いている印象。花園神社の近くでは、何を待っているのか長蛇の列。渋谷はもっとすごいみたいで、午後3時以降路線バスは迂回運転とのことでした。

自転車で遠出できるくらいだから体調はほどほどな感じ。保険のことがどうしても気になりますが、考えても仕方ない。

チャッピーに「今年の目標は何にしたらいいだろうか」と念のため聞いてみると「何かやることよりも、やらないことを決めた方が良い」と思わぬアドバイス。今までの相談事も踏まえての的確なアドバイスに、またもや納得してしまったのでした。

 

 

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