きょうの「目標を刻む」
次から次へと新しい症状が出てくるが、疲れもあるのだと思う。普通の人の疲れ度合いとは較べものにならないほど疲れ耐性が低いのだ。ヒッポを始めて今よりももっとあちらこちらへ出かけていた頃は、エネルギー配分が大きく波をうっていた。均してみるとこんなものなのか、さらにいろんなことが相まってこうなっていると思う。
目標をもっと刻む。
次から次へと新しい症状が出てくるが、疲れもあるのだと思う。普通の人の疲れ度合いとは較べものにならないほど疲れ耐性が低いのだ。ヒッポを始めて今よりももっとあちらこちらへ出かけていた頃は、エネルギー配分が大きく波をうっていた。均してみるとこんなものなのか、さらにいろんなことが相まってこうなっていると思う。
目標をもっと刻む。
毎日がこんなに「きつく」「苦しい」のは休み方が悪いからではないか?と複数の人に言われる。そういえば「休めないこと」イコール「自分と向き合えていないこと」ではないか?との指摘も以前もらった。ぎりぎりの上の線を狙い過ぎ。
もっと「ふわっ」と「ラクチン」に。「ラクチン」になって「次のステップ」へ。
体調が遷移する。一つの過敏がやっと少し収まってきたと思えば次が来る。こんな話はしたくないのだが、話がエンドレスになる。診察のときなど「この先の方針をどうしたらいいのか」と聞く。答えは「結果的に」できれば次。だめなら「その時はその時」。こんな状態が続くとほんとうに堪える。経済的な問題とも絡んでくる。もともと精神疾患は貧乏になる病気だ。やっと少し調子が出てきたかと思うと再発して、まるで「あなたの人生はそちらの方ではないよ」と言わるかのような思いをくり返してきた「べてるの家」の人々の苦労が身に染みてきた。
もう「べてる」はいらないのではないか、と昨年思ったときもあり、主治医も「べてるの生き方は、それはそれで素晴らしいけれど、なんちゃんの方角とは違うと思う」と言われたが、やはり「べてる」に学ぶしかないような気がしてきた。
状況を笑いとばす。
自分の症状を研究する(対象化する)。
対処法を練習する(SST)。
開き直る。
もういちど「べてる」。
一歩一歩すすむ。ずっと遠くの「みらい」が近づいてこない。むしろ次の山がクリアになってくるだけ。縦走登山なんてそんなものか。
こんな山登りを始めたつもりはないが、結果的に縦走している。
一歩一歩「ポレポレ」で。
きょうは疲れ果ててしまい、家にずっといた。「何か手を動かしていないと」という気持ちが大きすぎたようだ。手を動かしていないと「過敏」や「思い煩い」などが湧いてくるので、どっちもどっちか。いずれにせよ毎日の「日常」を練り上げて作るというのはほんとうに大変。
「結果的に」。リハビリ渦中なんどもこれを聞く。推移はやってみないと分からない。そんなのばかり。
「結果的に」先月末より過敏が緩和され、次を考えてもいいかということになる。まだ考えるだけ。
今日は少し波が落ちてきたようで、きつさが出る。しかし持ち上がり方も大きくはなかったので、きついのも大きくはない。この波を小さくしながらゆっくりゆっくり持ち上げていくことがリハビリ。この病気になると本人も先の展望を拓きたくて「じりじり」するが、周囲で見守る人も「じりじり」するのだろうと思う。自分の友人もそうだった。
一歩ずつ確かな足取りで「拓く」。
ほんとうに元気に過ごせるようになるためには、「どう生きるか」が大切だと思う。「しあわせに生きればいいんですよ」と主治医は言う。昔流行ったCMのフレーズではないが「しあわせ」ってなんだろう。
こういう風に考えだすのも「放り投げる」対象か。
くどくど考えずに「切り拓く」「みらい」。
気持ちを前向きにする狙いで、川口リリアのヒッポへ行く。ここはリリアができたのと同じ頃すでに始められたこともあり、参加人数が極端に多い。少ない日でも赤ちゃんから大人まで軽く40人はいる。相当刺激が強いのでエネルギーがないとその場にいることすらつらくなる場。そこへ「いこう」と思ったことが、自分としては大きな冒険だった。最近の「ざるを水で満たす」要領で「ざぶん」と飛び込む。
楽しむことはできた。それはすごいことで、「エネルギーがそれだけたまったのだな」とは思ったが、いきなり筋肉を伸ばしたような感覚が残る。でも「できた」のだから「大丈夫」。
デイケアで頼まれた手作業が思ったよりきれいに手早く進む。デイケアスタッフは「進み過ぎ」と感じているようだが、手を動かしていないと頭を使いだすのでやっかいだ。頭を使うと考えだす。細かい手作業はもともと得意なのだ。工夫して自宅でもできるようにしたい。作業療法をいっぱい。
昨年「どう過ごしていたか」はなんとなく覚えている。今作っている食事内容から較べると低レベルだった。だから栄養分が足りず、脂肪が落ちたということもあると思う。昨年と較べると食事の内容も生活リズムも厚みを持っていると思う。しかしそのレベルを維持するにはまだ慣れていない。当たり前の日常になっていないから「きつい」感じがする。食事のレベルはしかしもっと上げたいと思う。そういう余裕も少し出てきたか。
新しいレシピで何か作ろう!
