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2009/10/04

だから旅がすき

また星野博美さんの「謝々!チャイニーズ」から引用します。


私が出会った人たちは、道を歩いていたら偶然ぶち当たった普通の人々だ。もしその時、別の道を歩いていたら、一本あとのバスに乗っていたら、隣の食堂に入っていたら、彼らと出会うことはなかっただろう。
それだけに私は彼らの存在をいとおしく思う。今では長楽の「一〇万元の男」までが懐かしい。彼らが今日も生きている。そう思うだけで、体の片隅にぽっかりと明かりが灯るような感じがする。
改革解放という洪水の中を、いま一人一人が必死に自分の力で泳ぎ抜こうとしている。私はそんな彼らの生きざまを、脳裏に焼きつけておきたいと思う。
私にとって、中国はそこに生きる人々の人生そのものだ。この国の未来は、出会った人たち一人一人の切実な将来でもある。
中国はこれからどうなるのか、私には分からない。ただ、見続けなければと思う。(中略)
旅をしながら、私は中国の人々を眺めていた。来る日も来る日も、彼らが生きる姿をただ眺めていた。
私は窓からおそるおそる顔を出し、動物が初めてあるものと遭遇した時のように、流れている空気を肌で感じ、匂いを嗅ぎ、手を伸ばして彼らに触れた。
体で感じた途端、そこにいる人たちは現実になった。
彼らは食い、働き、眠る。時々さぼる。自分が生きるためには嘘もつくし、人をだましもする。人間が生きるためにすることを徹底的にする。
中国にいる私はまるで、野良猫の縄張りのど真ん中に、ある日突然放されてしまった飼い猫だった。彼らの生に対する執着を目の当たりにして、素直に驚いた。
人間にはこれだけのことができるんだ。そういえば、生きるってそういうことだった。(太線はなんちゃん)
そしてそんな当然すぎることすら忘れていた自分に、危険信号を感じた。「いかに生きるか」という観念にばかりとらわれ、「生きる」というリアリティを見失いかけている自分。
「あんた、相当ヤバイよ。」(なんちゃん注:ここの「ヤバイは古い意味・つまりGOODとは反対の意味です。最近、20代以下の人には、ヤバイの意味が逆になっているのであえて注をつけました)
中国で会う人からそう警告されているような気がした。
私は彼らと同じ地平に立ち、同じ空気を吸うことで、生きているという実感を得たかったのかもしれない。
私は中国の人たちから、本来なら自分の成長過程で学ばなければならなかった、生きるための方法を教えられた。
食べることも、眠ることも、商売人との交渉も、自分の身を守ることも、自分を主張することも、待つことも、怒ることも、泣くことも、人生にはどんないいことも悪いことも起こりうるということも、その一つ一つがとても大事なのだということを。
中国人は私の学校だった。
中でも一番印象に残ったのは、彼らのとてつもなく自由な精神のありようだった。
私はここで皮肉をいいたいわけではない。彼らは自由に外国へ行くことができない。原則的には子供を一人しか産むことができない。政治的にも言論の面でも自由とはいえない。我々が当然のように享受している自由のいくつかを彼らは奪われている。
しかし彼らは自分の行動や意識を制限するものを飛び越えてしまう自由さ、自分の人生を決めるのは、国や法律ではなく、自分自身だという認識を明らかに持っていた。国がどんなに不自由で縛ろうと、俺は俺のやりたいようにやるぜ、生きるのはあんたじゃなく俺なんだからな、というたくましさを持っていた。そんな彼らを見るたび、日本にいる自分たちの自由のことを考えた。
私たちは、生きるのは自分だという自覚をもって生きているだろうか。
生活が便利になり、あふれるほどの情報を手に入れたことで、私たちは一番楽な道を選ぶことを学習した。
何をするにも、最も楽な方法を教えてくれるマニュアルを求め、実行キーをぽんと叩いてすぐに答えを知ろうとする。マニュアルがいつでも安全な結果を提示してくれるから、それ以外の結論に達することをやみくもに恐怖する。実際に痛みや困難を伴うと予想される体験は、疑似体験で手っとり早く済ませ、ドキドキハラハラだけを頭で感じて興奮する。人間と人間が直接関わりあわなくても生きていける日常の中で、身体感覚はどんどん失われ、リアルさはどんどん乏しくなっていく。自分の痛みがわからないから、他人の痛みにも鈍感になっていく。
私たちは方法と結果を与えられることに、あまりに無防備になってしまった。だから方法がわからないと無性に不安になり、確証のないプロセスを踏むことに耐えられない。
あらかじめ用意された自由の中で、何かが変だ、ということは誰もがうすうす感づいている。そして口を開けば社会のせいだという。でもこんなシステムは誰にも変えられないと、簡単に諦める。
相手が得体の知れないシステムだと思うからこそひるみ、そんなことを変えられるのは、自分たちの理解を超えた超自然的な力か何かだけだと、また非現実の中に逃げ込んでしまう。見えない力に依存するのは、これまた楽で時間がかからないからだ。この息苦しさから誰か救って、と私たちは手を伸ばす。しかし、現実には自分を助けてくれる暇な人間などそう簡単にはみつからない。だから「救ってあげよう」といって夢を見させてくれる人間に、いともたやすく身を委ねてしまう。いつまでたっても、何かが自分を解放してくれるのを待っている。
私たちはそろそろ自分以外の何かに助けを求めることに絶望した方がいいのではないだろうか。(注:太線はなんちゃん。これこそ、べてるの理念だ!)
人間なんてそもそも身勝手なものだ。待っていたって誰も助けてくれないよ。そう考えた方がどれだけさっぱりするだろう。


長々と引用してしまいました。この文章は先に紹介の本の「おわりに」という節に書かれています。これを読んで「若さ」を感じる人も多いでしょうね。この本は星野さんが大宅壮一ノンフィクション賞をとる以前、20代の頃に書いたデビュー作なのです。若いってこういうことだよ!と自分も思ったのですが、実際この日本の20代でこういうことに考えが及んでいる人がどれくらいいるだろう?そして、うつ病のために30代は終わったけれど、一から自分が「どう生きる」以前に「食べていくにはどうするか」を考えざるを得ない自分にとっては共感の多い文章です。

こういう出会いがあることで自分がもっと変わっていける、そして既成の枠組みでないところに自分の生をおいてみることが「食べる」ためにはもっとも大事だと感じています。だから自分は旅が好きなのでしょう。

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