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2008/04/02

愛国心と自立

「愛国心」と「自立」という言葉は、国が使う時よく間違った意味で使われます。先ほどもラジオのニュースで「愛国心」を養う教育云々というのが出てきたのですが、その意味するところが全然違う!

改めて意味を定義します。過去記事丸写しですが、リンクを張るよりじかにこの場で読んで欲しいので、書き出します。2006年の記事です。

教育基本法改正案が閣議決定され国会審議になりましたが、あれに盛り込まれている「愛国心」とはいったいどんなものでしょう。

この問いかけに壱萬円札の福沢諭吉先生がこんなことを書かれています。

右三箇条に言うところは、皆、人民の独立の心なきより生ずる災害なり。今の世に生れ苟(いやしく)も愛国の意あらん者は、官私を問わず先ず自己の独立を謀り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商共に独立して国を守らざるべからず。概してこれを言えば、人を束縛して独り心配を求むるより、人を放ちて共に苦楽を与(とも)にするに若(し)からざるなり。「学問のすすめ 三編 岩波文庫版」
つまり「愛国心」とは人々がみな知恵を持って独立すること、自分で考えることだというのです。

どうも「あれっ?」という感じではありませんか

何か違和感を感じる方は、こちらを読んでどう思いますか?

独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼するものは必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者は次第にこれに慣れ、その面の皮鉄の如くなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる習い性となるとはこの事にて慣れたることは容易に改め難きものなり。(中略)目上の人に逢えば一言半句の理屈を述ぶること能わず、立てといえば立ち、舞えといえば舞い、その従順なること家に飼いたる痩犬の如し。実に無気無力の鉄面皮と言うべし。昔鎖国の世に旧幕府の如き窮屈なる政(まつりごと)を行う時代なれば、人民に気力なきもその政事に差支えざるのみならず却って便利なるゆえ、故(こと)さらにこれを無知に陥れ無理に従順ならしむるをもって役人の得意となせしことなれども、今外国と交わるに至ってはこれがため大なる弊害あり。
これでしょう?「役人の得意となせしこと」を無理無理させようとしているのでしょう。福沢諭吉は、それは結局国のためにならないと明言しています。

自立して考えることは国のことを憂うだけではなくもっと身近なことに通じるはずです。県政、市町村、街づくり、自治会、PTAその他あらゆることにおいて人に下駄を預けたままのこと、多くありませんか。女性だって対等に考えるべき。某都知事は「フェミニズム」という言葉も嫌いらしいけれど、恥知らずというべきでしょう。

身近な分野で、国民がまる投げしていることがおおすぎます。これは結局為政者に都合よく使われるだけです。


これが2006年5月に書いた記事ですが、何度読んでも新しいでしょう?昨日書いた裏寺交差点の信号機の事も、自分が言いたいのはこういうことなのです。

さて、ここに「自立」という言葉も出てきます。さあ、「自立」とは。

自立というのは自分で何でもこなせる事ではありません。

正直に「できない。助けて」と言って支えてもらうと、(保育士さんは)どんどん力を発揮する。結局、自立というのは、自分ができることと、できないことを認めて、自分一人では何もできないことを自覚し、他人に「支えてほしい」とメッセージを出す。そして「ありがとう」と言う。それが自立なのだと思います。親だってそうです。(不思議なアトムの子育て P217)

つまり人と人とが支えあう事を前提として、自分でこなせる事はこなすけれどもダメな時にはSOSを出して援助してもらう事。それが自立なんです。「あれっ」と思うでしょう?「障害者自立支援法」という言葉はおかしいですね。支援してもらう事こそ自立なのですから二重に「自立」と言っているようなものでしょう?こういうおかしな言葉が通用するのは「自立」=「一人で何でもやる事、人に迷惑をかけないこと」という定義で間違って使われているからです。

人の能力はお互いのかけている部分を補い合う事で十分に発揮する事ができるものです。成果主義がまずかったのは「成果」を個人の力で成し遂げたものと考えて設計されたからでしょう。でも数字のノルマにしろ、達成するのに一人の力で成し遂げる事なんて出来ません。昔自分の勤めていた会社には「成果配分制度」というのがあって、部門の目標数値を達成すると達成度合いに応じて臨時ボーナスが支給されました。部門の責任者個人に支給されるものですが、多くの人はそれが自分の力だけで達成できたわけではない事を痛いほど分かっていたので、「成果配分」が出ると個人的に部下に分けたり、小額なら達成会をやってそこに使ったりしたものです。成果主義そのものは別に悪くないと自分は思うのですが、評価単位をチーム全体にするべきだろうと思うのです。

