障がい者就労支援制度の全体像 その1
「そろそろ体調も安定して毎日通所できるようになってきたのでデイケアから一歩足を踏み出してみませんか」と主任看護師さんから提案をもらったのが11月。それから「とにかく動こう、情報を集めよう」とあちらこちら電話したり、足を運んだり、参考文献を読んだりしてきました。12月には実際に市にひとつはある(はずですが鳩ヶ谷市では設置予定がなく川口市のセンターが受けています)就労支援センターを訪問、面談し登録しました。そして「就労移行支援型」というサービスを受けるべく数箇所の施設を見学し、いよいよ今週から、ある支援施設へおためし通所をはじめました。
ここへ来るまでなかなか大変な思いをしました。「した」と過去形ではなくむしろ現在進行形です。一番大変なのは制度を勉強することでも、あちらこちらの施設へ足を運んで情報を集めることでもなく、「自分を知る」ことでした。
このブログでよく登場する「べてるの家」のソーシャルワーカー、向谷地生良さんは著書「安心して絶望できる人生」(生活人新書199 NHK出版 2006年)のなかでこんなふうに書いています。
精神障害を抱えて生きる苦労を繰り返す当事者を見ていると、その最大のテーマが「自分を知ること」において生じるジレンマにあることがわかります。
実は、「自分を知る作業」というのは想像以上の苦しさを伴います。自分を知る作業がはじまるのはいわゆる「思春期」です。子どもから大人へと脱皮する作業は、人間という生き物が延々と繰り返してきた自然の営みであるはずが、いつの間にか「逸脱」や「病理」の世界として括られ、問題視されるようになってきました。(p21)
つまり、思春期にほとんどの人が成長のプロセスとして通る葛藤を、この年になって再度やっているようなものなのです。そして思春期の子どもたちが進路が思うように決まらずもんもんとしたり、自分の能力を思い知らされたりするのとほぼ同様、進路指導や面談を受けたりしています。年齢が違うだけでやっていることの根本は一緒です。いわゆる普通の「思春期の葛藤」は子ども時代にもっている「全能感」とでもいうようなさなぎの中から出て進学・就職その他の人生イベントを通して自分の限界を悟りゆく過程で起こるものです。しかし、この年代の「自分を知る葛藤」は「以前はこんなことも出来た、あんなことも出来た」という実績があるのでなおさら面倒だといえます。いい意味での自尊心すらずたずたにされ「こんなことすらできない自分」をいやというほど味わわなければなりません。これは精神障がいに限らず、身体障がいでも同様でしょう。屈辱的な気持ちすらするかもしれません。しかし、逆を言えば人々は年を取るにつれて社会的ステータスをもつのが順調と考えられている社会の中で、一度身ぐるみはがされて、「もう何も残っていないのではないか」という境地まで来たところに、家族・親類・友人・知人その他の人々が見捨てることなく「がんばれ、一緒にやっていこう」と言ってくれる。実は何も失っていなかったことに気づく。それは、社会的に順調に過ごしてきている人には決してわからない大事な気づきであり、ここをくぐり抜けることは本当の意味での「生きる力」を身につけることなのではないか、という気がしています。こういう類いのものですから「思春期」や「反抗期」の子どもに必要なのと同じような周囲のサポートが不可欠です。
就労支援制度の活用は、まずこの境地に来てからなのかもしれません。自分の今いるエリアには意欲と能力がかみ合わず空回りしている人が大勢います。「あせらず」という意味は、病気や障がいを再発させないということ以上に、意欲を空回りさせないことが大事で、そのためのプロセスをきちんと踏んでいくことが必要なのだ、という意味であるようです。
次の機会に支援制度の全体像を書いてみたいと思います。専門家以外に全体像をつかんでいる人はごく少数だと思いますので、上手に文章にして少しでもお役に立てるものになればと思っています。ぼちぼちいきますので、少々お待ちください。
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