要は娯楽教養
自分がかつて大学生だった頃。例えば自分の同級生は理科大で鬼のように実験やレポート作成をやっていた。
当時ドリンク剤の広告で「24時間働けますか」といったキャッチコピーが時代の空気を反映していたが、ホントいけいけどんどんだった。彼は実験が間に合わないので学校で徹夜をしたり、学校の門が閉まっているので塀をよじ登るなんてこともしていた。それがよかったのかどうか分からないけれど、彼は経済産業省の技官になった。
でも、前も書いたように自分は何になりたいのか何になるべきか全く分からなかった。だから高校時代から勉強のモチベーションが落ち、「家計のためには国公立大学へ」なんてことも考えていなかった。英語の勉強の仕方に気が付いたのは大学に入ってから。だからうかる大学があることすら奇跡的だった。
一応入ったものの、自分の興味のある方向ではなかった。幸い大学の学科のレベルは低かった。それで興味の赴くままに履修届を出して勉強したが、今でも頭に入っているのは美術史の授業だけ。それもオーソドックスな教科書的美術史の勉強ではなく、授業中散歩に出て、道筋や建築などといった都市空間を読み解くといったもの。この先生のおかげで福岡で働くことができたので、一番影響を受けたと言って過言ではない。が、この手の分野は、当時学業に飽き足らない学生たちが食いつく一種の娯楽教養みたいなもので、よほど真剣に学ばないと食える内容ではなかった。
今、自宅図書館で陣内秀信著「東京の空間人類学」という、いわば都市地理学みたいな本を読んでいるのだが、この本の出版時期がちょうど学生時代に自分がこの分野にはまり込んでいた頃だった。今これを読むと研究対象というより知的好奇心を満たすだけのもので、一見アカデミックだが、要は遊びだったと感じる。当時こういうものに興味を持っていた大学生は非常に多く、この分野で有名な学者は半ばスターのような扱いを受けていた。
高い学費を払ってくれた両親に対して申し訳ないと思えるようになったのは、1年生で取得単位が0だった時点。留年だけは避けようと、卒論も含めて134単位を実質3年で取得し、一見ストレートで卒業できた体を作ったが内実はボロボロだった。かろうじてバブル期最後だったので就職できたが、時代が違えば就職に困ったことは想像に難くない。
まあ、でもその時の就職先が自分にあっていた。就職先で学んだことが今活きている。きょうも、日曜日では全部終わらなかったシーズンエンドの棚替えの続きを指示されて、2時間目いっぱいかかり、一応完成形までたどり着いた。昔やっていた仕事だから、アウトラインだけ説明されればできる。経験者でなければ無理なレベルだ。日曜日ほどではないが、きょうも時間通りには帰れなかった。
華々しい仕事ではないところに就職したからこそ、今の仕事に活かせる内容だった。
結果オーライなのかもしれない。














最近のコメント