今を生きるということ
べてるの家の向谷地生良さんが、「安心して絶望できる人生」(NHK出版 生活人新書199 2006年)で、「自分が今の子どもたちの世代を生き抜く自信がない」という趣旨のことを書いているのですが、自分もこれを読んでまったくそう思いました。
以下は「インド 解き放たれた賢い象」(グルチャラン・ダス著 友田浩訳 集広社)p348からの引用です。
もう一つの実験がある。NIITの調査部門の責任者スガタ・ミトラは、デリーのスラム街に一台のコンピュータを設置した。彼はそれをタッチパッド(キーボードなし)と一緒に境界線を固定した。彼はまた、状況をモニターするため隠しカメラを樹木の上に取り付けた。一週間以内で、正式な訓練は何も受けていない非識字のスラムの子どもたちがネットサーフィンをしていることが分かり、さらに三ヶ月後には一千のフォルダーを作っていた。最も熱心な利用者は六歳〜十二歳児で、彼らは独力でコンピュータの使用法を身に付け、ウェブサイトを閲覧していた。ディズニー・コムが、ゲームのせいで最も人気があった。子どもたちはまたマイクロソフトの画描サイトを好んだ。貧しいので紙と絵の具を使ったことがない子どもたちが、今や紙なしで絵が描けるのだ。そして彼らはいったんデジタル音声ファイルのmp3を発見するとヒンディ語の映画音楽をダウンロードし始め、一日中それを再生していた。
集団の中の好奇心の強い子どもは、コンピューターの基礎的操作を、正規の教示なしに自分たちで覚えるということをこの実験は示唆している。そのことをは、子どもたちをインターネットに接続させれば教師の効率は何倍にも増大するということを意味している。ミトラ博士が別の実験で発見したところでは、一部の九年生(日本の中学校三年生に相当)は教師の助けなしに、自分たちで直接、インターネットから「粘性」といった物理学の概念を覚えることができた。教師の仕事はだから、子どもたちが正しい質問をするよう手助けするだけになるかもしれない。スラムの実験はまた、英語ができないことはある程度まで障害にならないことを教えている。ミトラ博士の<スラムコンピューター>はヒンディ語のインターフェイスを備えており、子どもたちは自分たちの言葉でウェブサイトに接続できた。だが子どもたちはすぐにその使用をやめてインターネットエクスプローラーに戻った。ボース博士は言う。子どもたちは英語の言葉の辞書的な意味は知らないかもしれないが、彼らはすぐに機能的な意味は理解したと。彼らはファイルの発音はできなくても、そこにファイルを保存したり開いたりするオプションが入っていることを知っていると。自転車の乗り方の習得に似ている。彼は言う。「どうやって乗り方を覚えたか、誰も君に聞かない。君はただ覚えたのだ。」彼の望みは、コンピューターがインドでいつの日か自転車と同じくらいに普及することだ。」
あなたはこうした子どもたちを前にしてどういうことを感じるでしょうか?
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