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2005/02/21

自分の宗教観について

初詣のときにちょっと書いたのですが、自分の宗教観について書いてみたいと思います。

初詣のとき、東京なら明治神宮に行く人が多いですよね。でも自分は絶対行きません。初詣は地元の鎮守の神様に挨拶に行けば良いはずなのです。なぜなら神社はその管轄のようなものが決まっていて、そこに住んでいる人はすべて氏子と言う考え方だからです。東京なら神田明神と水天宮と鳥越神社と富岡八幡と・・・それぞれこの地域はどこの氏子と言うことが決まっているわけです。お祭りの時にはそこの氏子がお金を出してみこしを担いで・・・と言うことになるはずなのです。

神社のタイプはいくつかに分けられると思います。 Ⅰ郷村の鎮守様(これは以下に掲げる神社が鎮守になっている場合があります)  Ⅱ神話上の神様を祀る(伊勢・出雲。武蔵の国一宮である氷川神社は出雲系に属します)  Ⅲ火防せ、水よけなど地域の災厄を逃れるよう祀られるもの(愛宕神社、秋葉様などは火防せの神様です)  Ⅳ山岳信仰にまつわるもの(富士浅間神社など)  Ⅴ武将や軍神を祀るもの(鶴岡八幡を始めとする八幡神社、武田神社など。東郷神社などもそれに入れていいのでしょうか) Ⅵ道祖神やおしらさまなど民俗学的な神様

専門家に言わせると見当違いの分類かもしれませんがこんな感じでしょうか。いや、もうひとつ Ⅶ太平洋戦争での戦没者をまつるもの があります。しかしこれは自分には例外的なものと思えます。死者は仏にはなっても神になることはなかったのです。唯一この戦争の戦没者だけを神として靖国神社や各地の護国神社で祀っているのは、そうなると解釈してもらわなければ国家が遺族に対して「無駄死にではなかった」と思わせることが出来なかった為の特殊なものとしか思えません。ですから自分は靖国神社にはお参りしません。墓地の中を歩くときのような、なんともいえないぞくぞくした嫌な感じがするのです。

さて、自分は神社だけでなくキリスト教会にも出入りするようになっています。特に自分の場合はカトリックですが、今の自分には聖書が哲学書のような位置づけにあります。神道は経典がありませんし、信仰を通して何かを分かち合ったりと言うことはないのですが、キリスト教会には分かち合いというのがあります。聖書について、あるいは自分の日々の体験や考えを分かち合うことによって他人のことを深く知ることができますし、振り返って自分を知ることにもなるのですね。これがとても新鮮な体験なので、今、自分は洗礼は受けていない求道者のような立場でカトリック教会と付き合っています。

お寺は仏様になった先祖をしのぶというのか、敬うというのか、そういう気持ちで行きます。他にもお寺には聖書とは違う日本的な戒めや教えがあってそれを味わったりする場でもあります。特定の宗派には属しません。両親それぞれ宗派が違いますし、それを意識して生活することもないです。

まとまりがないのですが、こんな宗教観を持って自分は生きています。

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