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2005/11/20

どきどき

今、とてもどきどきしています。自分はまた殻を割ってしまいました。

前の記事に書きましたように共同通信社会部元記者の横川和夫さんの本(「大切な忘れ物 -自立への助走- 」)を読んでいく中で自分の中で「ぷちん」とはじけたものがあります。それは「治らなくても良いや」という割り切りの発想でした。じつはこのはじけ方が衝撃的で、自分の中でひとつはじけるとそれが誘発して他の考えもはじけていくという連鎖を生み出していて、自分は混乱状態にあるのです。こういう体験は久しぶりです。

今までの自分の過ごしかたは「病気が治る」ということを前提にしたものでした。勉強をしたりしましたが、「病気なんだからだめでもともと」と思っていました。実際社労士の勉強では終盤やっていられなくなりリタイアしました。リタイアしてもそれは規定路線の範囲内だったのです。何しろ治らなければ何も始まらないわけですから、モラトリアムの時間に少しでもスキルを高めておこうという発想でした。結構それでも自分に負荷をかけながらやってはいたのですが・・・。その中で簿記2級と初級システムアドミニストレータの資格を取ることが出来たのは成果でもありました。特に簿記は経済に関する話題を理解するのに無くてはならないツールでした。

しかし横川さんの著書を読んでいるうちに自分の中で何かががらがらと音を立てて崩れていきました。横川さんの本には、不登校の子どもを「学校に行かせなければ落ちこぼれる」という発想のもとで学校に行かせようとしていた親が、「必ずしも学校は必要でない」ということに気づかされ、変わっていくさまを追っているところがあります。「必ずしも学校は必要でない」という発想が、自分の「必ずしも治らなくても良い」という発想につながりました。自分も「義務教育の学校に行かない」なんていうことを考えたことがありませんでした。しかし横川さんの本を読んでいくと、子どもが不登校になる原因は、実は学校の環境が悪くて子どもが本能的に自己防衛をしているのだということに気付かされます。それは原因のひとつなのかもしれません。しかしとても思いがけない理由でした。自分はそのことと自分のおかれた状況とをつなげて考えていました。本当に治らなければ何も出来ないのだろうか。このまま治らなければ自分のたくわえばかりでなく、本当は頼りたくない親の金も食いつぶしモラトリアムを続けるのだろうか。確かに「復帰」というスタンスで考えたら「治る」ことは最低ラインです。しかし6年にわたる闘病生活の中で矛盾を感じつつありました。病気になる前の姿だけが自分の姿なのか?発病前は崩壊家族の中でもがき苦しみ、逃避としてワーカホリックに走っていた部分だってある。あのときの100%の力に戻ることでしか自分は存在を認められないのだろうか?

それとは別に、自分がソーシャルワーカーという援助職を目指すことは、ACの連鎖で自分をつぶしながら親の代わりに誰かのケアをすることなのではないかと思えてきました。援助職を目指すという人生の道選びだけではありません。同じくうつになっているいとこのことに介入したりすることも同じ発想。はたまた恋愛感情のなかで「相手が生き生きとすごしてくれるためなら自分をつぶすこともいとわない」と思っている自分に気がつきました。そうではないだろう・・・、ケアを必要としているのは自分だ、満たされるべきは自分だ、自分が満たされないのにどうして相手のことが尊重できるだろうか・・・。恋愛でも仕事でも何でも、自分が自分をまず大事にしなくてどうして人のことを大事に出来るのか。そう思い至った時今度は別の考えがはじけます。自分は援助しようと思って人に近づきながら本当は援助されたがっていたのではないか。自分で自分をケアすることを怠り、人にケアしてもらおうとばかり思っていたのではないか。

ついこの間まで「自分が生きることで一人でも楽に生きられるようになれば、生きる価値がある」と思っていたのですが、これではだめです。「自分で自分を活かす」ことを考えなければ・・・。

これは、実は自立の一歩です。自分は今まで人に依存してきたのです。自分で自分を支えるという当たり前のことにいまやっと踏み出すのです。「自分をつぶして人に尽くす」というのは共依存関係そのものであることにやっと気がつきました。

だからどきどきしているのです。自分で自分をケアする、生かすという未知の事をしていかなければなりません。病気というハンデもあります。正直少々びくついています。

ゆっくり慣れていくしかないのでしょう。それこそ、これに気がつかなかったらずっとモラトリアム状態を続けていたわけで、そこから少しでも違う方向に体を向けることが出来ればずいぶんと違うものが見えてくるはずです。あせらずに、少しずつ「病気とともに生きる」(にしまるせんせは病気を人格化するのはクレイジーだといいますが・・・ってわからないですよね)「自分で自分をケアする」「自尊心を持つ」ということをやっていきます。ACは自尊心が低いといわれていたけれどこういうことだったんだ・・・やっと納得です。

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コメント

AC、共依存症、どちらもこれまで生き延びようとしてきた複雑なこころのメカニズムから、そうなったもののなのです。よく生き延びたとまず自分を認めなくては・・と思っています。

わたしも共依存であったことに気がつき、そのあとも、ついついがんばり過ぎちゃうときに、
自己チェックを、するように、なりました。

それはこういうものです。
「自己の問題か、相手の問題か。
そして相手の問題であるにもかかわらず関与しようとする自分とは何なのか。
それでも関与しようとする自分をみつめよ!
それは相手への励ましか、それとも慢心か。
相手のとっての意味をまず、第一に。」

ゆっくりゆっくりだと思います。

投稿: パセリ | 2005/11/20 19:53

パセリさん、こんにちは。

ACだった人のことを「サバイバー」と呼んだりしますけれど、まさに子ども時代はそうやって感情を殺してすごさざるを得なかったのだと思います。それをいまさら嘆いてもしかたないので、前をむいてゆっくり行くしかないですね。自分中では「おいおい、今からスタートかよ?」というあせりもありますが・・・。

パセリさんの自己チェック、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

投稿: なんちゃん | 2005/11/21 12:08

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