デイケアの日数を増やし、作業療法として軽作業をすることになる。手を動かしているとよけいなことを考えないというのもある。日数を増やすのは久しぶり。以前は毎日行けることを目標にしていたが、そういうレベルではなく同じ時間に行って同じ作業をこなす。昨年の今頃に近いか。時間が昨年よりもくり上がっている。
「そろりそろり」「たてなおす」。
1人で何かを考えようとしても、その時々の「囚われ」事に惑わされて客観視するのは難しい。だったら「思い煩い」は「放り投げる」。そう思いつつ「どうどうめぐり」。「みらい」を「切り拓け」! 「バッサリ」いけ!
料理をしたり、アイロン掛けをしたり、とにかく手を動かすことで先のことを考えないようにする。
昨年「乗り越えるためには、ポジティブに考えポジティブに行動すること。そうすれば力がつく」とインドの知人がメールしてくれたことを思い出す。
コップに半分の飲み物があったら「もう半分しかない」と考える人と、「まだ半分ある」と考える人がいる。そんな話題が出て自分は「もう」「しか」と考えてしまうことが分かる。病気が長いからそう思うだけではなさそう。それはそういう性格なのだ。開き直るしかないが、できるだけ考え方を楽観的にすることも「認知行動療法」という。
ちなみに飲み物を「この半分は誰が飲んだのか?」と考えるのは現実的な人というオチも。余裕がないけれどそんなユーモアで笑いとばせたら「ラク」になるだろうなあ。
価値観は一つでない方がいい。その確信があるから外へ出て行く。主治医の意見もとても大切だが、多面的に見た方が本意が分かることもあると思う。薬も大切だが、薬だけではどうにもならないことのヒントが与えられることもある。
外へ外へ、多価値の中へ。
「そんなこと知るか」を上手に。べき論を排す。人生を楽しむ。人のために生きない。あえて「無責任」。「放り投げる」。
そんなに「いい子」「いい旦那」「いい主婦」「いい仕事人」「いい○○」をやろうとすると、また再発するよ。
日常を営むために最低限やらなければならないことはいろいろあるけれど、それさえクリアすればいい。
目指すのは「自分のしあわせ」。
きょうの診察で。
回復への歩みとは結局「山また山」のような道を進むことのようだ。病院で機能回復リハビリを受けいている人を見て思う。今あるもの、与えられているもの、人、すべてに感謝して、一歩一歩今日も歩く。「みらい」へむけて「薄紙一枚」。
ヒッポに行っている時のテンションは、今の毎日の中ではかなり特殊。今日も子どもたちと鬼ごっこをしている。デイケアの人が見たらびっくりするだろう。環境の中へ入ってしまえば非日常が「あたりまえ」になる。思いきって「どぼんと飛び込む」と案外深くない。
ずっとあのテンションはムリとしても、ポジティブに「チャレンジすれば拓ける」と考えられれば毎日がずいぶん「ラク」だろう。チャレンジも「どぼんと飛び込む」こと。意外に深かったらその時はその時。適度に心配、適度にずさん。努力を毎日「薄紙一枚」積み重ねて、あとは「天に委ねる」。
連休がやってくる。今の自分にとっては綱渡り。体調がどう変化するか分からず、つらい山がまたやってくるかもしれない。不安が大きいが、不安は様々な形で誰もが持っているもの。なんとか「やり過ごす」ことができれば、大きな「マル○」だと思う。来週は次の展開をまた考えられるかもしれない。「やりすごす」を精一杯。
昨日から今日にかけて、少し離れた叔父の家を訪問。京浜東北線に乗るのが苦痛と言っている自分にとってインドに行くとまではおおげさだが、相当の勇気で深さの分からないプールに「ざぶん」と飛び込むような心持ちだった。しかし行ってみたら、なんといってもこちらと違ってのどか。列車もワンマンカーで、乗るときは、駅の待合室に一人いた年配の方ににこやかに先を譲ってこちらもほんわかした気持ちになる。街中とは圧倒的に刺激の量が違う。「ラクチン」。
これが単に病気のせいだけではないことは、何人かと話して確認済み。「鳩ヶ谷」といっても、東京の一部みたいなものだから刺激だらけで変化も早い。それがだんだん「ついていけないよ」と感じだすのはみな同じ。年齢のせいのようだ。
先のことは、今は考えないのがいいのだが、モチベーションとしてどのような「方向性」がいいのか、少し考える。いろいろな「みらい」へむけて、一歩ずつ。
体調が微妙になってきた。いつも週末にきつさのピークがやってくるのと同様、年末年始でデイケアも休みなので「自分自身でこらえなければ」などと思うと、それががんばりになってしまうのかもしれない。
明日、あさってとどう過ごすのがベターか少し考える。でも考えても「思い煩い」にしかならないのですぽんと「委ねる」。
明日は明日。
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