前の記事にも書きましたが、先週の水曜日鳩ヶ谷福音自由教会の聖書講読に伺いました。この教会は忘れた頃に時折行っています。前回はまだ割りきりがそれほど進んでいなかった頃だと思います。教会ですから日曜日に礼拝があるのですが、午前中なのでなかなか行けません。毎週水曜日の夜に聖書講読会があってここに時折行っているのです。
自分は2つの課題をもって行きました。ひとつは自分の境遇について。金欠だとは言いながら、また仕事をするときのためにとってある教育訓練のお金が少しばかりあります。これの一部を今回のインド行きに充てるのですが、世の中にはとても海外どころではない人たちがたくさんいます。特にデイケアでお会いする方々は生活保護を受けている方が多いです。また旅先のインドでは貧富の差がものすごく激しく、観光地に行くと物乞いをする人たちが付いて回ると聞きます。このあたりが自分の中でイマイチ割り切れていなかったので答えが欲しかったのです。もうひとつは以前何回か参加したカトリック教会の黙想会で、実は自分の知らないところで自分の親しかった友人がシスターからいじめと言うか排除されていたのです。確かにキリスト教会は各地で公的機関がサポートできないような人々に救いの手を伸べる活動をしています。これはカトリック・プロテスタント問わずです。しかしカトリック教会の、組織ありきの仕打ちにちょっと違和感も覚えていたのです。
一つ目の課題はしかし講読の中で牧師様が話してくださいました。創世記の49-28がその日のテーマだったのです。自分の持っている版で引用します。
これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。
この12の祝福というのがその前段に書かれているのですが、いいことばかり言っていないのです。呪われろ!と怒ったりしている。これはしかし父ヤコブから見れば12通りですが、祝福を与えられた12人にとっては与えられた祝福そのものが自分にとっての祝福で、それは比較するものではないということです。
つまり与えられた「そのまんまがいい」ということ。あれ?と思いませんか?べてるのメンバーが絶望の果てに「自分たちには病気がある」と気がついて、今「昆布も売ります。病気も売ります」がいくつもある理念の中のひとつになっている。メンバーそれぞれの状態には多少差があるけれど基本的には「病気を受け入れる」ところからべてるの活動って始まっているんです。他人と比較して自分が不幸だとか、そういう発想はないのです。「彼女(彼氏)がいていいなあ」とかいうのはあるでしょうけどね。そういう「比較の心」に蝕まれている人はべてるにくると「病気が出る」。健康と思われていた人が実は不健康だったと気付かされるのがべてるです。
幸福のヒントがここにあります。「比較しない事」です。
もうひとつの自分の課題に対しては牧師様が「基本的に人は組織と付き合うのでなく人としかつながれない」と言う自分の気持ちを肯定してくださいました。教会と言う組織と付き合うのではなくそこに集う人とつながる事が大事ということ。教会に限らないです。会社でも学校でも個人の信頼関係を抜きにして組織は成り立たないということです。信頼関係の結べない組織は自分から見限ったり、逃げたりしてもいいのです。
こうしてこの日は自分にとって実り多き時間を過ごす事ができました。
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