平和と宗教
せっかくパソコンを置いてきたのについブログに投稿してしまうのはパソコン中毒かもしれません。
昨日自分にとってちょっとした事件がありました。それでふと宗教というものを考えたのですが、宗教程戦争をあおるものは世の中にはないように思います。え?と思いますか?宗教と言えば大体平和を唱えるものだからでしょう。しかし宗教の唱える平和は自分達の宗教の内輪の中の事であって、基本的には違いを見つけて排除する性質を持っています。とある宗教の機関紙では一面で世界平和を唱える一方、その裏面では、自分達にくみしない集団を醜い言葉で罵倒しています。カトリックの神父が、カトリックとプロテスタントの融合は可能だと言っていましたが、プロテスタント教会の牧師に言わせれば「あり得ない」話だそうです。カトリック教会のシスターが、自分の思い通りに活動しない信徒に対してイジメをしていた事も見てきているので自分は「組織とは付き合えない。個別の人を見てでしか、信用出来ない」と思うのです。
日本人は無神論が多いと言うのは錯覚で、むしろ宗教による縛りを好む民族に思えます。良くも悪くも判断基準が「世間」になるからです。不祥事を起こした組織のトップが「世間をお騒がせして申し訳ありません」と謝罪するのは典型的です。世間というものは日本人社会にしか通用しない、しかし日本人として暮らすためには侵してはならない掟です。これは不文律で時代によって多少変化する事もありますが神道の経典のようなものです。神社をまつることと、世間様に恥ずかしくない生き方をすることはセットだったのです。クリスチャンなのに世間体を気にするなんて日本人以外あり得ないでしょう。世間体を守れるかどうかは日本人として生きられるかどうかの踏み絵のようなものです。だから世間の常識から外れると日本人社会から排除されます。いわゆる村八分です。こういう排除の論理がまかり通る事こそ、世間様が宗教性を持っている事の証明なのです。
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