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2009/05/22

親がすることではない

親が子どもの能力を全開させようとして試行錯誤するのは、親が自己満足を得るためのエゴです。そのことが分かっていない親が多すぎます。環境を与えることは許されるでしょう。しかしそこから何を獲得していくかはその子ども自身にゆだねられるべきなのです。


上野 最近、本田由紀さんの本『「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち』を読んで、心胆寒からしめる気持ちになったの。

 親が子供の能力をマックス(最大限)に伸ばしてやりたいと思うのが愛情だと親たちが思っていること。その親の育児法について本田さんが論じているのを読んだんですけど、「ああ、何という子供受難の時代が来たのか!」と思ってね。

 能力でも何でも、マックスに期待されたり、マックスに発揮させられたりというのはストレスに決まっているでしょ。

深澤 マックスまで行ったら、あとは壊れるしかないですから。

上野 マックスを期待されるのがどれほどストレスフルかということを、親は身を以て自覚しているくせに、子供にはそれを要求するのよね。「この子の能力を最大限に引き出してやりたい」と。

深澤 「親が子供にできることはそれだけだから、やってやらなくては」と思っているんですよね。

上野 それを愛情だと思うのね。子供を追い詰めているとは思わずに。「最大限に」なんて、自分には要求しないだろうに。

 だから、自分に対しても他人に対しても「そこそこほどほど」とか「よい加減」がいいのよ。あなたに限らず、最近はそういうことを言う人が増えてきましたね。

これは日経ビジネスオンライン5月18日号特別対談上野千鶴子VS深澤真紀の一部です。結構長くて面白いのでこちらから本文を読んでみてください。もっとも子どものことを書いてあるのはこの部分だけですが。

おやが自分のプライドを満たすために子どもを追い込んで、結果として壊してしまうというのは非常に多いです。こういうことが起こるのは親が自分自身を愛することができず、コンプレックスを抱えているからです。そのコンプレックスを自分の子どもを使って満たそうとする。言葉で書くと簡単なようですが、心理的に深い問題だと思います。

とはいえ、意識してよけいなおせっかいをするのはやめるべき。親が介入しなくても子どもはちゃんと子ども自身がもつ自然の育つ力を使って育つのです。

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コメント

はじめまして。
はじめましてでなんなんですが・・・
なんちゃん自身が親の自己満足の為に潰され壊されたと感じているのでしょうね。問題は親にあると。個人的な実感を全ての親子関係に敷衍して、べき論で語ってみても何も埋められないと思いますよ。「深い問題」は親の側にあるのではなく・・・。
もし「子ども自身がもつ自然の育つ力」というものがあるとすれば、親からのプレッシャーが強い「環境」下に育つ子どもはそれを[超える/はね除ける/やりすごす]技術を「自然」に「獲得」するはずですよね。

投稿: ○△□ | 2009/05/22 17:13

○△□さん、コメントをありがとうございます。

逆ですね。親が力で支配しようとすると子どもは自分を守るために親の言うことをよく聞くようになります。そして感覚を鈍くして、ほんとうのことは親に一切言わなくなります。見た目良い子になることに徹します。それはそうでしょう、生殺与奪のすべては親が握っているのです。

「べき論」ではなく「結果論」です。まず○△□さんは、ご自分を100%受け入れて、今の自分自身がいるだけで全部OKと思えますか?その自己肯定感があれば、子どもに過干渉をしようとは思わないでしょう。自然だからこそすべての親子関係に適応するのだとは思いませんか?

といっても納得はできないかもしれません。森田ゆりさんの「子どもと暴力」(岩波書店)や児童精神科医・佐々木正美さんの「子どもへのまなざし」(福音館書店)など、関連図書はたくさんあります。両論比較してみてはいかがでしょうか。

なお、このような挑発そのものが一種の暴力であることも申し添えます。

投稿: なんちゃん | 2009/05/24 22:39

お久しぶりです。自分が常日頃感じる事に近い話がでたので、一言宜しいでしょうか?


世間でいわゆる教育熱心と言われている行いの一面として・・・
親が子を特定の行き先へのレールに載せる事が、不確実な将来の為に子供の他の可能性を結果的に諦めさせている事。人生において短いく特殊な子供時代という時間の使い方を事実上親が決定、支配している事。以上の側面があると思います。
にもかかわらず、親はしばしば盲目であり、所詮は一人の人間なので間違いも犯します。その少ないとは言えないリスクへの考慮が不足したまま自己の正しいと思う特定の教育方針を信奉し、それを子供に押し付け、子供の意思を過小評価すること。これが一定の悲劇を必ず生んでしまう背景ではないでしょうか。


しかし、なんちゃんがおっしゃる環境という言葉のニュアンスとは少し違いますが、子供の環境適応能力や問題解決能力を過信して小さな大人の様に扱うのも違うと思いますが、、、

長々失礼しました。お体をお大事になさってください。

投稿: march | 2009/05/25 21:29

○marchさん

コメントおそくなってごめんなさい!

こどもに何かを押し付けてしまうとき、それが親自身のコンプレックスに根ざしていることが多いようです。自分にはできなくて悔しい思いをしたから子どもにはできるようになって欲しいという・・・。わがままといってしまうのは簡単ですが、それを親自身が認めるのは相当痛みを伴うことのようです。

日本では高度成長時と今では環境がまったく違います。以前はがんばれば理想の生活を手に入れることも可能でした(この「理想」が実はステレオタイプなのですが)。今は国富がほとんど増えないので「がんばれば結果が出る」とか「安定した仕事・生活」ということがら自体が空疎な幻想と化していますから今や親の期待と現実のはざまで子どもたちは二重に苦しんでいると思います。

自由にしてあげたい。でも自由というのは結果も責任もすべて自分で引き受ける、混沌の中に飛び込むということですから、それ自体を無理強いするのもどうなのかな?という気もするのです。

無責任な言い方に聞こえるかもしれませんが、自分には「そのときが来れば飛び込める、それを待つ」しかないと思います。待てるか待てないか。それは信じるか信じないかでもあります。そこが分かれ目なのではないでしょうか。

投稿: なんちゃん | 2009/05/30 23:21

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