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2005/07/24

語り継ぐ

これを書くと、自分が勤めていた会社がどこだかお分かりになる方もいるでしょう。自分が勤めていた会社は実は千日前デパート火災という惨事を引き起こしたことがあります。昭和47年5月13日、先日のJR事故並みの死者118人を出す大惨事でした。会社にはそのときの模様を綴った記録があり、主に幹部社員は今でもそれを1度は読んでいると思います。毎月13日と5月の13日を含む1週間は防災の日とされて、パート社員まで、ワッペンをつけたりすることでその記憶を風化させないようにと取り組んでいました。当時は、一小売業の会社が多くの被災者を出す惨事を引き起こして、会社が存続するかどうかと言うところまで行ったそうですが、その後の社員の頑張りで後に大手の一角に名を連ねることになりました。バブルが起きる前に一度経営が悪化し、同じ大手のチェーンと合併するという話もありましたが、そのときも社員が奮起し難局を乗り越えてきた経緯があります。

自分は千日前デパート火災のときまだ3歳でした。でも物心付く頃にはなんとなくそういう名前の災害があったことだけは知っていました。入社してから新入社員教育で、その惨事を出した会社が自分の入社した会社だということを知らされた時はちょっとショックでした。

後に労働組合の非専従役員になったときの研修で、惨事の模様を綴った記録を自分も読まされました。店は今だと雑居ビルに近いイメージのビルだったようです。下層の部分に店舗がありましたがすでにその日の営業を終え閉店していました。一番上の7階にはナイトクラブみたいな飲食店があったそうです。火元は店舗が閉店したあと内装工事をしていた業者の工具で、漏電が原因でした。最上階にいた人々が、煙で火事に気が付いたときにはすでに手遅れの状態でした。当時は今と違ってあらゆるビルの防災設備が不十分でした。防火シャッターもない、非難袋もない、ないない尽くしでした。多くの人が煙に巻かれ、あるいは熱さに耐えかねてビルから飛び降りた人もたくさんいました。結果的に未だに語り継がれるほどの惨事になってしまったのです。

翌年熊本で太陽デパートビル火災と言う惨事が起こりました。これも100人以上の死者を出す大惨事になりました。これらの火災を契機に商業ビルの防災設備が整えられてきた経緯があります。

関連ホームページ商業施設士.
耐熱盤認定の背景と根拠.
【トステム鈴木シャッター】シャッターの歴史.

ほかに工具メーカーが、工具の漏電防止技術を開発したりしています。

最近では1990年3月の長崎屋尼崎店火災、先日のドンキホーテ浦和花月店と放火(それも寝具売り場)により従業員が亡くなる火災が続きます。神戸新聞Web News NEWS&ニュース

自分の勤めていた店では年に二回棚卸の日に地元の消防署を招いての防災訓練が行われていました。ただちょっと気がかりだったのは、いつもパート社員がお客様で社員が誘導係という役割での訓練でした。棚卸の時はほぼ全員が出勤している体制ですが、普段はローテーションで休みを取っていますからパートさんの力を借りなければお客様の誘導は難しいと思っていました。ですから、定期的に役割を入れ替えることも必要なのでは?と感じていました。また、どの時点で社員が退避すべきかもいつも考えさせられることでした。本当にお客様が全員逃げられたかの確認と自分の避難はぎりぎりの判断が必要でした。ドンキホーテの火災では、従業員が非難した後、逃げ遅れた客の探索の為3人が再度売り場に入って亡くなっています。あのきもちは自分には痛いほど良く分かりました。

幹部社員だけでなく多くの従業員があの千日前デパート火災の記録を読むべきだと思いました。そうやって語り継いでいかないと、再び同じ過ちを繰り返すことになりかねません。

JR西日本は過ちを2回繰り返してしまいました。信楽高原鉄道内でのJR臨時列車の衝突事故以降、事故の記憶はどこかで語り継がれていたでしょうか?語り継ぐことがおろそかになっていたために、先日の脱線転覆事故が起きた側面は無いのでしょうか。


実は語り継ぐことの大切さを感じたのは、6月23日の沖縄戦終戦の日のNHKラジオ「土曜ジャーナル」の特集でした。沖縄にひめゆり記念館(ひめゆりの塔)というのがあることは多くの方がご存知だと思います。ここでは当時をしる語り部の方がおられて、展示だけでなくじかに体験を聞くことが出来るのです。しかし戦後まもなく60年という時間を重ね、語り部の方の高齢化は進むばかりです。記念館では語り部の方の話をビデオに収録したりしていました。しかし館長の本村つるさんはそれだけでは不十分だと考えていました。やはりビデオからの語りかけと生身の人間の語りではインパクトに大きな差がある。

本村さんは沖縄の大学で沖縄戦をテーマに勉強していた仲田明子さんに目をつけました。彼女に語り部役を引き継いでもらおうと思ったのです。仲田さんは記念館の一員に加わりました。しかしどうやって彼女に語り継いでもらうかと言うことで本村さんは考えました。仲田さんにはすぐに館内に出てもらうことはせず、長い時間をかけて語り部の人たちと共に過ごすことで、うわべの事実だけではない出来事の悲惨さを伝えようとしていました。しかし本当に伝わるのかと自分に問いかける日々が続きます。仲田さんも戸惑っていました。

そんな折、ポーランドのアウシュビッツ記念館で30代の日本人の語り部が入るという話を耳にして、本村さんはポーランドに飛びました。彼と話すことで本村さんは仲田さんにも語り継いでもらえるという手ごたえを感じました。

本村さんは、戸惑っていた仲田さんに、語り部の人たちにどんなことを教えてほしいかと言うことを改めて尋ねてみました。仲田さんの答えは意外でした。仲田さんは体験のことではなく、どうして語り部の人たちがつらい記憶を手繰り寄せて話すことをはじめたのかということを質問したのです。

そこから仲田さんは戦時中のことだけでなく語り部の方の生きざまそのものを吸収しようと、いっそう語り部の人たちとともにする時間を大切にし始めました。そして今までの生きざままで知ることで、やっと自分自身が語り部を引き継ぐことが出来るという自信を得ることが出来るようになったといいます。

私たちは失ってはならない過去の記憶を沢山持っています。戦争体験、惨事や地震の体験、あるいは民間伝承や民話など。それを語り継いでいくことはとても大事です。しかし、コミュニケーションが以前より希薄な現代、語り継ぐという行為はそうそう簡単なことではありません。語り継ぐべき事柄のうらに語り部の生きざまがあり、そこも含めて理解していかないと本当に語り継いだことにはならないのでは、と思います。

語り継ぐことの難しさに、しかし私たちは取り組んでいかなければなりません。

#書き始めから1ヶ月もたってしまいました。若干記憶のあいまいになった部分もありますが、ご意見、ご指摘お待ちしています。

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