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2005/09/19

あきらめる

わさびさんが、とっても愉快な記事を書いていたのですてきな奥さんなれるかな: 怒らない。.これにトラックバックです。

最近自分は「べてるの家」のとりこになっています。べてるの家について詳しくはこちらを鳩ヶ谷雑記: べてるの家.どうぞ。

べてるの家にまつわる本は何冊もあるのですが、みんな面白いです。思わず吹き出すこともしばしば。最近これくらい笑わせてくれる本は無いなと思うくらいです。しかし単に面白いわけではないんです。笑いの裏には登場しているべてるの家の住人のみなさん(精神障害があって、入院歴のある人ばかりです。軽症の人だけでなく重症の人もいます。実家に火をつけて全焼させた人もいます)が、発病前にかなり厳しい人間関係の摩擦があって、それで苦労した上で、発病したら今度は違う意味でとても大変な目に合っているんです。そういう地盤を踏まえたうえでのおかしさが、自分を吹き出すほど笑わせてくれるのです。

自分は、前にもちょっと書きましたが、人生をあきらめました。あきらめるというのは投げやりと言う意味ではありません。「自分が病気であることを丸ごと全部引き受ける」と言う考え方です。うつ病や統合失調症、躁うつ病、アルコール中毒など、これらはほとんど体からの信号です。「この生き方では自分の体が持たないよ」と体が、脳が信号を出しているんです。あるいはあまりにも辛い人間関係などから身を守る為に逃避しているんです。まともに生きようとするとあまりにも苦痛だから。自分は両方かなと言う気がします。両親から逃避する為にワーカホリックに走っていたようなところもあります。

あきらめるというのは、周りの支援者にとっては「病気であるその人をそのまま丸ごと受け入れること」です。この定義はべてる流の定義として「べてるの家」のビデオを撮影した四宮鉄男さんが「とても普通の人たち」(北海道新聞社 2002年)と言う本にまとめていらっしゃいます。

これを応用しましょう。先日も取り上げた児童精神科医の佐々木正美氏が「子どもへのまなざし」(福音館書店 1998年)で、こんなことを書いています。


幼い子どもが、はじめて出会ったことにたいして、「どうすればよいのかな」とふりかえったとき、親や祖父母や保母さんや幼稚園の先生などの視線が、かならず見守っていてくれて、そして、どうすればいいのか教えてくれる。そういう過程をとおして、幼い子どものなかに育っていく人間的な感情や感性を、ソーシャル・レファレンシングとよんでいます。(中略)どうしようかなとふり返ったら、だれも自分を見ていてくれなかった。そういう経験を度重ねてきた子どもには、大きくなったときにソーシャル・レファレンシングの感性が、いろんな意味で育っていないと言うことが分かったのです。(中略)ソーシャル・レファレンシングは人間が社会的なルールを守りながら生きていくために、その基盤をなす重要な感情であるともいえます。人と人が共感しあって、そのことを誇りと感じあって生きるために必要な感情なのです。

そして、ソーシャル・レファレンシングの感性が育っていないと例えば「自転車を放置しないでください」と言う看板が立っていても平気で無視して止める。高速道路で渋滞していてみんな辛抱して待っているのに、路肩をビュンと走っていってしまう人がある。そういうふうに「いけない」という社会的コンセンサスがあるにもかかわらずそれを守れない人になると言っています。確かにこういった人に注意しても何が悪いと言う顔をするでしょう。


ソーシャル・レファレンシングというのは、誇りの感情、人間としてのプライドをみんなで分かち合うことなのです。(中略)そういう誇りの気持ちや感情というのは、無い人にはどうしたってない。どんなに説教したってそうするものだといったって、急にそういう気持ちを持てるものではないですね。それは幼いときから、じっくり育てられてくるものです。

ということは、こういう人達にムッとして自分がいらいらしてもその分だけ無駄なんです。その人たちの個性のひとつになってしまっているんです。だからもうそういう人はそういう人として受け入れてしまいます。あきらめるんです。腹を立てないというのは、自分が気持ちよく過ごす為に必要な方便だと思います。それでもやはり不愉快ですよね。自分は例えば電車の中にごみを放置する人がいると黙ってそれを持って駅のゴミ箱に捨てます。よほど自分の気持ちがいらいらしてしまう時に限られますが、タバコをポイ捨てした人がいると、吸殻を拾って灰皿までもって行きます。いらいらした感情を持っていると自分が損なんですよね。できればそういう人たちの目に留まるように捨ててあげると効果大と言う気もしますけど。何も言われずただ自分の不始末を処理されたら、その人も少しは「あ!」と思うかなと・・・。そういうことが繰り返されるときっとその人もポイ捨てなどしなくなるでしょうけれどね・・・。ルールだ、規則だといって注意するよりよっぽど効果的と言う気もするけど・・・まあ、なかなか難しいですよね。

自分が後始末をするのも義務感を持つと辛いので、いつもするわけでは無いです。気分しだい。でもすっきりするものですよ。お試しあれ。

だからわさびさんが怒らないというテーマで書いていることは、もっと普通にやったら良いと思います。茶化しというかユーモアのセンスで受け止めた方が自分の精神状態にとってもプラスだと思います。

親が自分の子どもに十分かまっていられない状態が続いていますから、ソーシャル・レファレンシングが育っていない人はこれからまだまだ激増するでしょう。「あの人は病気だ、かわいそうに」くらいに思って、自分はルールを守る。それこそ人間として持つべきプライドだと思います。

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