ただ、自分は「自立」という言葉を違う意味に定義して使っている時があります。次に引っ張り出すのは2005年、ちょうど病気を割り切った頃の記事です。


今、とてもどきどきしています。自分はまた殻を割ってしまいました。

前の記事に書きましたように共同通信社会部元記者の横川和夫さんの本(「大切な忘れ物 -自立への助走- 」)を読んでいく中で自分の中で「ぷちん」とはじけたものがあります。それは「治らなくても良いや」という割り切りの発想でした。じつはこのはじけ方が衝撃的で、自分の中でひとつはじけるとそれが誘発して他の考えもはじけていくという連鎖を生み出していて、自分は混乱状態にあるのです。こういう体験は久しぶりです。

今までの自分の過ごしかたは「病気が治る」ということを前提にしたものでした。勉強をしたりしましたが、「病気なんだからだめでもともと」と思っていました。実際社労士の勉強では終盤やっていられなくなりリタイアしました。リタイアしてもそれは規定路線の範囲内だったのです。何しろ治らなければ何も始まらないわけですから、モラトリアムの時間に少しでもスキルを高めておこうという発想でした。結構それでも自分に負荷をかけながらやってはいたのですが・・・。その中で簿記2級と初級システムアドミニストレータの資格を取ることが出来たのは成果でもありました。特に簿記は経済に関する話題を理解するのに無くてはならないツールでした。

しかし横川さんの著書を読んでいるうちに自分の中で何かががらがらと音を立てて崩れていきました。横川さんの本には、不登校の子どもを「学校に行かせなければ落ちこぼれる」という発想のもとで学校に行かせようとしていた親が、「必ずしも学校は必要でない」ということに気づかされ、変わっていくさまを追っているところがあります。「必ずしも学校は必要でない」という発想が、自分の「必ずしも治らなくても良い」という発想につながりました。自分も「義務教育の学校に行かない」なんていうことを考えたことがありませんでした。しかし横川さんの本を読んでいくと、子どもが不登校になる原因は、実は学校の環境が悪くて子どもが本能的に自己防衛をしているのだということに気付かされます。それは原因のひとつなのかもしれません。しかしとても思いがけない理由でした。自分はそのことと自分のおかれた状況とをつなげて考えていました。本当に治らなければ何も出来ないのだろうか。このまま治らなければ自分のたくわえばかりでなく、本当は頼りたくない親の金も食いつぶしモラトリアムを続けるのだろうか。確かに「復帰」というスタンスで考えたら「治る」ことは最低ラインです。しかし6年にわたる闘病生活の中で矛盾を感じつつありました。病気になる前の姿だけが自分の姿なのか?発病前は崩壊家族の中でもがき苦しみ、逃避としてワーカホリックに走っていた部分だってある。あのときの100%の力に戻ることでしか自分は存在を認められないのだろうか?

それとは別に、自分がソーシャルワーカーという援助職を目指すことは、ACの連鎖で自分をつぶしながら親の代わりに誰かのケアをすることなのではないかと思えてきました。援助職を目指すという人生の道選びだけではありません。同じくうつになっているいとこのことに介入したりすることも同じ発想。はたまた恋愛感情のなかで「相手が生き生きとすごしてくれるためなら自分をつぶすこともいとわない」と思っている自分に気がつきました。そうではないだろう・・・、ケアを必要としているのは自分だ、満たされるべきは自分だ、自分が満たされないのにどうして相手のことが尊重できるだろうか・・・。恋愛でも仕事でも何でも、自分が自分をまず大事にしなくてどうして人のことを大事に出来るのか。そう思い至った時今度は別の考えがはじけます。自分は援助しようと思って人に近づきながら本当は援助されたがっていたのではないか。自分で自分をケアすることを怠り、人にケアしてもらおうとばかり思っていたのではないか。

ついこの間まで「自分が生きることで一人でも楽に生きられるようになれば、生きる価値がある」と思っていたのですが、これではだめです。「自分で自分を活かす」ことを考えなければ・・・。

これは、実は自立の一歩です。自分は今まで人に依存してきたのです。自分で自分を支えるという当たり前のことにいまやっと踏み出すのです。「自分をつぶして人に尽くす」というのは共依存関係そのものであることにやっと気がつきました。

だからどきどきしているのです。自分で自分をケアする、生かすという未知の事をしていかなければなりません。病気というハンデもあります。正直少々びくついています。

ゆっくり慣れていくしかないのでしょう。それこそ、これに気がつかなかったらずっとモラトリアム状態を続けていたわけで、そこから少しでも違う方向に体を向けることが出来ればずいぶんと違うものが見えてくるはずです。あせらずに、少しずつ「病気とともに生きる」(にしまるせんせは病気を人格化するのはクレイジーだといいますが・・・ってわからないですよね)「自分で自分をケアする」「自尊心を持つ」ということをやっていきます。ACは自尊心が低いといわれていたけれどこういうことだったんだ・・・やっと納得です。


つまり「自立」とは自尊心を持って自分のことを大事にできるという意味でもあるのですね。

「障害者自立支援法」という言葉の中に「自尊心を持つ」というニュアンスは感じられるでしょうか?

この2つの言葉はとても大事なものなので、折りに触れて同じことを何度も書こうと思っています。

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