山谷のまりや食堂から年2回の通信が郵送されてきた。以前ボランティアで働いたり、読書会に参加したり、買いすぎのタオルや古い切手などを寄贈したことがある、小さな教会兼食堂。今は諸般の事情からお弁当の販売しかしていないが、献品や献金を活用して安くてボリュームと栄養のあるお弁当を提供している。
自分の知人は今でもボランティアで働いているので、自分にとってまだ過去の場にはなっていない。活動の主宰である牧師先生は83歳、ボランティアには88歳の女性が2名もいるとのことで、やりがいがあるから、責任感をもってやっているから、みな元気で活動できるのかなと思う時もある。
ここの活動にはいろいろな意義があるのだが、自分が特に大事だと感じるのは「有料の福祉活動」であるということ。
福祉サービスは、そこそこの収入のある人を除けば無料で提供されることが多い。無料はダメだと思う。レシートや領収書が発行されない。正味いくらかかって、その内訳が何なのかが分からなくなってしまう。サービス提供者が「やってやる」という姿勢になりやすいこともひとつ。今のやりくり相談の担当者は時間や約束が守れず、にもかかわらず謝らない。何様なのかと思う。有料のカウンセリングで、カウンセラーが遅刻とかすっぽかすとかあり得ない。余裕をもって待機して当然だ。自分もクリニックのにわか検査技師をやっていた時、朝の大事な予約があるときは、前日クリニックの近所のカプセルホテルに泊まっていた。電車が遅れようが何の理由があろうが、約束日時は厳守だ。それが当然だと思う。無料だとなめられる。
生活保護を受けると医療費も現物支給で自己負担がなくなるが、大きな問題だと思う。医療券というものを発行してもらわなければならない。担当のケースワーカーが「そんなことで医者にかかるのか?」と受診を制限することがある。精神科訪問看護を使うことなど医師の指示があっても難しいかもしれない。一般の人は保険証で医療を受けるから、最近は機能分化という意味合いもあってどこでもかかれるというわけにはいかなくなりつつあるが、原則自分自身が必要と思えばどこの医療機関でもかかることができる。医療券による現物支給をやめて、保険証のようなものを発行し、生活保護で3割負担はさすがに厳しいので5%とか自己負担が発生する代わりに、自由に医療が受けられる方が制度としてましだと思う。
食事の提供活動と言えば「炊き出し」が思い浮かぶと思う。ダメとはいえないが、無料の活動なので毎日はできない。炊き出しの無い日は、被援助者はどう過ごすのかという問題が出てくる。実は炊き出しの実施機関ではお互いに連絡を取っていて、近隣では炊き出し日がかぶらないようにしたりしている。が、実施機関で積極的にそういう情報を出さないというか出せないのだと思う。量が限られるので、全員に確実に提供できる保証がない。ほどほどに来てほしいというのが本音だと思う。
安価でも有料なら、必要な費用を調達しやすいし、継続的に援助することができる。しかもあくまで「有料」なので、援助者の態度も謙虚にならざるを得ない。
自分もかつてそう思ったことがあるが「人の役にたちたい」と思っている人はたくさんいる。しかし本気でそういうことに取り組もうとしたら「こんなのやっていられない」と思う場面にたくさん出あうはず。ほんとうに困っているひとの困り具合というのは並ではない。
援助者と被援助者の関係をちゃんとするために、お互いにとって「有料」ということが必要だとつくづく思う。
この2~3日はテンションが高い。きょうも普通は一日で終わらないような量の棚替えをしていた。このままどこまで行けるんだろうか。
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