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2005/09/20

あきらめることの効用(当事者性の回復その2)

前の記事の続きみたいなんですが、相手のことをあきらめるというのがどういうことか書いてみます。

べてるの家と深く関わっている浦河赤十字病院の精神科部長、川村先生は浦河に赴任する前に札幌のアルコール中毒患者専門の病院に勤めていたそうです。そこで目からうろこの体験をしています。

アルコール中毒の患者さんと言うのは、「もう飲むのをやめる」と言うとき、本気でやめようと思っているのだそうです。でもやめられない。だから中毒なんですね。例えば旦那さんがアル中の場合、奥さんは懸命にやめさせようとします。そのうち奥さんは「自分がいないとこの人はだめになる」と思ってなおさら深く沈没して行きます。これを共依存というのです。

実は治療者も共依存みたいなことになっている場合があるんですね。川村先生は医者になって3年間、熱心に取り組んだのに一人の患者さんも断酒に持っていくことすら出来なかったそうです。ところが札幌のそのアル中専門病院に赴任したら自分はほとんど何もしないのに1年目から回復する患者さんが出たのだそうです。

なにかやり方に違いがある。これまでは失敗ばかり重ねてきたと仮定して、成功例を見たとき、失敗したことの意味が分かってきたんですね。アルコール依存症の場合は、まわりが一生懸命やればやるほど、本人は問題に気づかないようになっていく。責任や問題の後始末を誰かに委ねるというアルコール依存症特有のパターンがあって、医者として一生懸命やりすぎ、まんまとそのワナにはまってしまっていたんです。(「降りて行く生き方」横川和夫著 太郎次郎社)
その失敗を通じて川村先生はやり方を変えます。
大工の寺さん-寺澤繁さんは川村先生が札幌でアルコール依存症の専門医として活躍していた頃の患者さんだ。寺さんの話によると、その頃から川村先生は変な先生だったらしい。お酒をやめなさいなんて金輪際言わない。お酒を飲むのはあなたの自由だし、やめるのもあなたの自由だと言うのだった。寺さんはその言い種に閉口して、ぷっつりと酒を断った。
寺さんの話によると、アルコール依存症の人は誰かが自分のことを心配してくれるかぎり、お酒をやめることができないんだそうだ。寺さんの場合もそれはあなたの問題でしょ、と突きつけられてはじめてお酒をやめることができたんだという。(「とても普通の人たち」四宮鉄男著 北海道新聞社)


つまり、相手の世話を焼くのではなく相手の問題は相手の問題として返してあげることで、当事者はやっと自分の問題として受け止め自分でどうすべきか考え出すんです。

自分も終わりの頃は親に対して共依存状態でした。この馬鹿親、自分がいなかったらどうなるんだろう。一生面倒見続けなければならないのか、と思って絶望したこともあります。現在彼らは離婚調停をしてそのうえで一緒にいることを選択したので、自分としてはとてもすっきりしました。彼らは彼らのために一緒にいることを選んだので、自分のためではないことがはっきりしたからです。それでも未だに彼らは自分を心配すると言う口実で、実は逆に自分に甘えてきますけど、病気が悪くなるからやめてくれといって放置しています。

精神疾患を持つ人は医者や親から何も出来ない人として扱われます。おかしな話ですが、「責任能力が無い」と言う理由で日本の法律は精神障害があると罪を問いません。すごくおかしい。精神障害があろうと無かろうと同じ人間です。罪は償わなければなりません。同じように精神障害があろうと無かろうと本人の意向というのはあるのです。それなのに暴れる患者さんを無理やりだまして精神病院の閉鎖病棟に入れるなんて事が未だに行われているのは異常だと思います。もちろん緊急を要する場合はあるでしょうが、入れっぱなしでよだれがたれ続けるほど薬を飲ませて何が病院か。何が医者か。何が保護者か。(24日追記:これは言いすぎでした。自分は急性期の患者さんと直接接したことがありませんから反論されたらぐうの音も出ません。でも元気な統合失調症の患者さんや躁うつ病の患者さんとは交流があります)

この国では子ども達に対して全く同じことが行われています。べてるの本のひとつを書かれている横川和夫さんは、共同通信の記者として主に青少年問題を扱ってきた方でした。その横川さんはこんなことを書かれています。


かつてオランダの学校教育を知るために、メディア数社の論説・解説委員とともに、オランダの教育省や学校を見学したことがある。ちょうど日本では、厳しい校則が問題になっていたときだった。
 行くさきざきで「校則はありますか」と言う質問をくり返した。どこに行っても校長からは同じような言葉が返ってきた。
「校則はあります。それは『人間らしく行動すること』ということです」
 驚いて、「それだけですか」「人間らしく行動するとは、具体的にどんなことですか」と、私たちは矢継ぎばやに質問した。
「それは生徒が自分で考え、自分で決めることです。あまり細かい規則をつくると、生徒は自分の頭で考えなくなるので、つくりません」
 このオランダの中学校長の言葉は、日本の学校教育が、生徒の当事者性をいかに奪ってきたかをみごとに浮き彫りにしてくれていると思う。(「降りていく生き方」横川和夫著 太郎次郎社)

「朝2時おきで何でも出来る」と言う本を書かれた通訳者であり、今は環境ジャーナリストの肩書きを持つ枝廣淳子さんは著書の中で、「勉強しろと親に言われたことは無い。代わりに『あなたが持って生まれた才能を生かすも殺すもあなたしだい』と言われた」と書かれています。それで自分でいろいろ工夫しながら勉強されたそうです。

一度、相手(親、子ども、夫、妻、隣人、上司、同僚etc)をあきらめてみたらどうでしょう。嫌なところ、だめなところも丸ごとその人そのものであると認めてあげてはどうでしょう。

最後にべてるの本の中から印象的な言葉を引きたいと思います。

そして気づいたのは、私はべてると10年かかわるうちに、人を選ぶということにひどくいい加減な人間になってしまっていた、ということだったのです。  かつての私は、どうでもよい些細な事柄でまわりの人間を峻別しては、嫌ったり嫌われたりして人間関係をこじらせてしまうのが得意でした。その私が「選ぶ」と言う行為を放棄してぼんやりしてしまっていたのです。それは無意識のうちに、人生でどんな人と出会うかは、実は選べそうで選べないことだと思うようになった自分と出会うことでした。これは、なかなか愉快なことでした。(小山直さん、マルセイ協同燃料・社長  「べてるの家の「非」援助論」 医学書院)

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